10 異国と自分
10 異国と自分
見覚えのない天井が目に入ったので、夢の続きでも見てるのかと思った。
知らない部屋。薄暗い。隣にもうひとつベッド。枕元からミルクティー色の長い髪。
ああ、そうだった。少しずつ昨日のことが思い出されてきた。
飛行機に乗った。空港に着いた。ひったくりにあった。地下鉄に乗った。ええと、それからどうしたんだっけ。居眠りしてしまった。
降りるからと起こされ、なんとか目を開けて歩いた。けど眠くて。とにかく眠くて。
部屋に入って、なんとかシャワーを浴びたことまでは、覚えている。あとはぷっつり。
時計を見ると、まだうんと早い時間だった。でももう眠れない。シンディを起こさないようにそうっと身支度をし、外へ出た。
このホテルはたぶん、団体客がどかんと泊まりに来るようなホテルなのだと思う。大型バスがたくさん停まっている駐車場、人でごったがえしているロビー、大混雑のフロント、そんな景色がうっすらと記憶にある。
いまは静かだ。廊下もエレベーターホールも誰もいない。玄関を出ると、大型バスでいっぱいだった駐車場が、いまは空っぽ。
駐車場の向こうは庭園だった。オールドローズの間の小径があたしを招くように奥へと伸びていた。
行ってみようかと足を踏み出したとき、呼ばれた気がした。振り返ると誰かの背中が引っ込んだように見えた。
「シンディ?」
戻ってみたけどロビーは無人。気のせいだったのかな。首を傾げながら玄関を出たあたしの目の前、駐車場の向こうにあったのは、ホテルの別棟だった。
「えええええ?」
しばらくきょろきょろしてたけど、庭園なんてどこにもない。あの景色はいったいなんだったんだ。目の錯覚か白昼夢か。ただ単に出口を間違えたのか。でも。
考え出すとどこにも進めなくなってしまいそうなので、とりあえず頭の未解決ファイルに放り込んで、忘れることにした。
そして歩き出していくらもしないうち、本当に忘れた。
もしも日本だったならね、一日中だって気にしていたかもしれない。けど、ここはロンドンで、見たこともないような景色があたしを取り囲んでいる。たちまち心を奪われた。
日本であれば重要文化財とかになってちやほやされていそうな古めかしい建物ばかりが当たり前に並んでいる。街中が赤れんが庁舎。
建物の壁に青くて円い形の何かがあった。円の中に白字でチャールズ・ディケンズ、ノベリスト、とあった。なんだろうこれ。ディケンズは知ってる。読んだことある。けど。
きのう奇跡の帰還を果たした肩掛け鞄から落書き帳を取り出し、謎の青丸を描き写した。
あたしはカメラを使わない。かわりに描く。なんでも描く。目の前の景色や頭の中にあるもの、図鑑や漫画、教科書の表紙なんかも。スケッチ風だったり、イラスト的だったり、落書きみたいだったり。まあ要するに適当。使うのも、そのへんで買った落書き帳に、そのへんにあったペンや鉛筆だし。
道路を隔てて公園があった。中央にはインドの聖人の銅像が朝の静けさを見守っている。小径にはたくさんのベンチがあって、背もたれのところに「誰それの思い出に」とか「誰と誰の愛を記念して」とかっていうプレートが付いている。
誰かの愛の誓いを背に敷いて、公園の木々とその向こうの建物をスケッチした。
すごいな。外国って、こういうことなんだ。言葉が違うとか、使っているお金が違うとか、そんなんじゃない。言葉になってない部分が、違う。たとえ、世界中の人が同じ言葉、同じお金を使っても同じにならない何かが。
来てよかったという気持ちが、ようやくじわじわこみあげてきた。映像だけでは、ぴんとこなかっただろうから。一人でではなく、もう少し大きくなってからなら、もっとよかったと思うけれども。
あたしが普段いる日本の片隅の世界。日々それなりに襲いかかる敵だの乗り越えるべき壁だのは、あたしなりの重大事ではあったんだけど、実はちっぽけだったんだといまはわかる。こだわっていた自分がばかばかしくなってくるくらいには。
おじさんもそう考えたのかな。だからお母さんをこの国に送り出したのかな。
むかしむかしおじさんは、冒険の旅に出た。誰でも名前を知っているような大学を卒業して誰でも名前を知っているような会社に勤めていたのに、ある日いきなり辞表を出して、鞄ひとつだけ背負って日本を出た。いわゆるバックパッカーというやつですね。
このことを話すとき、おじさんは「自分探しだ」と口元を歪める。なんでだろ。自分を探すのってよくないことなのだろうか。
こんな知らないことだらけの場所に置かれたら、自分のことがくっきり見える。知っているものは自分しかないから。慣れない環境でどう動くのか、自分の知らなかった自分も見える。
あたしも見た、昨日。不本意ながら、あたしは不測の事態に弱いようだ。ショックだ。これまでどこに転校しようと平然としていられたのは、単に学校の中で行われることなんてどこでもたいして変わらないからだったのだ。でも知って良かったと思う。知らないで、自分のこと勘違いしているよりは。
自分を見つけたおじさんが数年後に帰国したとき、おじさんよりもっといい大学に受かっていたはずの妹、すなわちあたしのお母さんは、家から出られなくなっていた。いわゆるひきこもりというやつですね。
おじさんは貯金の残りをはたいて強引にロンドン留学を手続きし、いやがる妹の首ねっこを掴むようにして飛行機に乗せた……のだそうだ。風馬おじさんから聞いた。
そこまでしてロンドンに行かされたお母さんが何を勉強していたかというと、英語。そんなの日本でもできるじゃんと、これまでは思っていた。でもたぶん、違うのだ。本当に学ばせたかったのは、英語ではなくて。
お母さんはこの街で、どんな新しい自分を見つけたのだろう。内気な優等生が帰ってきたときは未婚の母とは、いくらなんでも視野広げすぎだろうと、あたしとしては突っ込みを入れたいところだが。
心ゆくまで描いてホテルに戻ると、駐車場や玄関にちらほら人の姿が見えだしていた。
あたしは立ち止まって、さっき庭園が見えたあたりをぼんやり眺めていた。だって、やっぱり、不思議だよねえ。
「エマ!」
鋭い声で呼ばれた。振り返るとシンディ。
「おはよー」
「グンモニン。私は非常に驚きました。起きたら、エマがいなかったので」
「ごめんなさい。散歩してました」
「あなたは気をつけなくてはなりません。ホテルの部屋はオートロック。鍵を持たずに出てはいけません」
「あ、そっか」
「なにをぼんやり眺めていたのですか」
笑い話のつもりで話してみた。さっきねえ、あそこに庭があるように見えたんだ、変でしょ、なんて。
シンディは笑わなかった。表情がやや険しくなった。何かまずいことを言ったろうか。
「なるべく一人で出歩かないほうがいいです。ロンドンは古い町。道は入り組んでいます。サッポロのようにわかりやすくないです」
そういう問題ではないんじゃないかなあ、とは思ったけれども。シンディがあんまり真剣だったので、頷いた。