1.事の始まり
現地時間午前3時24分。
夜明け前のマニラ港は、いつにもまして海は穏やかで、辺り一面を街灯が色付けるオレンジ色に包み込み、音と言えば、ただ巨大なガントリークレーンの作業を行う機械音だけが甲高く響き渡っていた。フィリピンのルソン島、首都マニラの西側に位置する良港として知られているこの港は、古くから海運の流通の拠点として、利用拡大が続けられてきた場所である。開港当初より、アメリカ、東南アジア、そして西側諸国とを結ぶハブ港としても発展し続けてきたわけだが、今日ではそのポジションを近隣のシンガポールに奪われ始めていた。ここは、以前の活気を少しずつ失いつつある、そんな平穏な港であったはずなのだが…
ジョセフは同僚のポールと今、その港湾の一角にいて、昼間、眠るために深酒をしてしまったことを少々悔やみながらも、眠い目を擦り、ただ目の前にある一つのコンテナ情報を手元のバインダー資料から必死になって探していた。年の頃は40代半ばといったところであろうか。少し小ジワも気になり始めたものの、温和な顔立ちで、背丈もごく一般的なフィリピン人である。ジョセフという名前は戦後、この国で流行りとされ始めたアメリカ人によくある名前をと、今も健在な両親によってつけられたものだ。そんな彼がこの仕事に就いてからは、早もう20年にもなる。奥さんとの間には子供を3人授かっていて、そして自分の両親と共に住んでいるために、今も7人家族は狭い居住を強いられている。この国ではまだ、あちらこちらで、スラム街なるものの存在が見受けられるのだが、彼の住んでいる地域も、それに少し毛の生えたようなものだった。それでも家族を守る為にとジョセフは、常に努力を惜しむことはなかった。働きながらも片手間の時間でもあるものなら、昇進のための勉強は怠たらなかったし、昼間働くよりも少しでも賃金の高い夜間の勤務をと自ら希望して、昼夜逆転の生活をずっと送り続けてきたのだ。同僚のポールもジョセフと同じような境遇だった。だからなのだろうか、二人は妙に気が合い、互いに親身になって相談しあえる仲だった。だがこの国では、まだ過酷な労働をしなければならず、一部のものでしか満足な生活は送れる状態ではなかったのである。
「やっぱり、資料にはないな。このコンテナ部分に表示もないし、この荷は税関の検査をまだ通っていないんじゃないかな?」
仕事時には流暢になった英語を使用し、お互いの会話を交わしあってきた。彼らの地元ではまだまだ現地のタガログ語が主流ではあったのだが、この港湾荷役作業の仕事においては英語が必需であり、彼らが必死で勉強してきたもののひとつでもあった。荷の入庫から、検品、保管、ピッキング、出庫に至るまで、また取り扱う物品は、原材料から、半加工品、食品、医薬品と多種多品目にわたっており、多様な知識も要求されるのだが、その全ての書類が英語表記で統一されているからだ。
「どうせ、いつもの事務局側のミスなんじゃないのか?そんなに気にすることはないだろ?」
確かに相方のポールの言う通りなのかもしれない。検査済みの荷のリストが資料に載っていないことは今日までにも度々あったからだ。その都度、彼等の弁解を聞き入れてきたのである。
「まあ、人間のやることだからな、失敗ってもんはあるさ。仕方ないだろ?」
といつもそれは自分らを庇いあうものであって、その言葉を発するのは事務所側のお偉いさん達のほうなのだから、それを聞かされるのは仕方ないと言えば仕方ないことであるのかもしれない。でも、もし現場が一生懸命に仕事をしていても、その作業が残業時間にでも食い込んだものなら、
「お前らのせいで、うちは業績があがらないんだ。時間を無駄にするんじゃない、経費削減をもっと意識しろ」
と偉ぶり、叱言を言われることが常であって、その度に現場の者はやるせない気持ちになってきたのだ。この資料にない荷の確認作業をするのに、どれだけの無駄な時間が新たに費やされることだろう。ジョセフは大きくため息をついた。
「だけど、コンテナ側に表示もないというのは初めてなんじゃないか?」
