第三話 森田優也
自宅に着いて、リンとドアベルを鳴らし中に入ると、テーブルセットの一つに座っていた母さんと姉さんが駆け寄って来て、俺を出迎えた。
「大丈夫なの!? 頭を打って気を失ったって!?」
そう言って、おろおろと俺の頭を心配そうに見ているのは、母さんの森田多喜恵だ。後ろ髪を一つにまとめて縛り、唇が薄くて、苦労人の印象が強い。
「なんだ、全然平気そうじゃん」
俺の姉さん、森田麗奈が安堵のため息をもらす。ベリーショートのふわっとした髪が、小顔をいっそう引き立てていて、かなり魅力的な女性だ。人当たりが良く、男女問わず人気があり、さらには戸塚高校の陸上部エースで、自慢の姉である。
ここは喫茶店『ペリドット』。東京都西東京市にある、西和鉄道の有田駅を南口から出て徒歩十分、青葉商店街の一角にある俺の自宅だ。カウンターが八席、テーブルセットが四つしかない小さな店だが、清掃は隅々まで行き届いていて、照明のランプと木製の家具が演出するノスタルジックな雰囲気は、心が安らぐと近所から評判である。
十年以上前――俺には記憶がない頃のことだが――は、俺たちはこの街には住んでいなかった。
俺の父さん、森田雄一郎は、小さな電子部品製造会社の社長で、俺たちはここより都会の方で裕福な生活をしていたらしい。だが、大不況のあおりを受けて大口の取引先が相次いで契約を打ち切ってしまい、会社は倒産。父さんは寝る間も惜しみ、融資してくれる銀行や新規取引先を探して駆けずり回わったせいで、過労で倒れ、亡くなったそうだ。
残された俺たちは、母さんが喫茶店の開業に必要な免許を結婚前に取得していたことから、父さんの友人である青葉商店街会長の"ゲンさん"こと橘源三さんに相談して、喫茶店を構えることができた。
「ちょっと休ませてもらっただけさ」
「そう。お礼の電話をいれたいけど、気おくれしちゃうのよねぇ」
頬に手を当ててため息をつく母さんに、「別にいいだろ」と笑った。原因は向こうだし。
「店は大丈夫だったの?」
「今日は、わたしが手伝ったから!」
そう言った姉さんに視線を移すと、嬉しそうにピースを前に突き出していた。
「葉山さんの命を救ったんだって? やるじゃん!」
「まあ、たまたまね。部活は?」
「先生から話を聞いてさ。今日は早退したよ」
「そっか……すまん」
項垂れた俺の肩に、姉さんは腕を回してきた。
「ヒーローが何言っちゃってんの。別に、夏の大会も終わったし、そこまで根詰めて練習する必要はないしね! あ、源三さんへの売上報告書も渡しておいたよ!」
「サンキュ」
――ゲンさんにも、後で謝っておかないとな。
俺はペリドットのホールの仕事に加えて、ゲンさんの仕事の補佐をしている。ゲンさんは強面の頑固なおっさんだが、人情味があって、その上頭がいい。
ゲンさんは青葉商店街を二十年以上も前からずっと守り続けている。ファスト風土化という言葉がすでに一般的に知られていることから想像がつくとは思うが、青葉商店街の売り上げは年々減少傾向にあり、それでもなんとかやれているのは、ゲンさんの尽力によるところが大きい。
俺は、俺たち家族を受け入れてくれた青葉商店街に感謝しているから、ゲンさんの後を継ぎたいと思っている。だから、ゲンさんの手伝いをしながら、商売のことを学んでいるのだ。いわば、ゲンさんは俺の師匠だ。
「あ、コーヒー飲む?」
母さんが言って、俺が頷くと、母さんはすでにテーブルの上に用意されていた空のティーカップにコーヒーを注いでくれた。それを一口飲み、ふうとため息をつく。
――今日はいろいろとひどい目に遭ったけど、明日からはまたいつもの日常だ。
十月中旬に入り、木々の葉が色づき始め、すっかり秋めいてきた。心地よく涼しい空気が体に染み込んで、気分は晴れやかだ。
あの大事件――少なくとも俺の中では――の翌朝、俺が姉さんと通学路を歩いていると、突然「よっ!」っと肩を叩かれた。クラスメイトの大月里香だ。黒縁眼鏡の三つ編みで、「優等生でござい」といっているような容姿である。その実、新聞部に入っていて、鞄の中にカメラを忍ばせ、何か面白いことはないかと常に目を光らせている面倒なやつだ。
