第二話 目が覚めたら、そこは女の子の部屋でした。
――なわけがなかった。
はっと目を開いて起き上がったその場所は、ふかふかとした天蓋付きのベッドの上だった。部屋の広さは、俺の部屋の五倍以上はあるだろう。ゴシック調に統一されていて、まるで中世ヨーロッパにタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
「……女の子の部屋かな?」
可愛らしいぬいぐるみがいくつか飾られていることと、ドレッサーが配置されていることから、そう察した。外は暗く、カチカチと音を立てている柱時計を見てみれば、すでに夜八時を回っている。
――やっべえ。店大丈夫かな。さっさと帰らねえと。
とはいえ、誰かがここまで運んでくれたことを思うと、礼の一つぐらい言うべきか。しかし、勝手に人の家を歩き回るわけにもいかない。
どうしたものか……と考える間もなく、トントンとノック音が鳴った。
「お目覚めになりましたか」
見計らっていたかのように、燕尾服を着たこの家の人間らしき男が入ってきた。彫りが深い顔と、きれいに整えられた鼻下の髭。髪はオールバックでカチッと決まっていて、「ダンディズムをお持ちでしょうか?」と聞いてみたくなる。年は四十代だろうか。
男は恭しくお辞儀をして、話し始めた。
「この度は陽菜子お嬢様をお救いいただき、感謝の言葉もございません。わたくしは葉山家執事、村上と申します。お嬢様から連絡がございまして、わたくしが森田様をここまで移送いたしました。ああ、お家のことは、ご心配なく。戸塚高校を経由して、こちらでお休みいただいていることを伝えていただきました。お体の方も、葉山家専属の医者に診せまして、問題ないとのことでございますのでご安心を」
「ありがとうございます。どうして俺の名前を?」
「森田様の生徒手帳を拝見させていただきました」
村上さんは懐から俺の生徒手帳を取り出し、「大変失礼いたしました」と手渡した。会釈をして、一つだけ拾われていなかった俺の疑問について尋ねる。
「あの、葉山陽菜子さんは?」
「……? いらっしゃるではありませんか」
改めて周囲を見渡してみた。どこをどう見てもいない。村上さんを再度見ると、「そちらに」とベッドを指さした。その先にあるのは、俺の隣のこんもりとした膨らみだ。
まさかな、と鼻で笑いつつ、そっと布団をめくってみた。すると、生まれたままの姿の女の子――葉山陽菜子――がすうすうと寝息を立てて眠っている。
何事もなかったかのように、そっと布団をかけてやる。気持ちを落ち着かせようと、歯間を通してスーッと息を吸い込み、口を尖らせて細く長く息を吐いてみた――が。
「うおあああああああああ!」
落ち着いてなんざいられるか! なんなんだ一体!
「ううん……」
葉山が起きてしまった。胸が露わになる前に、慌てて毛布で包んでやったその直後。
「――あなた!」
葉山は弾けるような笑顔で俺に抱きついてきた。ちなみに「あなた!」のニュアンスは嫁が旦那を呼ぶときのそれだ。もちろん、俺は葉山を嫁に迎えた覚えなどない。
「おおお……お嬢様、ようやく、ようやく運命の殿方を! おめでとうございます!」
村上さんが胸ポケットからハンカチを取り出し、さめざめと泣きだした。
「あの、ど、どういうこと?」
「――やだ、わたしったら。きちんと、説明いたしますね」
俺の問いを聞いてようやく離れてくれた葉山は、コホンと咳ばらいをした。俺の脳は、葉山から一体どんな言葉が飛び出すのか警戒する部分が一割、葉山を包んでいる毛布がずれ落ちないことを祈る部分が九割で占められている。
「恋には、A、B、Cというものがございます。Aが終わりましたので次は――」
「んなことは聞いてねぇよ!」
予想のはるか上、高く高く宇宙空間までいったその回答は、俺の畏まった態度を見事に破壊した。
では一体、と言いたげに首を傾げる葉山。どう言ったらいいものかと頭を抱えると、葉山はパンと手を叩き、首をゆっくりと横に振って、俺に微笑みかけた。
「そんな、悩む必要はございません。むしろわたしは、とてもうれしいのですよ」
何言ってんだこいつ、と顔を顰めてみせると、葉山は胸に手を当てて続けた。
「あなたの童貞、安心してわたしに捧げ――」
「ちっげえよ!」
そうじゃない。いや、そうだけど、そうじゃない。
「そんな、恥ずかしがることではないでしょう? わたしも処――」
「違うっつってんだろ!」
「あら、では何も案ずることはないではありませんか」
葉山は俺に手を差し伸べてきた。その手はなんだよ。一緒に布団に入れってのか?
