4 英語の世界
4 英語の世界
じりじりと搭乗口へと吸い込まれていく列の中で、たどたどしく携帯端末を操った。こ あたしはこれまで携帯端末を持っていなかった。必要を感じなかったからだ。だからこれは今回の旅行のために買ってもらったレンタルのやつ。なかなか使い慣れない。
メールの内容は、『これからヒコーキに乗る』。宛先はお母さんの携帯端末とおじさんのパソコン。
電話にしないでおいたのは、集中力を途切れさせてしまっては悪いから。いま、きっとそれどころじゃないだろうから。
空港行きのバスに乗るのに都合がいいからと、夕べは大通にあるおじさんちに泊めてもらった。またの名を、仕事場。ファミリータイプのマンションの、主寝室がおじさんの私室。リビングが仕事場。あとはアシスタントさんたちの休憩室と、資料部屋。
誰もが試合中のアスリートみたいな顔で丸ペンをカリカリいわせていた。こうなるともう戦いだ。時間と人手と予算、どこまで折り合いをつけ、どこまで注ぎこめるかの。
とてもとても、「せめて新千歳空港まででいいから一緒に来て」とさえ口にできるものではなかった。思わず流しに積み上げられていた食器を洗ってしまったくらいだ。扶養家族としてはね、このくらいやらないと。
鞄を持って「それじゃあ行ってくるね」と立ち上がったとき、お母さんは「行ってらっしゃい、気をつけてね」と言った。一瞬、これから行く場所が学校であるかと錯覚したくらいの、いつもどおりの顔で。
この何ヶ月は、よほど気の張る場面に取りかかっているのか、なんかやせた。家にいても娘の旅支度を手伝うでもなく、資料を眺めているか中空を眺めているかのどっちかだった。
対照的におじさんはおろおろしてた。財布の持ち方だの道の歩き方だのといった旅の心得をくどくど語り、しまいには隣で聞いていたアシスタントさんが笑い出した。「先生、ロンドンはそこまで治安悪くないすよ」
あたしが行くと決めてから、おじさんは新しい鞄を買ってくれた。領事館に問い合わせて入国審査に必要な書類を揃えてくれた。海外での振る舞いかたレクチャーをしてくれた。
でもついに「行かなくていい」とは言ってくれなかった。
ということはやっぱり、あたしはどうしても行かされなくてはならないようだった。紅茶の国へ。
ゲートの前にいたキャビンアテンダントのおねえさんは、どう見ても日本人ではなかった。ゲートを通過した先にあった通路には、新聞がたくさん並べてあった。英語だった。
「乗って降りるだけのこっちゃ。死にゃあせん」
小声で呟いたものの、やっぱり怖い。
ついに、だ。あたしは大きく息を吸って、お腹に力を入れた。英語の世界が始まるのだ。
ここまでの道のりも大変だった。でも日本だった。わからなくなれば人に聞けた。ここからは、それさえ難しい。
せめて日本の航空会社の飛行機だったらなら。そしたら「道中の気がかりリスト」がひとつ少なかったのに。
ついでに新千歳空港から成田への便と、成田からロンドンへの便を同じ航空会社の便で揃えておいてくれたなら、いったん羽田に降り立ってシャトルバスで成田入りするなんて無意味に遠回りなコースでここまで来ることもなかった。
お母さんは、知らなかったのだ。日本の航空会社であったなら、たとえロンドン行きであっても機内では日本語が使われるのだとか。新千歳空港発着便には成田空港行きもあるのだとか。
うちのお母さんというのは、そういう人なのだ。健気な娘が藻岩山のジャンプ台から飛び降りるような覚悟で一人旅を決意したというのに、無知とうっかりミスで意味なく旅路の課題を増やしてしまうような。
しかたない。これは、お母さんがどういう人かわかっていたのに切符の手配を任せたあたしのミスだ。
こうした手抜かりで後から大変な思いをさせられるからこそ、クリーニングの受け取りも家賃の振り込みもゴミの分別もすべてあたし自身でやってきたというのに。
さすがのあたしも航空券の購入は未知の経験で、自分でやるのは不安があったのだ。
ぎりぎりまで迷っていたのもまずかったし、取材や打ち合わせでおじさんが札幌にいなかったのは不運だった。
もっとも、お母さんが英語というハードルを度外視したのはそれなりの理由がある。
あたしは英会話を習っている。かれこれ五年。ちょっとだけ話せる。
ただ、月謝を払い続けてくれた人には申し訳ないけれど、英会話歴五年は海外旅行のためには微妙なスキルだと思う。
ピアノを五年やったらソナチネくらい弾ける。バレエを五年やったらトゥシューズで踊れる。でも英会話の五年って、ねえ。
そりゃあ、英語を教えてくれるエレン先生とは英語でおしゃべりしてる。でも日本人と結婚して十年のエレン先生は、たぶん日本人に聞き取りやすい英語を話すのに慣れている。亀のお散歩みたいな手加減英語だ。兎の全力疾走みたいな本物のイングリッシュとは、まったく別のものだろうと思われた。
聞き取れなかったら、どうしよう。何を言っても首を傾げられたら、どうしよう。立ちすくむ自分の姿が見えるような気がした。
自分の座席を見つけて腰をおろしたけれど、生きた心地がしなかった。ベルトが鎖に思える。これから半日以上、学校にいるよりも長くここに座っていなくてはならないなんて。
「イクスキュズミー」
頭の上から澄んだ声が降ってきた。
見上げるとそこに、モデルか女優か妖精かいうような、超絶美人なおねえさんがいた。
後光が差して見えた。きらっきらの金髪だから。
ぽかんと見とれてしまうあたし。
そんな反応は慣れっこなのだろう、にっこり微笑むおねえさん。
あっそうか。おねえさんは窓側の席なんだ。あたしは急いで立ち上がろうとし、がくんとシートベルトに阻まれた。なんてまぬけ。
なんとかあたしが立ち上がると、彼女は「サンキュウ」と優雅な仕草で席についた。
あたしは心密かに彼女をプリンセスと呼ぶことにした。
もしもこの人が女優さんだったなら、あたしが監督なら王女様の役をふる。むかしむかしあるところにで始まるような世界の。
これほど完璧な顔に生まれつくというのは、どんな気持ちがするものだろう。出会う人ほぼすべてにひとめで好意を持たれてしまうというのは。あたしでさえ、目の前に立たれるだけでめろめろになってしまったのだもの。
……なんてことを考えていたら、いま飛行機の中にいるんだ、これから飛び立つんだ、という緊張が、ちょっとだけ紛れた。