第八話 招かざる客
俺と姉さんの朝は早い。毎日五時に起床して、仕込みと清掃を分担して作業するのだ。大変そうに見えるかもしれないが、習慣づいてしまえば、意外と大したことは無い。高校生になってから家業の手伝いを始めて一年半、すでに俺の生活スタイルとして確立されていて、授業で眠いと感じることも無くなった。
母さんは二階のソファでまだ熟睡中だ。今年度から、朝の作業は俺と姉さんだけでやっている。母さんももう年だから、体をしっかり休ませたうえで仕事をしてほしいということで、そうすることにした。母さんは遅くまで新メニューや既存メニューの改良について考えているし、その上朝早く起きていては、父さんの二の舞になる。
「優也、葉山さんのこと、どうするの?」
カウンター内のキッチンから、包丁の音をトントンと立てながら、姉さんが言った。
昨日の朝礼であれほどのことがあった後なのに、なぜ昨日のうちに姉さんが俺に聞いてこなかったか。その訳は、母さんにある。
俺たち家族は、過労で父さんを失った。懇意にしていた取引先が相次いで父さんの会社を切り捨てたことが原因なわけだが、その中には、父さんが家に招いて、家族ぐるみで仲が良かったところもあったらしい。
それが、あっさりと裏切られた。もちろん、その取引先にも社員がいるわけで、あの不況の中では苦渋の選択だっただろうし、簡単に責められることではないのだが、父さんを失った母さんとしては、割り切れないところがあって当然だ。
『会社経営者を信用してはダメ』
母さんがよく口にしていた言葉だ。最近はあまり聞かなくなったが、今なお、母さんの心の深いところで、裏切った取引先への憎悪があるのではないだろうか。母さんがゲンさんと直接関わろうとしないことからも、俺はそうなんじゃないかと思っている。
俺が葉山家の屋敷で休ませてもらい、そのお礼の連絡をどうするかという下りで、母さんが「気後れしちゃうのよねえ」と言ったのは他でもない。リーブスの社長である葉山輝夫と関わりたくないのだ。その娘である陽菜子先輩と俺が交友関係にあると知ったらどうなるか。少なくとも、快い気分ではないだろう。
以上のことは、普段の会話から姉さんも同様の認識で、こうして母さんが寝ている間にに切り出したというわけだ。
「どうもしないさ。友達以上になることはないよ」
「……そっか」
ふと、村上さんに「曇りのない目で陽菜子お嬢様を見てほしい」と言われたことを思い出した。たしかに、陽菜子先輩は魅力的な女性だ。嫉妬深く、猪突猛進なところは玉に瑕だが、それを補って余りある純粋さに惹かれてしまう。何より、一途に俺のことを想ってくれることに、心を打たれずにはいられない。
「姉さんは、陽菜子先輩のこと、どう思う?」
「うーん、悪い子じゃないと思うよ。行動がちょっとあれだけど。それにさ……」
「……それに?」
バツが悪そうに頬を掻きながら、姉さんは言う。
「ああいう生活に憧れちゃったり? わたしも綺麗なお洋服とかドレスとか、着てみたいなあ。もし優也と葉山さんが結婚したら、そんなこともできたりするのかなぁ」
最後に「なんちゃって!」と舌を出してお茶を濁したが、本心だろう。俺だって、「お金があれば」と思ったことが一体何回あったことだろうか。けれど――。
「わかってんだろ?」
「うん、優也はお金持ち嫌いだもんね。お母さんも嫌がると思うし」
トゥルルルル、と業務用の電話が鳴った。稀にだが、この朝早い時間にも、予約はとれないかという電話が入ることがある。時間には余裕があるし、応じることにした。
「はい、ペリドットです」
「優也さん!」
とらなきゃよかった。電話の声は陽菜子先輩だ。
「なんだよ、こんな朝早く」
「申し訳ありません、その、わたしを助けて下さったことへのお礼を渡したいのです。今からお伺いしてもいいでしょうか。少しだけお時間を頂ければいいのですが」
なんでまたこんな朝早くから――と思ったが、よくよく考えれば、そういう話ができるのは朝のこの時間か夜遅い時間ぐらいしかないし、責める理由がない。母さんは七時にセットした目覚まし時計が鳴らないと起きてこないし、問題ないだろう。
「十分ぐらいなら時間とれると思う。六時半ぐらいに来てくれないか」
「ありがとうございます。その時間にお伺いします」
「ああ。じゃあな」
電話を切ると、「誰から?」と姉さんが聞いた。
「陽菜子先輩から。例の件、お礼を渡しに来るって」
「そっか。おいしいお菓子もらえたらいいなあ。じゃあ、ちゃちゃっと済ませますか!」
「ちゃちゃっとってなんだよ、しっかりやってくれよ」
「はいはい。細かいんだから」
指定したちょうど六時半。朝の作業をすべて終わらせて、俺と姉さんがコーヒーを飲んでいると、トントンと入口のドアがノックされた。
「やべ、そっか」
裏口には呼び鈴を用意してあるが、正面口には無い。シャッターは上げておいたものの、『CLOSE』の札が吊り下げてあり、戸惑ってしまっただろう。
慌てて入口のドアを開けると、陽菜子先輩が立っていた。
「よう、いらっしゃ――」
陽菜子先輩の後ろにいる男を見て、体が強張り、声が途切れてしまう。威風堂々とした佇まいと、底光りするような目が、俺の視線を吸い寄せて離さない。
「突然、申し訳なかったね」
おもむろに帽子を脱いだその声の主は、リーブスという数兆円規模の会社のトップに君臨する小売業界の雄、葉山輝夫だ。