「ねえ、聞いた?」
「何のことだよ」
――まさか、俺と葉山が接触していた情報を仕入れたんじゃないだろうな。
里香の問いに、俺は平静を装って警戒したが、違ったようだ。
「葉山先輩の誕生日パーティーの話! それがさー、パーティー中に、葉山先輩を壁ドンして連れ出そうとしたやつがいたらしくてさ。葉山先輩が逃げちゃって、パーティーが中止になったらしいよ!」
「あ、だから――」
つい口が滑りそうになった姉さんを、俺は睨みをもって制止させた。姉さんは気づいてくれたようで、慌てて口を抑えている。
だが、さすがは里香の嗅覚だ。見逃してはくれなかった。
「だから? なになに?」
里香はメモ帳を取り出し、ペロリとペン先をなめて、姉さんの顔を覗きこむ。嘘や隠し事が苦手な姉さんは、里香に目線を合わせまいと必死だ。
「ハイストップ」と、俺は里香のおでこを押し上げ、姉さんから遠ざけた。
「なによぉ。ちょっとだけでいいからさ、ねえ、教えてよぉ」
里香は目を潤ませて、上目遣いで俺を見つめてきた。女の武器まで使いこなしやがる。
「話すことなんか何もな――」
銀色のリムジンが俺たちの横を通って、道の脇に止まった。背中を悪寒が這い上がり、ぞくりと震える。まさか――。
嫌な予感は的中した。運転席から村上さんが降りて、リムジンの後ろの方にあるドアを開けると、流れるような動作で葉山が降りた。葉山はまっすぐこっちへ歩いてくる。
葉山が近づくにつれ、ジワリと冷や汗が滲んだ。金持ちへの苦手意識とか、そういう話じゃあない。葉山の黒い瞳の奥に、メラメラと燃える炎が見て取れたからだ。
「お話があるのです。ご一緒ください」
俺の承認をとる前に、葉山は俺の右腕を掴み、リムジンの方へ歩き出した。キスされた時も思ったが、腕は細いくせに、なんつう力だ。
拉致されそうになっている俺の左腕を、姉さんが掴んで引き留めた。
「なんなのよ、急に!」
葉山は負けるまいと、さらに強い力で引っ張った。
「あなたこそ、夫の何なのですか! 離してください!」
「何だっていいでしょ! そっちこそ離してよ!」
引っ張り合いが続く。方や怪力お嬢様、方や陸上部のエース。腕がもげそう。なんで俺がこんな目に……おい里香、なに嬉々として写真撮ってやがる!
「姉さんっ……! 一旦離して!」
葉山よりは、姉さんの方が俺の声に応えてくれるだろうと思って言ったが、腕を離してくれた方は葉山だった。その勢いで、俺は姉さんの方へ倒れ込み、姉さんの慎ましい胸に顔が埋まった。次いで、姉さんのゲンコツがゴンと脳天に飛んでくる。全く、何て日だ。
「まあ、お姉様! わたしったら、とんだご無礼を! てっきり、夫に群がる泥棒猫かと」
頭を抱えて葉山を見ると、ペコペコと姉さんに頭を下げていた。お姉様ってなんだよ。
姉さんは髪をくしゃりとさせて言う。
「で? 話って何? ここで聞くから」
「実は、今日の全校朝礼のあいさつのことで……」
ああ、葉山は生徒会長だからな。容姿端麗に加えて、頭脳明晰ときたもんだ。葉山家専属の講師とかついてるんだろうけど。しかし、俺と朝礼とは全く関係ないだろうに。
葉山はチラリとこっちを見て続けた。
「学校のみなさんに、わたしと夫の……優也さんのことを報告しなければと思いまして」
「よし、乗るぞ。まず車に乗ろう」
俺は言下に葉山と姉さんの腕をひっぱり、リムジンへ向かった。リムジンの中に葉山と姉さんを押し込み、俺も乗って、続いて乗ろうとした里香を外に押し出し、バタンとドアを閉める。
「村上さん、行って! 早く行って!」
「かしこまりました」
村上さんは一礼して運転席へと戻る。「あーけーてー!」とドンドン車のドアを叩く里香を無視してシートに座ると、やがてリムジンが動き出した。
――全校朝礼で報告するだあ!?
全身全霊をもって交際を拒否したってのに、ノーダメージじゃねえか!
