14 エロスとクリミア記念碑
14 エロスとクリミア記念碑
幾つか目の駅で降り、ウエイアウトの表示に従って外に出た。
地上に出ると銅像があった。弓矢を持った妖精が、つまずいて「おっとっと」ってなってるところ……ではないんだろうなきっと。大きな台座に若者がいっぱい座ってた。
「有名な待ち合わせ場所です。日本でのハチ公みたいなもの。エロスと呼ばれています」
え、えろす……。思わずたじろいでしまったけれど、変な意味ではなく、ギリシア神話の愛の神の名前なんだそうだ。
このあたりは日本で言うところの渋谷原宿に相当する界隈だそうだが、街並はやっぱり古めかしい。いまにも街角からインバネスの探偵さんが現れるのではないか。救貧院を抜け出した男の子が走り抜けていくのではないか。タイムスリップ気分でうっとりしたいところを巨大な電子公告で現実に引き戻されてしまうのは、いいのか悪いのか。しかもあれ、見慣れた日本の企業名だし。
朝からこの街をいろいろ見て、感じて、溜まったものが、ふっと口をついて出た。
「イギリス人は、記念と保存が大好きだね」
一度作ったものはどこまでも使い続ける。大事にする。起きた出来事は記念碑にする。忘れない。とっておく。
「日本人は、忘れますね。古い物は取り壊し、新しく作り直して忘れてしまう」
なんだか、どきりとした。
「日本語には、そんな日本らしい言葉がありましたっけ。そう……水に流す」
シンディの口調は、非難も当てこすりも皮肉も含まれてない。だからこそ、なんか怖い。
さっきもそうだった。さらっと、「さして父親を恋しがっているようでもないのに」と言われたとき。
たとえ私たちがお父さんのことをほとんど考えなくなっていても。無理もない責められないと考えているということ、なのだろうか。お父さんの関係者である可能性が高いシンディであってさえ。
釣り合っている天秤のもう一方には何が載せられているのだろう。それを考えると怖い。
エロスから続く坂道を下ると、気のせいか周囲の日本人密度が高くなったような。
「この通りには日本の百貨店のロンドン支店があります。日本人向けオプショナルツアーはここから出発することが多いです」
日本語での会話が耳に飛び込んできたりして、ロンドンの景色を目の前にしながらも、まるで日本にいるような。
「日本の食材をおいている店もあります。ロンドン市民にも人気があります」
「じゃあ黒飴、ここでも買えるのかな」
「黒飴?」
「ううん、なんでもない」
あの子は無事に迎えの人と会えたかな。いまごろ街並みに感動したりしてるのかな。
行く手の中央分離帯に大きな塔と銅像が立っているのが見えた。「クリミア記念碑です」
クリミアというキーワードから、あたしの脳みそが引っ張り出してきた言葉があった。
「ランプを持った……」
「愛の天使。フローレンス・ナイチンゲール。向こう側にあります」
車の流れが途絶えた隙に道を渡った。
銅像がたくさん。軍人さんに混じって、古めかしい丈の長いドレスを着た女の人が、ランプを持って立っていた。
「記念と保存が好きなイギリス人は、偉人の銅像を作るのも好きです。でも女性の像は珍しいのです。たしか、唯一、これだけです」
女性の一人としてはおもしろくない話だ。
「なんでかなあ。図書室にある伝記も、女性はナイチンゲールとキュリー夫人とヘレン・ケラーくらいしかないんだよね」
「ああ、そういえば。たまに、清少納言や紫式部があるくらいで」
思わず、あたしはシンディを見上げた。
「シンディは日本にいたことがあるの?」
シンディは表情を変えないまま、瞬きだけをした。ゆっくりと、長いやつを。
「エマは伝記が好きなのですか」
「うん。伝記も好き。ミステリーも好きだし、イギリスの昔のお話も好き。アリスとか、スクルージとか、セドリックとか」
「エマの読書傾向は渋いですね。いまどきの子供は翻訳ものの児童文学など読まないと思っていました」
「あ、おばあちゃんの影響かも」
「おばあちゃん? エマの祖母はエリコがロンドンに来る前に亡くなったのでは?」
「あ、実の祖母じゃなくてね。育ての祖母」
関係でいうと、近所のおばさん。まだ東京に住んでいた頃、あたしはしょっっちゅう近所の家に預けられていたのだ。
おばあちゃんは、子供の頃に買ってもらったという児童文学全集を大切にしていた。よく読んでもらったし、おばあちゃんが亡くなってからはあたしに譲られたので、何度も何度も、数えきれないくらい読み返した。
図書室にある同タイトルの平成版と、どこがどう違うのか指摘できるくらいに。
活字の大きさやフォントが違ったり、挿絵がアニメ風だったりするのはしかたないとしても、難解な言い回しや情景描写がごっそり削られているのはいかがなものか。昔の子供のほうが賢かったってことだろうか。
カナダのお喋り娘もアメリカの四姉妹も好き。だけどあたしのお気に入りは主人公としては画期的なほど性格の悪いイギリスのつむじまがり。
もしかしたら、そのせいなのだろうか。この街を眺めていて、いつかどこかで見たような、と感じてしまうのは。
「シンディも読んだ? 子供の頃に」
「ええ。私もエマと同じ。一人で本を読んでいるのが好きな子供でした」
「日本語で? 英語で?」
シンディは、忘れてなかったのか、という顔を一瞬だけ、した。
「どちらとも」
「日本にいたことがあるの?」
「エマくらいの頃、何年か」
「だから日本語が上手なんだ」
「父が日本びいきだったので、小さな頃から私たちも強制的に習わされていました」
私たち。きょうだいがいたのかな。
「日本語ができたので、私立だけれど、ふつうの小学校に通いました。インターナショナルスクールでは
なく。そのほうがいいと父が決めたのです」
なんとなく、楽しい時代ではなかったんだなという気配が、声の感じからした。
「同級生の女の子達といても、どうしてだか楽しくない。苦痛ですらある。周囲は仲間に入れてくれようとしました。言葉がわからないせいだろうと気をつかってくれました。なのに、どうしてもなじめなくて、ひとりでいるために、図書室に通いました。かつて母国語で読んだ物語を日本語で再び読むというのが不思議な気がしました。おかげで、日本語のリーディングが早くなりました」
私立の小学校か。きっとお行儀が良くて親切な女の子がたくさんいたんだろう。そんな学校にいたら、あたしだっていたたまれなくなるかもしれない。なじめなくて。なじめないことが申し訳なくて。
「車、途切れましたね。行きましょう」
先にたって車道を横切っていくシンディの背中を見ながら、ふと思った。
もしかしたら、さっき言っていたあたしに似ている子、それからテレビが苦手な子は、シンディ自身の話だったのかもしれない。