07
「ここ……まで来れ、ば、もう、大丈夫」
僕らは満身創痍の状態で、なんとか『はじまりの町』のすぐ近くまで辿り着いた。緋色髪の女の子は膝に手をついており、僕はというと、大の字で草原に寝転んでいる。
「はじまりの、町近辺は安全圏エリアに指定されてる、から」
「そう……なん、だ」
息が切れ切れで、まともに会話すら出来ない。ゲームの中ですら、この「スタミナが切れる」感覚を忠実に再現している辺り、いかにLWOが高い技術力によって作られているか、が分かる。
ようやく息が整い始めて、僕はまだ大切なことを言っていないことを思い出した。
「あの。さっきは助けてくださって、ありがとうございました」
「助けた、だなんてそんな。私はただ」
「そんなことないですよ。あなたが来てくれたから、僕は今こうしていられるんです。本当に格好良かった」
「えっ?」
「僕はいつだって、なんにもできなくて……ってすみません、初対面の人に何言ってるんだろう」
たはは、と頭を掻いて誤魔化す。彼女がどこか、あの車イスの娘と被って、ついうっかり口を滑らせてしまった。
「そんなことないよ」
「え?」
「二人で逃げられたのは、君のお陰だから」
「いやいや、僕は何も」
「私一人じゃ逃げられなかった」
「でも僕はあんなに戦えませんし」
「私だって、躱すのに精一杯でとても」
「いやいや」
「いやいや」
……ぷっ、と噴き出すのは同時だった。
「私、カエデっていいます。君は?」
彼女は……カエデさんは名乗りながら、左手を振ってウィンドウを表示させた。すると彼女の頭上にカーソルが現れて、その上にKaedeと記されていた。
なるほど、これがゲーム内での自己紹介の仕方なのか。
僕も同じようにウィンドウを表示させて、
「一です。漢数字の一と書いてハジメって読むんですけど」
「え?」
僕は初め、カエデさんが不審がった理由が分からなかった。
カエデさんの視線は僕の頭上……つまり僕の名前が表示されている辺りに注がれている。彼女は口元に手を当てて何かを呟いていた。
答えがまとまったのか、僕の方に向き直って、
「……もしかして、本名?」
「え、そうですけど」
「……自分の手元を見てみたら?」
「へ? ……あ」
表示させた手元のポップに『Kazu』と書いてあるのを見てはっとする。しまった。
「うん……よくあることだよ……」
フォローのようでフォローになってない。その言い方だと、どう考えても「よくある」ことじゃないよね……。
渇いた笑いしか出てこない。腰を抜かしているところを助けてもらって、逃げる時も先にバテて、名乗る名前を間違える。恥ずかしすぎてもう嫌だ。
「でも、そっか……君が」
「?」
「いえ、なんでも。よろしくね、ハジメくん」
「あ、はい」
なんだろう、さっきまでとカエデさんの雰囲気が変わったような気がする。ただ、その変化が何なのか分かる前に彼女が手を差し伸べてきたので、特に気にしないで「こちらこそ」と握り返す。
うわぁ、なんで手の感触までリアルに再現してるんだ。つくづくこのゲームには感心する。女の子の手ってこんなに柔らかいんだ……。
「ハジメくん、この後はどうするの?」
「この後?」
「何か目的があってログインしたんでしょう?」
「目的、かぁ」
「……ないの?」
「うーん、いきなりスーツを着た男の人に『やってみろ』ってパッケージを渡されて。ゲーム自体やったことがないから、勝手が全然分からないんです」
「その人、口が悪くて、ぶっきらぼうだった?」
「なんで分かるんですか?」
「やっぱり。私と同じ」
「え!?」
「私もね、流田さんに勧められたのがきっかけなの」
「ながしださん?」
「うっそ、名前すら言わなかったの? よくそんな怪しい人に渡されたゲームをやろうと思ったね……」
「ちょっと色々ありまして」
「うん……いかにもあの人が使いそうな手法だよ……」
ってことはカエデさんも僕みたいに乗せられちゃったのかな?
