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02

ここから、話の内容が完全に別物となっています。

 気付くと僕は、海にいた。

 なんだそれは、って聞かれても困る。本当にそうなんだから。

 家を飛び出して、自転車に跨がって、無我夢中でペダルを踏んだ。足を動かすこと以外のすべてを捨て去って、ひたすらに進んでいたら、たまたま海岸沿いに出た……それだけ。

 額から流れる汗を拳で払う。今日の天気は晴れ、最高気温も十度前後と真冬日和だけど、とにかく風が強い。天気予報でも「強風に注意」って促していた。

 吹き荒れる潮風は嵐のようで、ペダルを漕ぐのにも一苦労。一歩を踏み出すことがこんなに大変だなんて、初めて知った。

「うっ」

 突風はヒュー、と音を立てて僕を襲う。風の音って本当に、竜の雄叫びみたいで、僕の自転車は、その見えない壁に徐々に圧されていく。端からみれば、初めて自転車に乗った小さい子供のようだろう。

 でも僕は、自転車を降りない。歩いて引こうとも思わない。ここで立ち止まったら、すべてが終わってしまうような気がしたから。

 どれだけ向かい風が強くても、それに逆らって進まなきゃいけない。上手く言葉にできない感情に駆り立てられたまま、愚直に前へ前へと進む。

 その時だった。

 風の向きが急に変わる。正面から注ぐ息吹は、僕を飲み込むように渦を巻いた。横殴りの風に僕の側面は叩かれて、流されるままに車体が傾く。

「っ」

 声すら出なかった。ガシャーン! という横転した音すら、どこか遠くの出来事のように聞こえる。アスファルトに打ち付けた左半身も、痛いような気がするのに、その痛みがよく分からない。

(……あれ)

 僕は自転車の下敷きになっていて、しかも車道に身を投げ出している状態だ。早く起き上がって歩道に戻らないと、走行車の邪魔になってしまう。

 なのに、体が動かない。

 痺れているのか、脱力しているのか。動こう、動け、頭はそう命じているのに、その指示を受け取ってくれない。

 ――無理。

 脳裏にはその二文字が焼き付いている。僕の体は、意思は、ただの文字列に縛られて、刃向かおうとすらしない。

 僕は、木偶の坊だ。

 急に視界が暗くなった。灰色の車道が見えることには見えるんだけど、薄い膜が掛かったように映っている。頭でもぶつけたのかな。

 向こう岸はうっすらと見えている。でもそれが反対車線なのか、それとも別の場所なのか、もう区別がつかない。

 そんな朧気な視界を「何か」が横切った。

 ――近づいてくる?


「大丈夫ですか!?」


 僕の視界は遮られた。というのは、真っ暗になったわけじゃなくて、「何か」が僕の前に立ちはだかったからだ。

 ウゴケマスカ、とか、ドウシヨウ、とか、耳元で人の声がする。僕の知っている言葉のはずなのに、異国語を聞いている気分だ。

「……もしもし。あ、うん私。あのね、人が倒れてるの! 落ち着けないよ! 車道に倒れてるの。もし車が来たら……え、意識? どうだろう、分かんない。大怪我はしてないみたいだけど……え、ちょっと、この人痙攣してる! どうしよう、どうしたらいい!?」

 なんでそんなに焦っているんだろう? 僕はただ寝転がっているだけなのに。

「うん、うん。分かった。でも、私じゃどうにもできないから、とにかく来てっ! ……分かってる。じゃあ、お願いね」

 体を揺すられてる。呼びかけられている。

 どういうわけか、この人は僕のために必死だ。それなら僕も応えなきゃいけないんだけど、呻き声を漏らすのがやっと。それも弱々しいもので、気付くかどうか。

「だめ。ぜんぜん反応しない。呼んだはいいけど、すぐには来れないだろうし……私が、なんとかしなきゃ」

 がちゃがちゃ、と何かを弄る物音。それに加えて、重い、とか、くっ、とか。もしかして、自転車をどかそうとしてる? 今の僕には人のことなんて言えないけど、自転車をどかすのってそんなに大変かな?