「そうだな、チッ。また残業になりそうな雰囲気だな。俺たちのせいじゃないのに、奴らになんやかんや言われるのはたまったもんじゃないよ」
そう言っていた最中、二人の周りに黒づくめの衣服を身に纏った数人の作業者がお互いに一言、二言の言葉を交わし合いながら、屯してやってきた。もうそろそろ、この一角の荷も船積みの準備が始まるのだろう。
ジョセフはトランシーバーを手に取り、急かすように事務所に何度も何度も連絡を入れてはみたものの、相手側からは何の応答もなく、無声な雑音状態だけをこちら側には返してくるだけであった。
「また、居眠りでもしてるんだろう?ったく」
「仕方ない。ちょっと彼等を待たせててくれないか?事務所まで確認を取りに行ってくるから」
事務所といっても、このマニラ港は広く、北港、南港、マニラ・インターナショナル・コンテナターミナル(MICT)、小規模貨物ターミナルと大きく4ブロックに区切られていて、彼等が現在いるのはMICTの最北端だった。中には空の長年引き取り手もないコンテナが何重にも積載されている、その不気味な区間をいくつも越えてたどり着かなければならない場所に事務所はあるのだ。往復するだけでも、少なくとも何十分かはかかるものなのに、調べるとなると…。
「おい、ちょっと待てよ。言葉、わからないのか?panoorin ito」
ポールの作業員に対しての言葉で既に苛立ち始めているのが、ジョセフには十分に伝わっていた。
「すぐ戻るから、悪いが後を頼むな」
ジョセフが振り向き、走り出そうとしたその時である。激しい痛みが彼の喉元を襲ったかと思うと、声を出そうにも出せなくなってしまい、目の前が突然に真っ暗となる感覚に襲われ、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れこんでしまったのだ。ポールはそのドサっといった物音と共にすぐさま、その異変に気付いた。
「どうしたんだ?」
振り返って、ジョセフのほうに駆け寄ろうとした、その時だ。彼の背後から伸びてきた腕が鋭く彼の前を風のように過ぎ去ったかと思うと、ポールもまた自分の喉元に激痛を感じ、そこから溢れ出したヌメッとした生温かい感触に耐えきれなくなってその場に倒れこんでしまった。
ポールの身体は激しく痙攣し始め、怯え、そして薄れゆく彼の意識の中では、もうその慣れ親しんだはずの言葉の意味さえも理解が困難な状態にまで陥っていた。
「Walang ploblema」
鋭利なナイフを持った者達の中に、二人を冷たく見下ろし、そう口元のマイクに呟く者がいた。
「よし、荷を早く積み込むんだ」
巨大な古びた貨物船のデッキには、眼光は鋭く、小柄だが割腹のいい、いかにもこの組織の頭であるといった風貌をしたその男が、数人の銃を構えた部下に自分の身辺を厳重に警護させながら、各部署にそう端的に指示を出していた。この男の言葉に反応したのだろう、次々に彼の元へと返答があった。
「Ok、こちらクリア」
港湾事務所では数人の職員が後頭部を撃たれ、デスクの上を赤く染めた、うつ伏せ状態の骸の背後から、その黒服の男はマイクにそう合図を送った。
「Ok、クリア」
ガントリークレーンがコンテナを船上に降ろしたかと思うと、用済みとばかりにオペレーターも同じように背後から頭を撃たれ、暗い海へとそのまま突き落とされた。
ものの小一時間もしない内に、全ての作業を終わらせ、次から次へと船内に男の部下達は乗り込んできた。その人数は総勢20名程度といったところであろうか。各個人にはその手に、その肩から、そしてベルトに至るまで様々な武器が携帯されていて、かなり悪質な武装集団であろうことは誰の目から見ても予想がついた。
「では諸君、出港しようか、我々に輝かしい未来を与えてくれる、日本へと向けてな」
お互いに見合ったその者達は、これから始まろうとする事態に自分たちの希望と夢を託し、活気たる言葉と喜びとを、渡された瓶ビールを片手にしながら交わしあっていた。
まだ、東の空は新しき日を輝かせることもなく、この不穏な出来事を明るみにすることはなかった…。