流田さんっていったい何者なんだ。
「うん。決めた」
「へ?」
「ハジメくん、右も左も分からないんだよね?」
「恥ずかしながら……」
「よかったら、私が案内しようか?」
程なくして、僕らは『はじまりの町』に到着した。
煉瓦の塀が腰の高さ辺りまで積まれていて、それがぐるっと町を囲んでいるのだそうだ。
「見た目ではほとんど仕切りの意味はなさそうだけど、システム的にはこの境界線で全然違うの」
ってカエデさんは言ったけど、ちょっと信じられそうにない。
町名の通り、町並みはシンプルで清閑だ。中世のヨーロッパがモチーフなのか、建物は煉瓦造り。メインストリートに沿ってシートやテントが立ち並び、バザーのようになっていた。
僕らはぶらつきながら、店を物色して回っている。
「色んなものが売ってるんですね」
「このほとんどが売り物じゃないんだけどね」
「えっ!」
「……本当に何も知らないんだ。これはね、ただの背景。ゲームの雰囲気を出すために配置してあるだけで、実際には何もないんだよ」
「で、でも町の人と話してるじゃないですか」
「あれも背景。たしかに会話してるように見えるけど、実際に声は聞こえないの」
試しに僕は耳を澄ましてみた。お店の人と買い物客とは確かにお喋りしているように見える……けど、やっぱり声だけは聞こえない。
よくよく町の人を観察してみると、外見にいくつかのパターンがあった。別の言い方をすれば、同じ顔の人がけっこうな割合でいる。
「手を握った時の感覚とか、怪物の凶暴さとか、そういう面は凄くリアリティがあるのに、町の中ってどうもゲームっぽいですね」
「全部を全部、完璧に作るって難しいんだよ、きっと」
でも、そういう制作上の都合を除けば、やっぱり町の景観はとても丁寧に作られている。テントや煉瓦の質感、町の造り、色んな要素が現実のそれと見分けがつかない。つなぎ目の部分や、隅っこの解れまで再現されているんだから、本当に大したものだ。
「あ、そうだ。ハジメくん、HPの見方って分かるかな」
「えいちぴーって何ですか?」
「そこから……。HPはヒットポイントの略だよ。自分の命を数値化したものなの。これが0になったらゲームオーバー」
命を可視化する……僕はそれが実に恐ろしいことに思えた。だって、それは寿命が目に見えて分かるってこと。さっきみたいに怪物が襲ってきて、自分の命が消えていくのを見せつけられたら、気が狂いそうだ。
「だから、自分のHPにはいつも気を配らなきゃいけないの」
「カエデさんはそれで平気なんですか?」
「へいき? どうして?」
「僕は……自分が消える運命が見えてしまうのは、ちょっと……」
「うーん、私は結末が見えている方が、対処しやすくなっていいと思うな」
強いな。この人は。
「初めは戸惑うかもしれないけど、この世界だと普通のことなの。だから早めに慣れてね」
「分かりました」
「でね、その確認方法なんだけど……さっき、私が自己紹介をした時の感覚、覚えてる?」
「はい。目の裏側に直接映像が送り込まれるような」
「そうそう。あれを自分でやるの」
「どうするんですか?」
「外の景色を眺めながら、自分の視界を切り離すの。遠くを見ながら近くに意識を向ける感じで」
言われた通りにやってみる。
すると、視界が望遠鏡を覗いているような感覚に変化した。もちろん実際に狭まっているわけではないんだけど、とにかく「覗いている」状態。
「あ」
「出来た?」
「この、左上の方にある黄色のバーですか」
「そう。普段は緑色で、半分を切ると黄色、本当に残りが少なくなると赤色になるんだよ」
「え! 今の僕ってけっこう危険なんじゃ」
「大丈夫。町の中だとHPって減らないから」
なんとなく心配だけど、そう自信満々に言われたら引き下がるしかない。
「あれ? カーソルが」
スクリーン越しに見る視界に、様々なカーソルが出現していた。カエデさんの頭上や、通路にある看板、……。
「その状態だと、プレイヤーとプレイヤーがアクション出来るものにカーソルが出るの。モンスターを見分ける時にも必要だから、無意識に出来るようにしてね」
ちょっと練習しなきゃな……と思った矢先。
奥の方に、影を駆けるネズミが見えた。もちろんカーソルが出ていて、赤黒い色だった。そのネズミは建物と建物の間にするりと潜り込み、あっという間に消えてしまう。
「それで、元に戻すには少し長めに瞬きするんだよ」
「あっはい」
言われた通りにすると、いつもの感覚になった。
「カーソルって小動物に出ることもあるんですか?」
「うーん、モンスターだったら出ると思うけど、私は見たことないかな」
「今さっき、赤黒いカーソルのネズミがそこを」
と、建物の溝を指さす。
「赤黒いって……それ、さっきのNMクラスじゃないと」
「どういうことですか?」
「カーソルの色の濃さは、危険度を表すものなの。プレイヤーや町の看板は無害だから青色、弱いモンスターは緑色。モンスターが強くなるほど色が濃くなって、出会ったら最後ってくらい強いモンスターは真っ黒になる。だからネズミにそんなカーソルが出るわけないよ」
さっきの怪物、そんなに危険だったんだ……。
ってことはやっぱり、僕の見間違いなんだろうか?
