5 プリンセス
5 プリンセス
離陸して、ベルト着用サインが消え、立ち歩く人の姿が見られるようになっても、まだしばらく硬直してた。
でも人間というものは、あまり長いこと緊張しつづけてもいられないみたい。だんだんと、目の前にあるディスプレイをいじってみたり、ちょっとだけ席を離れてトイレの場所を確認したり、余裕が出てきた。
だって何も起きないから。
飛行機は揺れないし、誰もあたしに話しかけない。
ああ、今朝「行ってきます」と口にしてから、あたし、はじめて背中の力を抜いているかもしれない……。
なんて油断していたところに、ドリンクとスナックを配りにきた。
この辺りの座席担当のキャビンアテンダントさんは、残念ながら日本人スタッフではなく、真新しい十円玉みたいな色の髪をシニョンにまとめた若いおねえさんだった。メイクで隠しきれないそばかすが頬いちめんに散らばってる。あたしは彼女をアンさんと命名した。
飲み物は何がいいですかと英語で尋ねられたんだけども、出発前にさんざん暗記したはずの「温かい飲み物は何がありますか?」が出てこない。
「え……えっと、ディスワン、プリーズ」
しかたないから、アンさんが手にしている茶色い液体の入ったポットを指さした。
飲んでみたら冷たい紅茶だった。
次はちゃんと頑張ろうと、次の機内サービスまで「旅の英会話」を開いて口の中でブツブツ言っていた。
次は食事で、「ビーフかチキン」でチキンを選択。飲み物はコーヒーを頼んだけれど、また通じなかった。で、「ティー?」と聞き返されたので、それにした。
変だなあ。緊張のあまり、声がうわずっているのだろうか。日本式発音になっちゃっているのだろうか。
次の食事のときには、先生に教わった発音を思い出しながら、慎重に「カフィー、プリーズ」と言った。
すると、「ティー?」と聞き返してくる。
「カフィー、プリーズ」
「ティー?」
これを三回くらい繰り返して、ようやく気がついた。
変だ。コーヒーとコーラならともかく、どうしてコーヒーとティーを聞き間違えるんだ。
見上げると、アンさんと一瞬だけど目があった。すると、わかってしまった。アンさんが実はとってもイライラしてるんだってことに。
今日は混んでて忙しいの、この子英語へた、いちいち聞き取るの面倒なのよね、飲み物はとにかくティー出しとけばいいや、なんかごちゃごちゃ注文しても「ティー?」と聞き返せば黙るでしょう。
英語が通じない理由、発音だけじゃないんだ。相手に聞く気が無ければ通じない。
あたしは負けないぞという気迫をこめて声を出した。
「カフィー、プリーズ!」
「……オーケー」
不承不承コーヒーを取りにギャレーに向かったアンさんの背中を見ながら、小さくガッツポーズをした。紅茶は手にしたポットからサーブするけれども、コーヒーはギャレーから持ってくるようだ。だからなるべく手間のかからない紅茶にさせたかったんだろう。
でもあたしは、紅茶よりコーヒーが好きだし。それにさっき見てたもの。あたしの前の列のおじさんがコーヒーを希望したときには笑顔ですんなり持ってきてたもの!
ちいさなくすくす笑いが聞こえた。
横を向くと、プリンセスが優雅に微笑み「グッジョブ」と囁いた。
「さ、さんきゅう」
次いで、ゆっくりした英語で、どこから来たの、と尋ねてきた。
「ア……アイム、フロム、サポーロ」
プリンセスは札幌を知っていた。クロックタワーにスノウフェスティバルにグラスファクトリー。ちょっと違う。けど、まあいいや。
次いで、あなたの親はどこにいるのですかと聞かれたので、私は一人で旅行しています、と答えた。すると、目をまん丸にして「本当に? あなたは若すぎる!」みたいなことを口走った。
知らない人には、あたしって中学生か高校生くらいに見えるらしいんだけど。それでも海外一人旅は早いと思われるのかな。それとも東洋人は若く見られるそうだから、プラスマイナスで年相応に見られてるのかな。
イリーガルという単語も聞き取った。
難しい言葉だけど、知ってた。エレン先生に言われた。「夏休みに一人でイギリスに行かされるかも」と言ったら、「よく調べたほうがいい。あなたはイリーガルエイジではないのか」と。法律で定められている年齢のことだって。お酒やたばこと同様に、一人で国際線に乗るにも年齢制限があるのだ。内心「やった!」と叫んだが。
ネットを駆使して調べてみた。年齢制限は確かにある。航空会社によってちょっと違うけれど、おおむね「十二歳以上」か「十二歳を超えていること」が条件だった。
ちなみに「十二歳以上」は十二歳を含むけれども「十二歳超え」は十二歳を含まない。「十二歳以下」は十二歳を含むけれど、「十二歳未満」は十二歳を含まない。知ってた? あたし辞書ひいちゃったよ。
もしも誕生日前だったなら、保護者も一緒に行きましょうねコースか、せめて成田空港まで送ってねコース、どちらかを選ばなければならなかった。
でも、あたしは先月めでたく十二歳の誕生日を迎えちゃった。
まだ誕生日が来ていない同級生達と、自分と、何が違うのか全然わからないけれども。微妙な線を一歩だけ踏み越えていた。ちっ。問題なく乗れちゃうのだ。
しかしまあ事情をすべて英語で説明するのは難しいので、オーバートゥエルブは飛行機にアローンで乗ることができる。私はトゥエルブである、とだけ答えた。
しかし、いくら法律が勘弁してくれても、海外旅行には他に旅行経験とか人生経験とか語学力とかが必要なはずで、だから「あなたが一人旅!」と驚く人の気持ちはよくわかる。
それから、どこに行きたいかとか、何が楽しみかとか定番の質問を幾つかされた。
あたしの拙い返答に、プリンセスは優雅に頷いて、「アイ、シー。サンキュウ」とほほえんだ。質問タイムは終わりらしい。
手のひらの汗をこっそり上着でぬぐった。うわー英語しゃべっちゃったという興奮と、陛下のご下問にお答えしちゃいました的な緊張が、同じくらいあった。