1 成田空港
1
成田空港は、広かった。初めてここから飛び立とうとしている不慣れな旅人、すなわちあたしが思わず回れ右をしてしまいそうになるくらいには。
こんなに広いのに、こんなに人がいっぱいいて、しかも誰もが必ずといっていいくらい地面を転がして運ぶ鞄を忠犬のように従えて歩いている。
あたしの手にも、ある。この日のために買ってもらった真新しいやつが。荷物を詰めているときには大人になったようでうきうきしたが、実際に使ってみると歩きにくいことこの上ない。すぐにあたしの手を離れ、勝手なダンスを踊ろうとする。
ほら、また、頼んでもいない半回転をするものだから、あたしまでつられてよろけた。
すぐ背後で聞えよがしな舌打ちの音がして、ぐいと乱暴に押しのけられた。スーツ姿のおじさんが追い抜いていった。
現在の関東地方は晴れ。ただし冷たい世間の風が吹いております。けさ飛び立ってきた新千歳空港のほうが温暖だったなあ気温以外は。
つい、考えてしまう。もしもあたしの身長がクラスの真ん中へんくらいだったなら、いま吹いた風はもうちょっとお手やわらかだったんだろうか。見知らぬ場所でひとり、使い慣れない鞄に振り回されてまごついていても。しかたないって。
だけど今年の春の身体測定で、ついに身長が百六十センチを超えてしまったあたしに、世間の風は手加減がない。
聞き慣れないカタカナ名前の航空会社を、さんざんきょろきょろしてようやく見つけ出し、エコノミーの列についた。搭乗手続きカウンターにいたのは、日本人のおねえさん。ほっとした。でもたぶん帰りの便では向こうの国の人なんだろうな。
順番が来てしまったので、前の人がやっていたとおりに航空券とパスポートを差し出した。受け取ったおねえさんは航空券を眺め、端末に手を伸ばし……一瞬の間をおいて再び航空券に視線を戻した。それからパスポートをまじまじと見て、あたしの顔をちらりと見て、また航空券。端末を叩きながら、席は窓際も通路側も空いていますがどちらがいいですかと尋ねた声は、「うたのおねえさん」みたいな猫なで声だった。いくらなんでもそこまで幼くないんだけどなあたし。
ここで大きい鞄を預けること、だから機内で使う物はあらかじめ取り出しておくことは、旅行ガイド本その他で予習しておいたから、知ってた。
書類を返してもらってカウンターを離れた。鞄を預けて身軽になったのに、どうしてだろう、胸がきゅうっと痛くなった。
さようなら、コロすけと名付けたあたしの鞄。向こうの空港で無事に再会できますように。思いきり目立つ赤いバンダナを結びつけておいたけれど見分けられるだろうか。「絵真」というネームタグが外れてしまわないだろうか。誰かが間違えて持ってってしまったら、どうしよう。もし見つからなかったら、何をしたらいいんだろう。ツアーじゃないから誰にも頼れない。向こうの空港には迎えが来ているらしいけど、あたしはその人を知らないし……。
なんてことを考えながらぼうっと歩いていたのがいけなかった。
「うわっ」
「オウ、イクスキュズミー」
横から来た人にぶつかられてしまい、手にしていた航空券やパスポートがばさばさと足下に落ちた。
べっこう飴みたいな色の華やかなくるくる髪をした女の人が、あたしより素早くかがみ込んで書類を拾い集めてくれた。「ゴメナサイ。ソーリー」
こういうときはなんて言うんだっけ? 脳内英単語帳の「気にしないでください」のページが開かない。結局はモゴモゴと「い、いえ、だいじょぶです……」としか言えなかった。あとで落ち着いて考えてみたら、いいんだってばそれで。ここはまだ日本なんだから。
アクシデントにへこんでも、試練は続くどこまでも。次なる関門は手荷物検査。そのまた次は出国審査。行かねば。
飛行機の機体持ち込み手荷物には、「あらゆる液体物は百ミリリットル以下の個々の容器に入れ、ジッパー付きプラスチック袋に入れなくてはならない」という規定がある。国内線も、国際線もだ。なのに知らなくて、ゲートの前で指摘されて驚く人が意外に多いのだった。大きな缶に持ち込めないペットボトルがぽいぽい捨てられていく。ということは、この人たち、旅行会社がくれた「旅の手引き」みたいなのやガイドブックの後ろのほうの頁を読んでないんだ。
すごいな大人って。度胸ある。慣れてるんだろう。旅行に限らずとも、未知の体験に挑むとか自分のテリトリーを離れるとかに。自信があるんだろう。なにか起きても大丈夫、なんとかなる、なんとかしてみせるって。そのぶん自由だ。
早くそうなりたいものだ。子供は不自由でいけない。飛行機の旅に慣れてしまったらなんでもないことなのであろう金属探知器にさえ、いちいち心の目盛りを揺らしながら通り抜けないといけないのだ。
子供は規則であちこち縛られている。何歳に満たなければ何をしてはいけません。誰々と一緒でなければどこそこに行ってはいけません。
途方にくれて周囲を見回している現在、しみじみと思う。規則があるから不自由なんじゃない。不自由だから規則があるのだ。
ようやくすべての関所を通過した先には、きらびやかな免税店がずらり並んでいた。化粧品もお酒もタバコも用がないあたしには、ちっとも嬉しくない。
もしもあたしがもっと大人だったなら。そして行きたくてたまらなくて、お金をこつこつ貯めて、ようやくこの日を迎えたのなら。
きっと、いまごろ最高にわくわくしてた。何を見ても、しても、楽しくてたまらなかっただろうに。
窓の向こうに乗り込む予定の機体が見えたときにはもう、もはや全ての力を使い果たしてしまったような気がした。
此処に来るまでだけだって、じゅうぶんすぎるほどハラハラドキドキだった。目指す表示を求めて辺りに視線を走らせるとき。自分の判断を信じて乗り物に踏み込むとき。鞄の中に山ほどある「大事だから絶対に無くしちゃいけない書類」から、いま必要なものを考えて、選んで、差し出すとき。
なのにまだ国内だなんて。これから先の道のりのほうが長いなんて。
「もう帰りたい……」
思わず呟いてしまったとしても、無理ないと思うんだ。
いくら背が高くても。いくら見た目が大人びていても。いくらしっかりしてると評判でも。
あたしはまだ十二歳、まだ小学校六年生なのだから。