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社長令嬢にとっつかまりまして。  作者: 雪村陽
第二章 戸塚高校文化祭
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第十二話 悪魔

 家に着いてすぐにノートを広げ、作業分担について思案した。最終的にはみんなの意向に沿う形でまとめるつもりとはいえ、たたき台は必要だろう。

 幸い、クラスの傍観者であり続けた俺は、誰が誰と仲がいいか、誰にどのような作業を割り当てるのが適切か、ある程度わかっている。多少の思い違いはあるかもしれないが、大きなトラブルになるようなことは無いはずだ。

 一通り振り分けが終わって、一つ足りないパズルピースがあることに気付く。

――ポスターや広告のデザインができる人いるのか?

 文化祭当日は、『調理』・『接客』・『宣伝』の三拍子が揃わなければ効率よく稼ぐことができない。ポスターや広告は、『宣伝』を成功させるために重要な要素だが、体育会系の多いうちのクラスにおいて、美術やデザインの話題を聞いたことがない。

 ちなみに俺は、舌を出しているワンコの絵を描いてみれば、姉さんに「アルベルト・アインシュタイン?」と言われてしまうほどの画伯だ。

 考えても仕方がないことは、いったん頭の隅に置いておく。この時点で時計を見ると、すでに夜二十一時を回っていた。

「ご飯、食べたの?」

 一階から上がって来た母さんが言った。そういえば何も食べてない。

 母さんは俺の様子を見て察したのか、「そう」と一言発すると、冷蔵庫に向かっていった。輝夫さんからもらう謝礼金を借金に充てる話をしてから、どこかよそよそしい。

――ああ、早いとこ村上さんにも電話しなきゃな……って!

 母さんが何か料理をしようと準備を始めていた。

「いいよ! 疲れてるだろ? もう俺も終わったから、自分で勝手に作るよ」

「大丈夫よ、簡単なもの作るだけ。すぐ終わるから」

 母さんは材料をテーブルの上に乗せていった。キャベツ、にんじん、豚肉、そして袋に入った焼きそば――ん?

 袋に三玉入っている焼きそばを手に取った。粉末ソースの小袋も三つある。

「……これいくら?」

「え? そうね……百四十円だったかしら」

 一人前あたり、四十七円。特売ならもっと安く買えるかもしれない。

「ごめん、やっぱ自分で作るよ。文化祭絡みなんだ」

「そう? じゃあ、先に休むわね」

 母さんは「おやすみ」と言うと、寝室に入った。それを見送ってすぐに、焼きそばの調理に取り掛かる。味付けは、麺と一緒についていた粉末のソースだけだ。

 何一つ、工夫はしていない。なのに、それなりにおいしい。つまり、工夫を加えれば、化ける可能性があるのではないか。

「明日、提案してみるか」

 ひとりごちて、俺は銀行のカードを用意し、受話器を手に取った。輝夫さんから預かった村上さんの携帯番号を押してみる。この時間なら、まだ大丈夫だろう。

「もしもし、森田ですけど」

「おぉ、森田様。お待ちしておりました」

「遅くなりましてすみません。謝礼金の件なのですが」

「三百万円ということでお伺いしておりますが、よろしいですか?」

「はい。よろしくお願いします。振込先は――」

「いえ、申し訳ないのですが、いまからお伺いしてお渡しすることはできないでしょうか」

「え……現金で、ということですか?」

「はい。意図はわかりかねますが、輝夫様からぜひそうしてくれと」

「俺は構いませんが……お手数でなければ。裏口のドアから入ってもらえますか。家族が寝ているので、チャイムは鳴らさなくていいです。鍵は開けておきますので」

「かしこまりました。では後程」

――振り込みのほうが面倒じゃないだろうに。

 一階で焼きそばを食べながら待っていると、二十分ほどで村上さんはやって来た。

「夜分遅くに、申し訳ございません」

 村上さんはテーブルの上に置いた風呂敷包を解いて、漆塗りの箱を俺に差し出した。次いで、「では、これで」とお辞儀をして踵を返す。特に引き留める理由もなく、「ありがとうございました」と、出て行く村上さんを見送った。

 あまりにもあっさりと済んでしまい、いまいち現実味がなかった。漆塗りの箱を開けてみると、三つの札束がきれいに並べられている。

 そのうちの一束を手に取ると、ぐにゃりと視界が歪んだ。札束を持つ手が、小刻みに震えているのがわかる。未だかつてこんな大金を手に持ったことは無く、俺が今感じているのは、喜びよりも恐怖だった。

 その恐怖が、あらゆる欲望へと変貌するのに時間はかからなかった。これがあれば、携帯電話が持てる。テーマパークへ遊びに行ける。いや、海外旅行だって――。

「どうしたの?」

 母さんの声で、はっと我に返った。激しく脈打つ心臓のあたりを、ぐっと手のひらで押さえる。全身が冷や汗でびっしょりだ。

「あ、ああ。謝礼金、もらったんだ」

「……そう」

 母さんが悲しげに俯いた。借金が減るのにどうしてなのか、今だに俺にはわからない。

「寝たんじゃなかったの?」

「ちょっと、喉が渇いて……顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」

「ああ、少し疲れただけだよ」

 俺は札束を箱の中に戻し、蓋をした。

 こいつは悪魔だ。人の心を黒く蝕む魔力を持った悪魔。俺という人間がそうさせているというのは百も承知だが、そうして敵意を持たなければ、とても正常ではいられない。

 そう思って、なぜか、張り付けられたような笑顔を向ける輝夫さんと、母さんの悲しげな表情が目に浮かんだ。

――何かとんでもない間違いを犯しているんじゃないだろうか。

 俺は「母さん」と呼んで、コップの水を飲んでいた母さんが振り向いた。

「何?」

「借金に充てる件、待ってもらっていいかな。しばらく店の金庫に入れさせてほしい」

「ええ、もちろんよ」

 母さんはほっとした笑顔を俺に向けた。踏み越えてはいけないラインを、一歩手前で踏みとどまった――そんな気分だ。

 俺は金庫の鍵を開け、漆塗りの箱ごと、悪魔を中へ押し込めた。

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