■No,2 始まりの鐘が鳴ったあと
「早く来い。待ってるから」
そう言って、杉浦徹也は通話を切った。
1限目の始業のチャイムが鳴り止んでも、2年7組の教室は騒がしいままだった。きちんと着席している生徒の方が少ない。
ここ水湖高校は複数の専門学科の集まる高等学校である。その中の7組は『家庭福祉学科』通称『家福』と呼ばれている。その名の通り、家庭科と福祉学科の複合クラスだ。
期末考査も終え、夏休みを待つばかりとなったこの時期、教室内は無法地帯に近かった。
一部の生徒は教室内で化粧をしたり、お菓子を食べたり、雑誌を読んだり、それが日常の風景である。
素行は悪いが2年7組全体の仲は良かった。女子の割合が圧倒的に多いクラスだが、5人しかいない男子も女子と打ち解けていた。
日本人形のように美しい黒髪を鬱陶しそうに掻き上げ、短いスカートの裾を気にせず足を組む。彼女は宮本あかり。瞳は髪と同じ黒に見える。その眉間にはくっきりと不機嫌が刻まれ、目を顰めて目の前の電子黒板を睨みつけている。
黒板にはホームルームが始まる前から、ずっと同じテロップが流れていた。
『本日の全校集会は延期。職員会議中のため生徒は教室待機』
どれだけ会議をすれば気が済むのだろう。1限目の始業のチャイムはとっくに鳴っている。
あかりは教卓に一番近い最前列の席だ。1限目の国語の授業に必要なものをすでに机の上に置いている。
その周りには仲の良いクラスメイトが3人集まっていた。
「後藤先生、まだ来ないね」
あかりの隣にイスを持ってきて座っているセミロングの女子が言った。
あかりが友達と認めているのはこの上原黎瑠だけだ。あかりが、パッチリとした猫の目のような瞳をしているのに対し、黎瑠はたれ目で一重だ。優しい性格がにじみ出ている顔は少し面長の輪郭。
「会議って、明日のクラスマッチのことかなぁ?」
キーの高い声が黎瑠の後に続いた。教壇に腰掛けている茶髪で少しくせっ毛の生徒。肩につきそうな長さの髪や、華奢な体のラインから一見女の子に見えるが、男子の制服を着ている。彼は山川 淳。大きなクリッとした瞳は髪色と同じ明るい茶色。中性的で幼げな容姿はとても高校生には見えない。
淳の隣にいる対比物がとびきりでかい男子なので余計に小さく見える。
杉浦徹也。さっきから黙ったまま、淳の隣に大きな体を丸めてぴったりと寄り添っている。
ぼさぼさな髪。寝癖が残るその頭は青く染められている。生え際はすでに黒い。
あかりは黎瑠にだけ心を開いている。淳も、まだクラスの中では話す方だ。
だが徹也の事は淳のオマケ程度にしか考えていない。本当はもう一人いつもつるんでいる男子がいるのだが、彼は遅刻のようだ。
いつも猫背で表情のない顔をしている徹也は、あかりにとってむしろ好ましい存在ではなかった。
「ねぇ、暑くない?」
誰となく、教室のあちこちでそんな声が聞こえてきた。
教師が来ないまま、すでに授業の開始時間から20分経過している。依然として生徒は自由時間を楽しんでいたが、教室内の冷房が弱いのか、少し室内温度が上がっているようだ。冷暖房完備の教室は年中締め切ったまま空調を利かせている。
空調の操作パネルは教室の後ろにある。そのあたりにクラスメイト達が集まっていた。
一人の男子生徒が振り向いてこっちを見た。短い髪を金色に染めている、宇佐美という名の男子だ。
淳を呼んでいる。
「なんだろう?どうかしたのかな?」
淳が立ち上がって宇佐美の所へ行く。
何やらドアの鍵の部分を触っているようだ。取り残された徹也と、あかりと黎瑠はその様子を黙って見ていた。
「…私たちも見に行ってみようか」
黎瑠が席を立つ。あかりはそれに付いて行った。
淳が教室のドアの鍵をいじっていた。
「淳くん、どうしたの?」
「鍵が壊れてるみたい。触っても開かないの」
二人の会話に大した興味がないあかりは視線を右に向けて空調の操作パネルを見た。
『冷房 15度』と表示してある。その下に現在の温度が『室内温度 29度』と出ている。
空調が効いている様子はない。パネルの29度という表示の通り、今は少し動くだけで汗ばんでしまうほど暑い。
「エアコンも壊れてるみたいだぜ。勘弁して欲しいよな」
あかりの隣に宇佐美が立った。宇佐美の話を聞いて黎瑠が応える。
「え…それじゃ…職員室に内線かけようか…?」
黎瑠が壁に備え付けの受話器に手を伸ばす。あかりは受話器の前に立っていたので場所を黎瑠に譲った。
内線は中々繋がらないらしい。あかりは視線を黎瑠から外して今度はドアの向こうを見た。
二つの教室が鏡合わせの形で向かい合っているため、引き戸の扉上部にある窓から向かいの教室が見える。
