2 ロンドンに行ってくれないか
2ロンドンに行ってくれないか
今度の夏休みはロンドンに行ってほしいとお母さんが口にしたとき、あたしはてっきり冗談に違いないと思った。
なぜって、これまであたしとお母さん二人の暮らしの中に「旅行」なんて言葉は存在しないも同然だったから。
さしづめ名前しか知らない外国の料理みたいなものだ。おいしいらしい。食べたことない。材料はわからない。作り方も知らない。したがって味がまるで想像できない。
これが「引越し」だったらばね、周期的にお目にかかる定番おかずのようなものだけれど。
百歩譲ってロンドンに行くことまでは仕方ないとしよう。たとえあたしが、それなりにわくわくしながらこの夏休みの予定を立てていたにせよ、だ。
一人で行けとはあまりにもあんまりではなかろうか。日本からはもちろん、隣の市にさえ一人で行ったことのない小学生のあたしに。
そんなわけで、あたしが「いったいどうしてロンドンなの。なんのために行かなくちゃいけないの」と問いただすのは無理からぬことと申せましょう。
戻ってきた答えが「行けばわかるから」だったりなんかしたら、「いやだ行きたくない」なんて返事しちゃうのも。
お母さんは、あたしが一度「いやだ」と言ったらめったに意見を変えないと知っている。自分がそうだからだ。だけど今回ばかりはなんだかおかしい。蒸し返すのだ、何度も。
そのくせ、詳しい話を聞こうとすると苦しそうな顔をして口をつぐむ。
事情があるなら、きちんと説明してくれたらいいのに。あたしだって話のわからない子供じゃないのだから。なのに言わない。
お母さん。お母さんらしくないお母さん。同級生のお母さんたちより、うんと若い。それでも三十路にはなっているはずなのに、ひょっとすると女子大生にも見える。
就職した経験がないからなのか、職業柄たえず現実とはかけはなれた光景を思い浮かべているからなのか、現実と折り合いが悪い。
これまでもあたしの生活に、悪気は決してないのだけれど、世間知らずゆえの非常識爆弾を投下してきた。
そこであたしは攻略先を変えた。
おじさんに相談を持ちかけたのだ。あのね、お母さんがね、あたしひとりでロンドン行けって言うの。無茶苦茶だよねえ。
おじさん。お母さんのお兄さんで、あたしにとってはお父さんみたいな人。職業のわりには現実に足をつけて生きているおじさん。就職した経験があるからか、お母さんがああなので自分がしっかりしなければと思うからなのか。
お母さんが投下する非常識爆弾を、あたしのかわりに迎撃してくれる人。……だった。これまでは。
きっと、「ロンドンなんか行かなくていい」もしくは「連載が終わってからゆっくり連れてってやれ」と言ってくれるだろうと思った。連載さえ終わったなら、普通の勤め人よりもずっとまとまった休みが取りやすいはずなのだ。しかもお安く行ける。
どちらも言わなかった。苦悩を眉の間に挟み込むような顔をして、それでも、「どうしても、いやか」なんて言う。嘘でしょう。
でもおじさんは、お母さんよりはもう少しましな説明をしてくれた。
「俺がいま絵真に説明してもかまわないのだけれど、たぶん俺にはうまく伝えられない。すべてをきちんと知っているわけではないから。それなら、半端な情報でいらない先入観を植えつけるよりは、向こうに行ってからきちんと説明されたほうがいいと思うんだ」
なるほど。
ここであたしは、ようやく思い至ったのだ。
あたしの二人の保護者達は、あたしを子供扱いしない。普通なら子供には話さないようなこと……例えば我が家の経済状況なんかについても、あたしに理解できる言葉できっちり説明してくれる。それは同時に子供だからという特権階級にふんぞりかえってはいられないということで、たまにきつかったりもする。でもあたしは知らされるほうが良かった。知らないよりは。
ところが二人が何をどうしても明かさない事柄が一つだけあった。そういえばあった。
困った。
好奇心はあった。
だからといって合点承知と胸を叩くには冒険の度合いが大きすぎる。
もしもあたしがもうちょっと精神年齢が低かったなら、駄々をこねただろう。お母さんが一緒じゃなきゃ行かない。
ところがあたしは、自分が置かれている周辺の状況をしっかり理解できてしまうお子様だった。
お母さんにはあたしと一緒にロンドンまで出掛けている時間など無い。本当に無い。
お母さんの仕事はなんですか。
人に聞かれたら「イラストレーター」と答えることにしている。嘘じゃない。小説の挿絵を描いたりもしてるから。
より正確に言い表すと「漫画家のアシスタント」だ。だけど漫画というものがどのように作られるのかを知らない人には、わかってもらいにくいのだ。ただの「漫画家」と、どこがどう違うのかと。
漫画家なのは、おじさんのほうだ。ストーリーを考え、人物を描くのがおじさん。背景を描くのがお母さん。あたしの年齢とほぼ同じだけの時間、ふたりはこの分担で共同作業をしてる。
締め切り間際になると細かい雑作業を請け負うバイトのアシスタントさんたちも来るけれど、基本的には二人で描いている。
お母さんが提示した出発予定日は、まさに〆切直前、通称「修羅場」の真っ最中。よほど奇跡的に進行がうまくいくのでない限り、お母さんには眠るひまも食べるひまもない。あたしにつきあってロンドンなんか行ってったら作品が仕上がらない。お母さんの仕事は誰も代われない。来月も美味しいごはんを食べたいなら、そこは納得するしかなかった。
あたしはぎりぎりまで悩みに悩み抜いた。
突っぱねるという選択肢は、許されていた。あたしが「どうしてもいや。行きたくない」と言えば、二人は無理強いはしなかったろう。
だから、最終的には自分で決めたのだ。
なんだって決意なんかしちゃったんだろう、何ヶ月か前のあたし。いまとなっては理解できない。君の予想以上に大変だよと教えてあげたい。
やめとけばよかった。