6話 動き出す歯車
「予想以上にひどい」
下の惨状に僕は思わずそう漏らす。
「区画全体が汚れきり、異臭に満ちている。少数民族の比率が高いのも問題だが何より酷いのが」
住民に生気が全くない、若しくは表情が怨嗟に満ちていることだった。
「まるでこの世の地獄だ。クラリス、このラギンスタール街は征服して少しも経っていないのだろう? なのに何故ここまで酷くなっている?」
「理由は三つあります。一つはララリア地方自体が格差社会だったこと、二つは我らの侵攻によって既得権益を剥奪された民族が下に流れ込んだこと、三つは歴代の領主の施政の結果です」
「思うに三つめが酷過ぎたんだろうなあ」
「その通りです。赴任されてきた領主は上の区画を増やすことを至上目的としていましたから」
「その結果、重要な中が減って下が増えたと」
「左様でございます」
そんなすました顔で礼をされても嬉しくないんだけどなあ。
思わず頭を抱えてしまう。
「……少し休憩したい。ファラン、済まないが昼食を買ってきてくれ」
そろそろお昼時。
空腹で考えても良い知恵は出ないのでとりあえず休憩することにした。
「僕達はここで待っているよ」
僕は薄汚れた地面に腰を下ろす。
「ん? 何を驚いているんだい、クラリス?」
目を丸くしているクラリスに僕は言葉を続けて。
「もしかして襲われる心配をしているのかい? 安心して、護衛のシャロウが傍にいる限り身の安全は保障されている」
武道の達人であるシャロウは座らずに立位を保ち周囲を警戒してくれている。
少なくともファランが助けに来るまでの時間ぐらいは稼ぐだろう。
「あの、差し出がましい意見ですが衣服が汚れてしまいます」
何だ、そんなことを気にしていたのか。
衣服に付いた埃や汚れぐらい目だたないし払えばすぐに落ちる。
神経質になる必要はないのに。
「その考えが駄目なんだ」
僕は敢えて強く注意する。
「クラリスの意見は最もだ。しかし、この下の住人は汚れることを嫌がることが出来ないぐらい追い詰められている。そんな彼らの気持ちを共有できないで何が為政者だ」
為政者は万人と共感しなければならない。
最低限、貧困にあえぐ民衆の気持ちが分かるぐらいには。
「だからクラリス。君もここに腰を下ろすんだ」
「……分かりました」
大分逡巡したようだけど、最終的に僕の隣に座る。
が。
「せめてこれぐらいは許してください」
シート代わりなのかハンカチを地面に置いた。
そんな小さなハンカチだと焼け石に水程度なのに。
まあ、本人がしたいといっているのだから好きなようにやらせようか。
僕は軽く首を竦めた後、低くなった視点で辺りを見回した。
ファランが人数分のパンと飲み物を買ってきたので、僕達はそれを頬張る。
「毒が入っている可能性があります」
「何? シャロウ、まさかあんた私を疑っているわけ?」
と、そんなひと悶着があったけどね。
「やっぱり視点を変えるのは大事だね」
こうして下の区画を観察すると新たな発見がある。
「薄々感づいていたが、空気が悪すぎる。これだと息をするだけで卑屈になるよ」
充満する臭気が鼻を付く。
汚物と生ごみ、そして人の汗が混ざり合った酷い臭いだ。
「その他にも目につくのはゴミゴミゴミ……気が滅入るね」
路上に溢れたこれでもかと言わんばかりのゴミの山。
悪い意味で目に毒だ。
「莫大な金をかけてこれらを除去したとしてもすぐに元通りになるよね」
「その通りです」
「否定してほしいな、クラリス」
「無理でしょう。何故なら下の住民にそこまでの心の余裕はありません」
明日も食べられるか。
そんな不安に苛まれている者に掃除をしろと命令しても効果は薄いね。
「よし、皆の力を借りるか」
しばらく考えた僕は一つの案を思い浮かぶ。
「……赴任されてきた領主は傷つけられることを恐れていた。ならば僕はその逆を行く。クラリス、僕は最も治安の悪い場所を本拠地として構える」