しかし、身長が150にも満たないあかりの視界では向こう側で椅子に座っているであろう生徒の姿は見えなかった。
見えるのは電子黒板に表示され続ける『本日の全校集会は延期。職員会議中のため生徒は教室待機』。
内線はまだ通じない。
「宮本、様子がおかしい」
あかりがはっとして振り向く。
いつの間にかすぐ後ろに徹也が立っていた。
あかりは彼の胸の辺りまでしか身長がない。圧迫感というより威圧感すら感じる。
しかし何より気配に気付けなかった自分に舌打ちする。
昔はこんなことなかったのに。
徹也の顔を睨むように見上げる。徹也はその視線に気付き、表情のない瞳で見下ろしてくる。一瞬眉をひそめたかと思うと、おもむろに身を屈めた。
「いいから、隣の教室、見ろって」
そう言ってあかりをひょいと持ち上げる。
突然の徹也の行動に文句を言う間もなかった。あかりの視界に飛び込んできたのは隣の2年8組の教室。教室の後ろから見下ろす形で2、3列辺りの生徒が見える。皆机に突っ伏して眠っているようだ。テストの余った時間に良く見られる光景。
しかし、床に崩れ落ちて眠っている生徒はいないだろう。
まさにそこだけ異質だった。
徹也の言った『様子がおかしい』はこの事だろう。床に突っ伏した生徒が一人。倒れたまま、周りの生徒も動く気配がない。みんな絵に描いたように止まっている。
あかりは徹也の手を振り払って着地するとすぐさま自分の席へ駆け戻った。
すぐ横でその様子を見守っていた黎瑠はいい加減繋がらない内線を耳から離そうとしたが、その時、呼び出し音が鳴り止んだ。
『……もしもし』
受話器の向こうから聞き知った男性の声。
「後藤先生?2年7組の上原です。あの、今すぐ来てください」
『上原か?起きてるのかお前達』
“起きてる?”
『今すぐ逃げろ!!早く!この学校から…』
ガシャン!
受話器の向こうから物音が聞こえた後、何も聞こえなくなった。
「え?……先生?」
ツー、ツー。
通話終了の音。
黎瑠は受話器を持ったまま立ち尽くしていた。
すぐ隣にいた徹也と目が合う。
何かが、起きている。
あかりは自分のバックから化粧ポーチを取り出した。黒いウサギのシルエットの形をしたキャラクター『kurousa』のプリントが入ったポーチだ。
「…開いたよ?ドア」
黙々と作業を続けていた淳が手を止め、控えめにそう告げた。
淳が振り返った瞬間、その後ろで扉は勝手に開いた。
『自分で開けちまったのか?大したガキだなおい』
こもった男の声。
開いたドアの向こうに、映画で見る特殊部隊のような格好の人間が立っている。
黒いゴーグルにガスマスクのような物を被って顔は見えない。大小のポケットが沢山付いたジャケットを着ていて、手にはサブマシンガンのようなものを構えていた。
…遅かった。
あかりは眉間を顰めて現れた黒服の男を睨みつけた。
扉付近に固まっていた生徒達は事態を把握できずに戸惑っている。
『西条主任、8組は全員眠っています』
『ん、じゃそっちからやっちゃってー』
もう一人黒い服の人間が見えた。同じ装備の黒服は隣の教室を開けて中を確認したらしい。
7組の教室にいる黒服が中へ入ってきた。
「暑ちぃ。なんだ、この部屋!冷房壊れてんのか…だからガキ共が起きてんだな」
男はマスクとゴーグルを外した。浅黒い肌、短い黒髪で右目の下に三日月のような形の傷跡がある。歳は20代後半あたりだろうか。
『主任!マスク取っちゃダメですよ』
「大丈夫だって。ここまで監視されちゃいねーよ」
『そういう問題ではなくて…』
あかりは男に見えないように、後ろ手でポーチのファスナーを開く。
「そっちドア閉めとけよ。ほれ、お前ら、さっさと席に着け」
男は8組に入っていた部下らしき黒服に扉を閉めさせると、自分も7組の扉を閉めて、しっしっ!と、乱暴に銃口を振って生徒達を退散させようとした。
「な、なんなんだ!突然来て、俺達に何する気だよ?!」
「そうよ、なによあんたたち…」
扉付近にいた宇佐美や女子生徒が声を上げた。しかし。
バンッ!!バンッ!!
男は無言のまま、警告なしに持っていた銃を発砲した。弾はあかりのすぐ横を通り過ぎて電子黒板に2発とも当たった。
電子黒板が一瞬で光を失い、画面が漆黒に染まる。
威嚇射撃のつもりか。
至近距離で銃口が火を噴くのを見た生徒達は悲鳴を上げ仰け反った。
教室が静まり返る。
下手にパニックになって逃げようとする生徒がいなかっただけ良かったのかも知れない。
「俺はお優しい学校の先生じゃねぇんだよ。ガキは黙って大人の言うこと聞いてりゃいいんだ」
男は低い声で言った。
教室の中の誰もが口を閉じる。
「…だから大人って嫌い」
あかりが口を開いた。