俺の気持ちなんぞお構いなしの葉山は、「お姉様、お茶はいかがですか?」とか言っている。姉さんは姉さんで、初めてリムジンに乗ったせいか、目を輝かせ、高揚感丸出しだ。
「で、どういうことだよ?」
さすがに苛立ちを隠せなかった。葉山はビクッとすると、肩を落として言う。
「迷惑だと言われてしまって……とても、悲しかったです。とても……」
束の間沈黙が降りたが、葉山はやおら顔を上げ、握りこぶしを作って力強く声を上げた。
「でも、村上が元気づけてくれたのです! 想いを阻む壁が巨大であるほど、それを乗り越えたときに結実する愛は尊く、強固であると!」
――あのおっさん、余計なことを。
葉山は瞑目し、胸に手を当てて続けた。
「なので、わたしは諦めないことに決めました。あなたが振り向いて下さるまで、挫けたりするものですか」
「だから言ったじゃねえか。うちは貧乏家庭で――」
「関係ありません」葉山はゆっくりと俺に近寄ると、膝を折り、両手で俺の手を握った。「それほどに、あなたをお慕いしているのです」
「っ!」
顔が紅潮してしまったと思う。慌てて、葉山から視線を逸らした。
「ちょっと! 離れなさい!」
姉さんの助け舟が来て、俺と葉山を強引に引き離した。心底、ほっとする。このままじゃ葉山のペースだ。何とかしないと。
姉さんがキッと葉山を睨んだ。
「ちょっと強引すぎるでしょ!? 優也嫌がってるんだから、それじゃストーカーと――」
「姉さん!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。姉さんは俺に視線を向けて、唖然としている。
姉さんが仲裁しようとしてくれたことは嬉しかったが、葉山の誠実な想いを、ストーカーという言葉に置き換えてほしくはなかった。我ながら、本当に甘い。
正直、葉山の気持ちは困ったものだ。このままでは、朝礼で堂々と交際宣言をしかねない。もちろん、そんなことは阻止したいが、それにはある程度の譲歩が必要だろう。
「葉山先輩、俺はやっぱり、葉山先輩の気持ちには応えられない」
葉山は唇を結び、涙を湛えている。俺の良心が、チクリと痛んだ。しかし、そこだけは譲れない。譲れないが……。
「だけど、友達じゃ駄目なのか? 俺はもう、あんたのそんな顔は見たくないんだ」
最大限の譲歩だ。これが駄目なら詰みだったが、葉山は満面の笑みで応じてくれた。
「ええ! 友達から、友達からお願いします!」
「うし。じゃあ友達なんだから、あなたとか夫とかは勘弁してくれ。俺には森田って名前があるんだ」
「はい! 優也さんとお呼びしますね!」
「……まあいいや。つーわけで、朝礼で恋人だの夫だの言うのは、勘弁してくれよ」
「……残念ですが、そう仰るのなら。 優也さんも、わたしのことを陽菜子と呼んでくださいね!」
「わかったよ、陽菜子先輩」
「そんな、他人行儀な! 陽菜子と――」
「よろしく、陽菜子先輩」
陽菜子先輩は、むくれてそっぽを向いてしまった。感情表現の豊かな人だ。
姉さんがトントンと俺の肩を叩き、呆れ混じりに言う。
「甘いねぇ。どうなっても知らないよ?」
「……なんとかなるだろ」
陽菜子先輩のことは、これから少しずつ説得していけばいい。目の前の危機は回避できたのだから、それで良しとしよう。
学校に着いたようで、村上さんがリムジンのドアを開けた。
「到着いたしました。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
車から降りた直後、村上さんに「少しよろしいですか?」と声をかけられた。陽菜子先輩と姉さんには先に行ってもらい、村上さんの話を聞くことにする。名残惜しそうな陽菜子先輩を、姉さんはズルズルと校舎へ引っ張っていった。
「本当に、ご面倒をおかけいたしまして」
村上さんが、深々と頭を下げた。
「いや、いいですよ。少しずつ、陽菜子先輩に諦めてもらえるように頑張るつもりです」
「そうですか」
村上さんへの牽制球のつもりだったのに、にっこりと返されてしまった。食えない人だ。
村上さんが人差し指を立てて言う。
「ところで一つ、お伺いしたいことがあるのですが――」
「レクサスRCFの黒」
俺がそう答えると、村上さんが瞠目した。どうやら、ビンゴだったようだ。
「念のため確認致しますが、お嬢様が轢き殺されそうになった車のことでよろしいですね?」
「はい」
「なぜ、わたしがそれを聞くと思ったのです?」
「そりゃあ、村上さんが陽菜子さんのことを大切にしていることぐらい、俺にもわかりますから。陽菜子先輩を轢き殺そうとした車をそのままほっとくなんてありえないでしょう。事故にしろ故意にしろ。多分、故意でしょうけど」
「誰かがお嬢様を殺そうとしたと?」
「あれだけスピードを出していたのに、ブレーキをかけた様子がありませんでしたからね。それとさっき、パーティーで陽菜子先輩を連れ出そうとして赤っ恥をかいた奴がいる事を聞きまして。金持ち連中はプライドの塊みたいなもんですから。陽菜子先輩を見つけたとき、衝動的に轢き殺そうとしてもおかしくはないでしょう。しかも、車は一般人が手を出しにくい高級車。なら、陽菜子先輩を連れ出そうとしたやつが怪しいんじゃないかなって」
「車にはお詳しいので?」
「まさか。記憶していた車のイメージを、ネット上で探しておいただけです。葉山家の誰かが聞きにくるだろうと思っていたので……そろそろいいですか? 遅刻しそうで」
「おお! 失礼いたしました。ご協力、感謝いたします」
口角を上げた村上さんを不審に思いつつも、俺は校舎へ向かって走った。