領主の居住と政治の中心地は上の中でも上に位置された場所。
ならばそれを下の下に持ってくる。
そうすれば街の住民の意識も変わるね。
「何を馬鹿なことを!? そんなことをすれば大失敗は火を見るより明らかです」
無法地帯となった下の区画に街の心臓部を持ってくるとどうなるか。
日ごろから恨みを持っている住民は先を競って襲撃してくるだろう。
「まあ、そこは警備の者と役人の腕の見せ所だね。怠けていたり残業して遅くなれば命が危険となる」
安全な場所での警備や夜遅くまで残れる環境だと鈍ってしまう。
緊張感のある場所で各々の能力を確かめさせてもらおうか。
「言っただろ? 僕は傷つくことを恐れない。殴り合ってみせるさ」
成功すれば下の住民だけでなくラギンスタール街の住民全員の意識を変えることが出来る。
僕としては試す価値は十分にあった。
「なあに、失敗しても新しい領主が来るだけだ。だったら思いっきりやってやろうじゃないか」
「ですが……」
「諦めて下さい、監察官殿」
「そうよ、ケイミス様は一度言ったら絶対に動かないわよ」
なおも渋るクラリスをシャロウとラファンが説得した。
「さて、善は急げだ。早速やろう」
僕は勢い良く立ち上がり、早足にて来た道を戻って行った。
「クハハハハハハハハハ!!」
狂笑と表現してもさし支えないほどの笑いが部屋を満たします。
「知ってるかアンナフィリア。ララリア地方に就任したケイミスが面白いことをやったぞ!」
はい、ご存知です。
格差是正のため、政治の中枢部を下の下の区画に持ってきた政策は私達の耳に届くほど奇抜な代物だからです。
「さすがケイミスだ! 俺に出来ん真似を平然とやる! これこそ聖人――ケイミス=アクエリアス!」
「お言葉ですがガスターク。ケイミスの狙い通りにいくでしょうか?」
こんな無茶苦茶な政策。
どう考えても失敗します。
「成功するさ。何せ俺が認めたケイミスだぞ? 失敗するはずがない!」
ガスタークが認める云々はともかく失敗はしないでしょうね。
ケイミスの施政ぶりを詳細に確認すればするほど驚愕の一言に尽きます。
よくもまあこんな大胆な手を打ってきたと。
失敗すればどうなるか考えなかったのかと。
私なら考えついても実行は絶対にしないでしょう。
「あいつには人徳に加えて神をも味方にしている。でないと交戦中の敵国との和平交渉など絶対にできなかっただろうな」
それはギランバール国王との和平会談。
結果的にケイミスは一兵も出さず、一Gすら出さず、首尾よく両国の王と民から信頼を勝ち取りました。
が、そこまで持ってくるのにどれだけ危険な橋を渡らなければならなかったでしょう。
国の求めに応じない命令違反。
和平交渉に臨んでも相手に利用されるだけで終わる危険性。
挙句の果てに戦争全般の、全ての責任を負わされて家取り潰しという最悪の結果が隣り合わせでした。
「俺なら絶対にやらん。何故なら俺はそこまで人を信頼できんからだ」
ガスタークが他人と面会する際、相手は丸腰にも関わらず彼は武器を持ち後方に兵を伏せさせています。
「お言葉ですが、ガスタークは革命軍の中で最も人を信頼しています」
こう言っては何ですが、我ら革命軍は支配者階級以上に区別が厳しい。
事実、革命軍が支配している領土や国は独裁制を強いているのがほとんどなのです。
ガスタークの統治が革命軍の中では最も民主的でしょう。
「ククク、アンナフィリア。あんなどうでもいい連中に勝ったところで嬉しくとも何ともない。要は俺の心が理想の統治ではないと訴えているのだ」
ああ、そうですか。
「どうぞご自由に」
ガスタークの心まで私は面倒を見切れませんよ。
「さてガスターク。ケイミスの政策も興味深いですが、私達にはもっと切羽詰まった件があるのでは?」
「ああ、王国軍が本格的に討伐隊を編成した件か」