逡巡していると、村上さんが口を開いた。
「お嬢様のお誘いをすぐにお受けにならないとは……! まさか、森田様はホ――」
「ちょっと黙っててくれませんか」
村上さんはお茶目に口を一文字にして押し黙った。とりあえず、誘いを受ける受けない話をするのであれば、村上さんはそこに居ちゃいけないだろう。
束の間の沈黙で冷静さを取り戻し、葉山の両肩を押さえ、その黒く大きい瞳を見据えた。
「……一つだけ、はっきりと言っておきたいことがある」
「はい、何でしょう」
頬を赤らめ、背筋を伸ばして正座をした葉山に、俺は冷たく告げる。
「まずは、服を着ろ」
「少々、急いてしまいましたでしょうか……」
葉山はバスローブを着てベッドの縁に腰かけ、力なく反省の弁を述べた。
少々どころじゃねえよ――なんて、いちいちツッコミをいれていたら収集がつかなくなってしまう。まずは、核心から攻めていくべきだろう。
「運命の殿方とかなんとか、少なくとも俺を好いてくれたことはよくわかるよ。けどな、それは錯誤ってやつだろ。数日経てば、そんなん冷めるから」
葉山はぎゅっと目をつぶって唇を結び、力強く首を横に振った。
「錯誤などではありません! あなたは、本心からわたしを思いやってくださいました。わたしの目をまっすぐに見て、話してくださいました。わたしはもう、あなたが運命の殿方であると確信しております!」
「んな、大げさな――」
「わたしへの視線は、卑しさを感じたり、とげとげしさを感じたりするものばかり。でも、あなたは違いました。こんなに深くて熱い衝動に駆られる視線を感じたのは初めてだったのです! それで、その、つい……」
――ずいぶんと、めんどくせぇ境遇だこと。
葉山を狙う男連中にとって、葉山はアクセサリー扱いなんだろうな。まあ、高校生の男女付き合いなんて、大抵はそんなものなんだろうが。とげとげしさ? さしずめ女の嫉妬ってところだろうか。友達は少なそうだ。
葉山はうなだれてしまった。勢い任せに俺に迫っていたあの元気はどこへやら――というのはちょっと意地が悪いか。俺の冷たい態度を感じとってのことだろう。
俺は金持ちが嫌いだ。奴らは金の為に人を切る。絶対に信用しちゃいけない。こいつだって、きっと同じだ。
そんなことを口に出すわけにもいかないから、こう言ってやる。
「俺は貧乏家庭で育ったものでね。あんたらみたいな金持ちのこと、理解できねえし、関わりたくもないんだよ。はっきり言って、いい迷惑だ」
俺が立ち上がってドアの方へと歩き始めると、村上さんが俺を呼び止めた。
「お送りいたしましょうか?」
「いや、葉山先輩の側にいてあげてください」
この世が終わってしまったかのような、沈んだ面持ちの葉山を見て、そう言った。
「お心遣い、感謝いたします。出口は部屋を出て左、階段を下った正面にございます」
「ありがとう」
俺は葉山の部屋をでた。これでいい。
正直なところ、ここまで女性に好いてもらったのは初めてのことで、うれしい気持ちもあった。だがそれ以上に、そんな浮ついた感情を俺は嫌悪する。
――住んでる世界が違うっての。