15 テムズ川
15 テムズ川
クリミア記念碑からいくらも歩かないうちに大きな広場に出た。
「ここはトラファルガー広場です。あれがネルソン提督像です」
高い鉄柱がそびえ立っている。足がすくみそうなそのてっぺんで、提督は下界を睨みつけている。あたしなら、たとえ自分の死後で、銅像であったとしても、あんなところに立たされているのはいやだなあ。
トラファルガー広場の目の前にある立派な建物が、ナショナルギャラリーだった。
ホテルを出る前に「博物館と美術館、どちらがいいか」と尋ねられ、美術館がいいと答えたので、ここに来た。
しかし入り口から眺めただけでひるんでしまうくらいに人がいっぱい。あたしは人混みが苦手なのだ。
「そういえば日曜日だったね……」
「隣のナショナルポートレートギャラリーならもう少し空いていると思いますが」
「どう違うの?」
「肖像画ばかりを集めた美術館です。エマは肖像画が得意ですよね?」
「いや、得意ってほどでもないよ」
「そうですか。賞をもらっていたのは肖像画だったものですから」
おととし、四年生の時、夏休みの宿題として描いた絵が、たまたま小中学生向けの絵のコンクールの募集要項に合っていたので、担任の先生がエントリーしてくれた。そしたらなんと、特賞をいただいてしまったのだ。
シンディ、よく知ってるな。おじさんから聞いたのかな。あまりウチの子自慢めいたことをする人ではないと思ってたけど。
「あれは、たまたまだよ。ビギナーズラックみたいなもん」
「でも、よく描けていました。モデルになった人物の、内面まで伺わせるような」
モデルになった人物とは、すなわちお母さんなわけなのだけれど。
他にも鉢植えの花だのポプラ並木だの博物館の化石だの、いろんな絵を描いたのだけれど、仕事場でお母さんの顔を描いたのが、たまたま満足のいく出来だったので提出した。それだけだ。
「エリコはまるで変わっていなかった。驚きました。まるでこの十何年もの間、歳をとっていないみたいに」
こっちの人にとって東洋人は若く見えるらしいけれど、日本人基準であってもお母さんは若く見える。現在三十代に突入したにも関わらず、女子大生にさえ間違われるのだ。
「ロンドンにいた頃のお母さんはどんなでしたか」
シンディは少し考えて、答えた。
「無口な人でした。最初は英語がわからないのかと思った。でも口を開けばきれいな言葉で答える。若い日本女性によくいる、盆栽のようなきれいに整えられた、まじめなお嬢さんに見えた」
そして、声のトーンを少し落として、続けた。
「とても、ひとりで子供を産んで育てるような大胆なことをする人には見えなかった」
それは私も大いに同意。
「よく許されましたね。何代も続いた旧い家だと聞いていますが」
何代にもわたって淀みを重ねて土台から腐れかけてる家……って言ってたのはおじさんじゃないよ。戸籍上の祖母であるところの大叔母さんの台詞。
「許してもらってはいないみたいだよ」
でなかったら、初めて会うあたしをあんな目で見下ろしたりはしなかったろう。
「黙ってたんだって。だから生まれてしばらくするまで知らなかったんだって」
「そんな。一緒に住んでいれば」
「その頃は、一緒に住んでなかったんだって。おじさんのお父さん、追い出されたんだって」
「追い出す……どうやって」
「殴って」
シンディは息をのんだ。
「うーん……ダイジェスト版だと、おじさんがひどい人みたいだね」
「そうですね。少なくとも紳士がやることには思えない」
不意にくしゃみが出た。鞄から上着を取り出した。
今朝は暖かかったので上着はホテルの部屋に置いていこうとした。でもシンディに「上着は持った方がいい」と注意されたのだ。ロンドンは一日の中に四季があるというくらい寒暖の差が激しいからと。念のためくらいの気持ちで鞄に入れたけれど、さっそく必要になってしまった。
「……ここの空気は、なんだか水の匂いがする。水をたっぷり含んでいるような気がする」
もしかしたら湿気とか湿度とか呼ぶべきものなのかも。でもなんかちょっと違う気がする。イメージ的に。湿気が高いというと、なんかじめじめ蒸し暑い感じがするけれど、ここの空気はあくまでもひんやり冷たいから。
「近くに海があるの?」
「いいえ。でも川があります。テムズ川」
「テムズ川! シャーロック・ホームズが飛び込んだ川だ!」
「そんな場面、ありましたっけ」
「アルセーヌ・ルパンだったかも」
「ルパンならパリのセーヌ川です」
「じゃあジャベール警部は?」
「それもセーヌ川。ミュージカルなら向こうにある劇場でやってますが」
「行ってみたい! あ、ミュージカルじゃなくて、テムズ川のほう」
「わかりました」
テムズ川は豊平川の数倍広かった。
なにより違うのは水量がなみなみなところだ。どっちが上流でどっちが下流かわからないくらいのゆるやかな流れを、細長いボートがのんびり進んでいた。
「この川の近くでは、冬などほんの少し先さえ見えないような濃い霧が発生するそうですよ」
「だから霧の都?」
「いえ、それは産業革命の頃の話です。石炭によるスモッグが原因です。いまはそれほどでもありません」
「へえー」
ちかごろ中国人がやたら北海道に観光に来る。向こうで大ヒットした映画のロケ地が、北海道のあちこちにあるんだそうだ。その気持、いま初めてなんかわかる。そうか、これがあの。
欄干にもたれてわくわくと川面をながめているあたしに、シンディはそうっと話を切り出した。
「エマのおじさんは、暴力をふるう人なのですか?」
あたしは驚いて、ぶんぶん首を振った。
「絶対ちがう。ちがうよ。むしろ理不尽な目に遭ってもぎりぎりまで耐えちゃう人。父親を殴ったのは、忍耐の限界だったからだよ。最初で最後だよ」
シンディの顔は晴れない。
「この話に納得してもらうためには、もう少し前まで遡って説明しないとなんないんだけど、聞く?」
「できたら、ぜひ聞かせてください」
かなり真剣にシンディは言った。ただの好奇心という感じではなかった。
おじさんが暴力をふるうような人間なのかどうかが、シンディ的にはそんなに大事なことなのだろうか?