ケイミスの話題から外れた途端ガスタークは元の仏頂面に戻ります。
「編成を見てみるに王国軍よりも貴族共からの兵の比率が多いな」
「ケイミスは散々奇抜なことをやってきていましたからね。彼らはケイミスの功績を全て否定したいのでしょう」
無能の僻みと言いましょう。
なまじプライドが高い分嫉妬深いのです。
「しかし、大分編成が遅れたな。一体何をやっていたんだ?」
「その理由はもうわかっているでしょう。彼らは貴方がケイミスの世界を無茶苦茶にすると期待していましたが、ガスタークはそんなことをするつもりは一切ないと知ってしまったからですよ」
今でさえ私達はケイミスを貶める政策を取らず、逆に宣揚しています。
「やれやれ、馬鹿どもを相手にするのは大変だ。しかし、王国軍が出てくるのは問題ない。他の領土に潜伏している革命軍を相手にさせる」
革命軍の本領はゲリラ戦。
私とガスタークにとってはいずれ敵になる革命軍なので双方ともに消耗してもらいましょう。
「重要なのはバグズ同士――いや、バグズ元同士と言うべきか。奴が王国側と繋がっている証拠は押さえたか?」
「はい、抜かりなく」
ケビンの部下が動かぬ証拠を捕まえました。
「よし、バグズはまだ泳がせておけ。革命軍が大勝しすぎないよう情報を流す」
「承りました」
「ああ、それと奴を逃がすなよ。俺達の出陣の前に血祭りにあげて士気を高めるのに使う」
それと侵略される原因を全て彼に擦り付けるためですね。
ああ。
ケイミスのことを考えるガスタークもお好きですが、謀略を企むこっちのガスタークも大好きです。
「ガスターク、良い話と悪い話があるぞ?」
「ガラクス、悪い話が重要なんだ。今度からそっちから始めろ」
対王国軍戦闘準備時、俺――ガスタークでさえ寝る間を削るほど準備に忙殺されている最中にガラクスがやってきた。
こいつも色々とやるべきこと――俺が与えた仕事があるはずだが、それを推してやってきたということは相当切羽詰まっているらしいな。
「聞こう、手短に頼む」
俺は人払いを行って二人きりになった。
「革命軍の幹部の一人――バグズが王国軍と内通していた」
「……続けろ」
「結束し合わなければならない時でのこの事態だ。革命軍の日頃の横暴さも相まって兵士達は革命軍と合同で当たるのに嫌悪を示している」
「お前でも抑えきれないか?」
「難しい。何せあいつの密告によって俺達も少なくない犠牲を出してしまった。その恨みと怒りは相当深い」
許容範囲とはいえ、無能な働き者らしく少しやり過ぎだな。
真実味を出すためガラクス達も少しは被害を受けるのだが、彼らはケイミスが愛した者達。
必要以上に痛めつけるのは俺の心が痛む。
「良い話は?」
「そのバグズを捕えた。今は自決しないよう猿轡をかませて地下牢にぶち込んでいる」
「上々だ」
奴は是非とも捕まえておかねばならない。
でないと今後の計画に狂いが生じるからな。
「ガラクス、聞くが俺がお前達の上に立つのなら纏まるか?」
「うーん……不可能ではないが、身の安全は保障できないぞ。何せ今でもガスタークを殺せばケイミス様が戻ってくると信じている輩もいるし」
「クハハ、後ろから刺されるのは慣れっこだ」
俺は革命軍の連中でさえ信頼していない。
俺が満願の信頼を以て背中を預けられるのは後にも先にもケイミスだけだからな。」
「よし、なら方針は決まった近日中に王国軍を粉砕すべく出陣する。最高責任者は俺、この城にはアンナフィリアが残ってもらう。出陣する際にバグズを使って面白い物を見せてやろう」
バグズの残された役目は軍隊の結束力を高めること。
その目的を達せられるよう精々足掻いてほしいねえ。
知らず、俺は嗤う。
「やれやれ、覇王と讃えるべきか奸雄と蔑むべきか迷う表情だ」
そんな俺にガラクスはしょうがないといわんばかりに首を振った。