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第五十話 大月里香の場合

 三年生の卒業式を翌日に控えた朝のこと。俺は里香に呼び出され、いつもより三十分早く登校し、屋上に来ていた。

 目の前にいる里香は、いつもとは全く違う様子である。三つ編みは解かれ、黒髪がやわらかなウェーブを描いて肩にこぼれかかっている。眼鏡はかけておらず、コンタクトにしたのだろう。顔には、透明感のあるナチュラルメイクが施されていて、可愛らしい。

 そして、誰もいない屋上で男女が二人。このシチュエーションで、里香の意図に気付かないほど、俺は鈍感ではない。

「いつからだ?」

 俺がそう聞くと、里香は口元を緩め、何かを思い出すかのように瞑目した。

「気持ちにはっきり気付いたのは、クラスが文化祭で一位を獲った時かな。わたし嬉しくて、つい抱きついちゃったでしょ? そいで顔をあげたら、あったかい優也の笑顔が見えたの。ああ、わたしこの人が好きなんだなあって」

「いや、おかしいだろ! だって、陽菜子先輩に乗じたのは――」

「仁義を通せ……でしょ?」

 俺の言葉を遮ってそう言った里香は、真剣な眼差しを俺に向けていた。強風に吹かれても微動だにしないその立ち姿は、凛然たる風格さえ感じられる。

 やがて里香は俺に背を向け、後ろで手を組んで続けた。

「葉山先輩と約束したんだもん。それを破るようじゃ、一生優也はわたしのほうを向いてくれないって、そう思ったの。でも、すぐに後悔しちゃった。まさか、舞台から飛び降りて優也に抱きつくなんてねぇ。敵わないなあって、一度そこで諦めたんだ。初恋が十分で終わっちゃって。ギネス記録じゃない? 笑っちゃうよね」

「じゃあ、なんで……俺をここに呼んだんだよ」

「新聞でさ、リーブスが青田商事を買収したっていう記事を見た時、もしかしたらって思ったの。もしかしたら、優也は葉山先輩を突き放すんじゃないかなって。んで、しばらく様子を見てたんだけど、葉山先輩はクラスに来ないし、優也の様子もおかしいから、やっぱり! って。わたしにもまだチャンスがあるんじゃないかなって、期待しちゃったの」

 里香は、「期待……しちゃったのよ」と声を震わせて繰り返した。

 今になって、ようやく大沼が言っていた「哀れにしか見えん」の意味を理解した。きっと、里香なりに俺を振り向かせようと接してくれていたのだろう。

 里香は袖で涙を拭って、続けた。

「葉山先輩が、優也をわたしの前で抱きしめた時あったでしょ? ああ、やっぱり敵わないやって思ったんだけど、もう引っ込みがつかなくなっちゃって。ねえ、優也」

 俺を呼ぶと同時に、里香は俺の方へくるりと向き直った。いつもおどけてばかりの里香が、こわばった表情をしている。体は震えていて、勇気を振り絞ろうとしている様子が手に取るようにわかった。

「わたし、優也のお手伝い、頑張れたかな」

「ああ。すごいよ、お前は。本当に感謝してる」

「熱くなった?」

「ああ、なった」

「じゃあ……」と間を置いた里香は、胸に右手を添え、一歩前に踏み出した。そして、すがるようでいて、力強い眼差しが俺を射抜く。

「わたしにもまだ、チャンスあるかな」

 そう言った里香に対して、俺は――。

「……すまん」

 そう答える事しかできなかった。

 もう、俺は心に決めているのだ。ずっと、陽菜子先輩に寄り添って生きていこうと。

 里香はへらっと笑い、「だよね」と頬を掻いた。次いで、俺の方へ駆け寄り、俺をドアの方へ両手で押しながら言う。

「来てくれて、ありがとね! これからわたしは、少しの間物思いに耽ります! なので、ご退場くださーい!」

「ちょ、ちょっと待っ――」

「ご退場くださーい!!」

 勢いに抗うことができず、俺の額がドアにゴンッとぶつかると、里香はドアを開け、俺を校舎内に突き飛ばし、バタンとドアを閉めた。

 すぐにドアノブに手をかけたものの、閉まったドアを再び開くことはできなかった。分厚い鉄のドアに隔たれていてもなお、里香の泣き声が聞こえたからだ。

 けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれた里香に、俺は誠意をもって、本心で応えなければならない。

「お前の気持ちにゃ応えられねぇけど! お前は……ずっと友達だからな! 絶対だぞ!」

 最高の戦友を失いたくない。偽りのない、俺の本心だ。

 返事はない。諦めて階段に背を向けると、ゴンッとドアを叩く音が鳴って振り返る。

――ありがとな。

 心の中で呟き、里香を屋上に一人残して、階段を下った。

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