第七話 森田優也のお仕事
俺がキッチンにあるバインダーにお客様から受けた注文の控えを挟むと、母さんはサイフォンのフラスコにお湯を入れて沸かし始め、並行して調理の準備に入る。極力、声は出さない。喫茶店内は、お客様の空間だからだ。
「ごちそうさまでした」
他のお客様が食事を終えた声が聞こえて、俺は歩を速めてカウンターに用意されているレジへ向かった。
精算を終えて、お客様を出口まで送り、「ありがとうございました」と恭しくお辞儀をする。次にテーブルに残された食器をまとめ、テーブルを拭きつつ、忘れ物はないか、ウォーターポットの水量は十分か、店内にいるお客様の食事の進み具合はどうかをチェック。
すべて終えたら、椅子の位置を整えて洗い場へ入り、手早く丁寧に食器を洗う。食事を終えそうなお客様が注文をしたデザートの下準備も忘れない。
一つ一つの作業に優先順位をつけ、どんなに忙しくても決して慌てる素振りを見せないよう、ゆったりとした動作で、かつ迅速に作業をこなしていく。
こうしたことを繰り返し、体に叩き込んで、初めてお客様が来てくれる。客商売で利益を出す方法に魔法のようなものはない。小さな努力を一つ一つ積み重ねるしかないのだ。
二十時過ぎに店のシャッターを下ろして、当日の締め処理を終えてからすぐに、俺は夜の商店街を歩き、商店街会長のゲンさんの酒屋へ向かった。
こうして商店街を歩いているといつも思うんだが、ゲンさんの手腕はすごい。ゲンさんのアドバイスにより、商店街全体が一体となって利益を生み出す仕組みができている。
例えば、落ち着いた雰囲気を求める年齢層高めのお客様をペリドットのターゲットにしている一方で、右手に見えてきた喫茶店『エール』は、楽しくにぎやかな雰囲気を大切にしていて、若い人や子連れの家族に人気だ。同じ喫茶店でも、客を取り合わないようにして、幅広い年齢層を商店街に呼び込むことができれば、商店街全体が活気づく。
そのぐらいの取り組みは当たり前だろうと思うかも知れないが、必ずしも新規出店する店のコンセプトが商店街の求めるそれとマッチするわけではないのだ。生活のかかっている既存店と新規店双方を取り持つゲンさんの労力を、どうか想像してみてほしい。
酒屋に入り二階へ行くと、「おう来たか」とゲンさんのぶっきら棒な挨拶に迎えられた。
ゲンさんはパソコンの前でキーボードをカタカタと打っている。座っている椅子が小さく見えるほどにガタイがよく、短髪で太い眉の『ザ・日本男児』ゲンさんがパソコンの前にいると、今だに吹き出しそうになる。
「はい。今日の売り上げを持ってきました」
パソコンに向き合ったまま、手のひらだけ俺の方に向けたゲンさんに、売上報告書を渡す。ゲンさんはそれをチラリとみて、キーボードを叩きながら言う。
「おめぇんとこのデザートの売上が下がってるのは聞いたな?」
「はい、姉さんに」
「それで、どうなった」
「母さんが、コーヒーに合うようなビターテイストのデザートを考案中です。最近サラリーマンの三十代、四十代のお客様が増えてきたので、ニーズがあると思います」
こういう細かいところまでアドバイスをくれることからわかるように、ゲンさんは几帳面且つ親身だ。各店の売上をまとめるだけではなく、それを分析してアドバイスをしてくれるような商店街会長は、ゲンさん以外に果たしているだろうか。
「いいんじゃねえか。ところで、おめえ戸塚高校の文化祭でクラス代表をやるらしいな」
どう切り出したものかと考えていたのだが、ゲンさんの方から切り出してくれた。
「いや、まだ決まってないですけど。家族にも相談してないですし。何で知ってるんです?」
「博史に言われたんだよ。なんとかしてやれないかって。俺の仕事は気にするな。元々、俺が一人で勝手にやってたことなんだからな」
――全く、いつの間にここまで外堀を埋めていたんだか。
ゲンさんは手を休め、椅子を回して俺の方を向き、腕組みをして続けた。
「もしやるんなら、おめえ一位とれよ。周りは素人だけなんだからな。俺が教えたことがきちっと頭に入っているか、見極めさせてもらう。文化祭が終わるまで、来なくていい。今日も帰っていいぜ」
身体がブルッと震えた。怖いんじゃない。武者震いだ。
ゲンさんに、俺の仕事を見てもらえる。俄然、やる気が沸いてきた。
自宅に戻って二階へ上がると、姉さんと母さんが食卓の椅子に座っていた。
「これから文化祭までの間、姉さんが俺の仕事やるって?」
俺がそう聞くと、姉さんの目が見開かれた。
「何で知ってるの!?」
「オニセンに言われたんだよ。クラス会の時」
「わたしが自分で言うからって言ったのに。つまんないの」
姉さんはふくれっ面をした。どうやら俺を驚かせたかったようだが、少々勇み足だ。
「クラスのみんなに、うちの店を手伝うとか言われてさ。そりゃ驚くし、怒るだろ。収集つかなくなりそうだったから、オニセンも仕方なく、だよ」
「怒るって、どうして?」
俺は母さんの方を向き、肩を竦めてみせた。すると母さんは、困ったように笑って言う。
「手伝ってもらう以上、バイト代は出さなきゃダメでしょう。優也のレベルで仕事を回すには、少なくとも二人は必要になるわ。そんなお金ないもの。それに、仕事を教える手間もあるわ」
「うっ」
姉さんは項垂れてしまった。わかってもらえたならそれでいいし、それ以上兎や角言わないことにして、俺は本題を切り出した。
「クラスのみんな、社会勉強のボランティアとして手伝ってくれるらしいよ。俺、文化祭のクラス代表、やってみたいんだけど、いいかな」
今度は母さんの目が見開かれた。
「優也からやるって言いだすとは思わなかったわ」
「ゲンさんが、文化祭で俺を試すんだって」
「……本当に源三さんのこと好きねぇ」
そんなに嬉しそうに見えただろうか。割とポーカーフェイスに自信があるんだが。
母さんが含み笑いをして続ける。
「でも、さすがに無給で働いてもらうというわけにはいかないわ」
「そうだよな」
何か母さんが納得できるような方法はないかと思索してみるが、どうも思いつかない。
ところが、問題はあっさりと解決してしまった。
「給料は、『ガチンコ太郎』の焼肉食べ放題でどうかしら」