「さ、そろそろログアウトしよっか?」
「え、あっはい」
「初めてのプレイでいきなりあんな戦闘をしたんだもの、あんまり長居しない方がいいと思う」
カエデさんの言う通りだろう。模試の後にどっと疲れが来るのと同じで、精神的疲労ってけっこう体力を消費する。
「私が君を誘ったのはね、ログアウト出来ないんじゃないかって思ったからなの」
「え、メニューからログアウトできるんじゃ?」
「考えてみて。なんで私が君を逃がそうとしたのか」
僕があの怪物と鉢合わせてしまった時。カエデさんは我が身を省みずに僕を助けてくれたけど……「ログアウトして」とは言わなかった。
よくよく考えれば、あの場ですぐログアウトしてしまえば、差し当たって僕に危険はなかったはず。もちろんその選択肢をすっかり忘れていたわけだけど……。
ということは、つまり。
「ログアウトするのに何かルールがあるんですか?」
「正解。いつでもどこでもログアウトできたら、都合が悪くなった瞬間にゲームをリセット出来てしまう。だからログアウトにも制約が設けられているの」
「なるほど」
「基本的にログアウトできる場所、言い換えるとセーブポイントは二ヶ所だけ。一つは宿、もう一つは教会。宿はさすがに分かるよね?」
「お金を払って泊めてもらうんですよね。あ、でもそのお金は」
「ゲーム内通貨があって、それを支払うの。だからリアルマネーの心配はいらないよ」
「じゃあ、教会って?」
「二つある、ってことはちゃんと違いがあるの。宿はお金が掛かる代わりにHPが全快する。教会は無料だけど、ログアウト前の状態がそのままになっちゃう」
「もし今、僕が教会でログアウトしたらHPが黄色のままってこと!?」
「うん。だからなるべく、宿でログアウトした方がいいよ。でも満室の時もあるから、そういう時は仕方ないね」
カエデさんはそのまま、彼女がいつも使っている宿を紹介してくれた。
「宿のメリットはね、喫茶店やバーが併設されていることがあって、一息つけるところかな。それにイン/アウトするための個人スペースが保証されるしね」
「でも、僕お金が」
「大丈夫。プレイヤーには初めから少しだけどお金が支給されてるから。現実みたいに一泊一万なんて掛からないから安心して」
宿の中には誰もいなかった。カエデさんの言った通り、ロビーのような椅子と机が配置された休憩スペースがある。その奥にカウンターがあって、上に帳簿が置かれていた。
彼女は宿主を探す素振りもせずにそのカウンターの所まで行くと、なにやら半透明のポップを操作し始めた。ポップが消えると、僕を手招きする。
「今回は特別に、私が二人分払ったから」
「え!? すみません……」
「いいのいいの。そんなに高い額じゃないから」
「何から何まで面倒見てもらって……なんてお礼をすればいいか」
「ううん。お礼を言うのは私の方。これはほんの気持ち」
「でも助けてもらったのは僕の方で」
「そうね……。なら、これでおあいこってことで」
僕としては納得がいかないけど……これ以上ごねても逆に困らせちゃうだけだ。ここは素直に、ありがたく受け取っておこう。
でも……本当に、僕が何か彼女の役に立ったのかな。
「さ、部屋は二階だよ。私は二〇二号室、ハジメくんは隣の二〇三号室。扉の開け方は、さっき教えたカーソル視点でドアノブにカーソルを合わせるんだよ」
あ、カエデさんが部屋の予約を取ったのも、カーソル視点で帳簿を選択したからなんだ。これができないと、本当に何もできなさそうだ。
「部屋に入ったら自動で鍵が掛かるから。そうしたらメニューからログアウト出来るようになるよ」
「分かりました」
「じゃあね」
ひらひらと手を振って、カエデさんは自分の部屋へと消えていった。
僕も休もう。
ええと、まずはドアノブをじっと見て、映った景色を切り離すイメージで……よし、カーソルが出たぞ。
ドアノブに手をかけて中に入る。
簡素なベッドと小さなドレッサーが置かれただけの、シンプルな内装だ。なんというか、異国の隠れ家で休日を過ごしているような気分になってくる。
僕は豪快に、ベッドに倒れ込んだ。思ったより反発が強い。これは気持ちがいいや。
横になった途端、どっと疲労が押し寄せる。仮想世界での疲れって、現実の体にどういう風に影響が出るんだろう?
僕は左手を振ってメニューウィンドを表示させた。チリンという音が小さな部屋に木霊して、それがどこか虚しい。
(そっか……)
もう、カエデさんと出会うことはないだろう。
短い間だったけど、僕と彼女は共に死線を潜り抜けた。それなりに仲良くなった……と思う。
でも、ログアウトしたらそれでお仕舞い。現実の彼女のことを何も知らないから、別れたその時点で全部消えてしまった。
(もっと話したかったな)
寝っ転がりながら、僕はそっとLogoutをタップした。