 しばらくして、ん、しょ! というかけ声の後に、またガッシャーンという目を背けたくなる音が響いた。下敷きになっていた左足の重みは消えた……けど、それでも力が入らない。

 その人は僕に動く気配がないのを確認すると、そのまま僕を引きずり始めた。でも、その距離は本当にちょっとずつで、むしろほとんど動いていない。

「動いて……動けっ」

 呻き声のようなその叫びは、とても痛々しい。心を締め付けるような切実さを帯びている。

「こんな時くらい……お願い!」

 やっぱり変だ。声からして女の人だろうけど、それにしても非力すぎる。僕の体型はむしろ痩せ気味だから、引きずるくらいなら労力はそれほど必要ないはずだ。

 なんで、そんなに苦しそうなんだろう。

 なんで、そこまでして僕に構うんだろう。

「なんで、なんでよ……」

 女性の嘆きは悲劇の前触れになってしまった。

 遠くからエンジン音が聞こえてくる。おそらく走行車。

 いくら真冬の海岸沿いとはいえ、ここは国道だ。今まで車が通らなかったことの方が奇跡に近い。

 空気が凍る。そりゃそうだ、このままじゃ二人とも跳ねられてしまう。

 あなただけでも逃げて。僕はもういいから。

 そう言いたくても、やっぱり、口は動かない。これだけ頭がしっかりしているのに、自由に体を動かせないことが、もどかしくて、腹が立つ。

 どうして、思い通りにいかないんだ!

(くそ、くそっ!)

 この際、僕はどうなったっていい。

 でも、僕を助けようとしてくれたこの人が巻き込まれるだなんて、納得がいかないよ!

(どいて、どけ!)

 残念ながら……というか当たり前だけど、僕に念力の才はない。それでも念じた力が、どんな形でもいいからこの人を守ってくれれば。そう信じて、心の中で必死に叫ぶ。

 でも、現実は非情だった。

 僕の意に反して……その女の子は、車イスに乗った少女は、まるで僕を庇うかのように、道路の中央に立ち塞がる。

(どうして! どうして逃げないんだ!)

 エンジン音はみるみる近付く。時速六十キロメートルで突っ込んでくる鉄の塊に跳ねられたら……想像するだけで悪寒が走る。

 時間が間延びして、迫る死期がゆっくりに感じられる。もうどうしようもないのに、それがじわりじわりと忍び寄る感覚は生き地獄そのものだ。しかも、ちっぽけな僕のために一人の尊い命が散ってしまう。苦しすぎて息ができなくなった。

(止まれえええー!)

 これほど激しく、誰かを想ったことはあっただろうか。

 これほど強く、思いよ届け、と願ったことはあっただろうか。

 しかし、時は待ってくれない。

 果たして――間近に迫ったエンジン音は、徐々に緩やかになっていく。僕の念力が通用したのかどうかは定かじゃないけど、車は僕らの目の前で停車した。

 ……どうやら、時間が間延びしたんじゃなくて、端っから減速していたようだった。

 車から降りてきたのは、スーツを着崩した三十路くらいの男性。煙草をくわえたぶっきらぼうな姿に、好印象は持てそうにない。

「よォ。無事か?」

「あ……」

「美江さんから話は聞いた。で、大袈裟な通行人ってーのはそこのボウズか? ……おいおい、ただコケただけかよ」

 その男性は無遠慮に僕をはたき始める。けっこう痛いぞこの野郎。

「ふん、たしかに動かねえな。オイ、頭打ったか? ……口もきけねえか。しゃーねえ」

 よっと、という実にオッサン臭い掛け声と共に、僕は易々とその男性に担がれる。

「ちょっと、」

「なに、このまま病院に連れてくだけだ。コケた瞬間を誰も見てない以上、CTでも何でも撮ってテメーん中を見ねー限り、何も分からんだろうが」

 どうやらこの無骨なオッサンと車イスの少女は知り合いらしかった。あんまり仲良くなさそうだけど、そこには互いが互いを知っている空気がある。

「安心しろ、お前も通ってる市立総合病院だ。あそこなら設備も体制も申し分ない。大事はないと思うが……それがハッキリするに越したことはねぇ。だろ?」

 男性の言葉に反論する余地はなかった。彼の言う通り、現に体の自由が効いていない。倒れた瞬間のことも、突然過ぎたのでよく分からない。

 ここは大人しく、従うしかなさそうだ。……身動きも取れないし。

 僕はそのまま黒い普通車の後部座席に乗せられて、その場を後にした。


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