第3話 化け猫カーラジルト 7
太陽が沈んだ。
あの眩い光の円が山々の向こうにゆっくりと消え、闇が地上を覆って行く。
深まる夜の気配、そして輝きを増して行く月の気配を、七都は体全体で感じる。
七都は目を覚ました。
心地よい眠りだった。疲れも取れている。気分がいい。カーラジルトのおかげで。
カーラジルト?
七都は、ぎょっとする。
七都の鼻先に、眠っているカーラジルトの顔がアップになっていた。
グリアモスの黒い毛で覆われた猫の顔ではなく、魔貴族のカーラジルトの端正な顔が。
「ぎゃああああああああ!!!!!!」
カーラジルトは、七都の叫び声を聞いて目を開けた。
相変わらずの冷静なアイスグリーンの目が、七都を見つめる。
「姫君はまた、起き抜けに何を騒いでいるんだか」
カーラジルトが呟いた。
七都は、背中にしっかりと絡まっていた彼の腕を無理やり振りほどいて、彼から遠いところに素早く移動する。
「なななななんで元に戻ってるのっ!!!!」
「グリアモスになっているのって、疲れるんだよ。エネルギーがたくさんいるしね」
カーラジルトが言う。
「気を抜いたら元に戻る。仕方ないだろう」
七都は頭を抱えた。
わたし、この人と抱き合って寝てしまったんだ……。
恋人でもない男の人とっ……!
一緒に寝てとてもあたたかかったし、ぐっすり眠れたのは事実だけど……。
「やはりきみの言動は、いちいち心に突き刺さる」
カーラジルトが言った。
「結局傷ついてるんじゃない。なんだかんだ言いながら」
「そうかもしれないね。久しぶりの懐かしい感覚だ」
七都は、カーラジルトを見下ろした。
横たわっている彼はぞっとするほど妖しく、艶かしい。
どこか冷たい感じのする、翡翠のような不透明な目のせいかもしれない。
シャルディンは、彼のことを穏やかそうな物腰の男だって言ってたけど……。
確かに穏やかだよね。
文句はしっかり言うし、反論もするけど、絶対怒らないもの。
シャルディンはだんだん怒ってくる感じになっちゃうけど、カーラジルトは常に静かな水面みたい。
でも、カーラジルトって決して笑わない。
出会ってから、笑ったのを見たことがないような気がする……。七都は思う。
口の両端が少し上がることはあるとはいえ、それはとても微笑みとは呼べない。
メーベルルもナイジェルもジュネスも、そして元の世界に住んでいる見張り人たちも、今まで出会った魔神族は、七都にたくさん微笑みをくれたが、カーラジルトは微笑みめいたものすら浮かべない。
ユードも笑わないが、それはたぶん七都が魔神族だからで、相手が人間だったら、きっと普通に微笑みを見せているに違いないのだ。
婚約者のシイディアと一緒にいるときは、カーラジルトは笑うのだろうか。それとも、単にそういう性格だからなのか。
あるいは彼は、何かとても重いものを背負っていて、それが笑うことを妨げていたりするのだろうか。
七都は棚に近づいて、カトゥースのポットに手を伸ばす。
つかもうとした瞬間、ポットは七都の手を擦り抜けて、上に移動した。
「あれ?」
カーラジルトが七都の隣にいて、ポットを持ち上げていた。
……素早い。
気配も音もなかった。いつのまに。
「そういうことは、私がやる。お姫さまにはさせられないから」
カーラジルトが言った。
「やめてよ、気を使うのは。自分で出来ることは自分でするよ。わたしは、お姫さまとして育ったわけじゃないもの」
「だが、私は風の魔貴族。立場的には風の王族、つまりきみの臣下だからね」
「臣下……。家来……?」
「そう。たとえば将来、もしきみが私の主君になったなら、何か事があった場合、私はきみの為に戦わねばならない」
カーラジルトは、七都を見つめた。
「私はきみに対して、今はぞんざいな口のききかたをしているが、本当はそういうことも許されない」
「いいよ。ぞんざいでも。そのほうが堅苦しくなくていいもん」
「だめだ。次に会うときは、きっときみは王族であることが確かになっているだろう。だから、次回からは態度を改めなくてはね。でないと、また彼に目の敵にされてしまう」
「リュシフィンか……。やっぱり彼と仲が悪いの?」
「いや……。さ、どうぞ。姫君」
カーラジルトは、ガラスのカップにカトゥースのお茶を注いで、七都に差し出した。
「ありがとう。あなたは飲まないの?」
「こういうのはやはり、入れたての熱いもので飲みたいから」
カーラジルトって、もしかしてグルメ? それに猫舌じゃないんだ……。
七都はカトゥースのお茶を飲みながら、彼を上目遣いで見つめてみる。
「カトゥースのお花は?」
「そういうものを食べる習慣はないね。そうする必要もない」
カーラジルトが答える。
だよね。カトゥースよりもずっと栄養のある、良質なエディシルをいつも食べてるわけだもんね……。
「じゃあ、わたしは、遠慮なくいただきます」
七都は、花瓶にたくさん入っていたカトゥースに手を置いた。
たちまちそれは、残らず黒い残骸になる。
同時に七都の体の中に、エディシルがゆっくりと廻っていく。
七都は目を閉じて、その感覚を味わった。
これで元気が出るから、また当分、旅が続けられる……。
目を開けるとカーラジルトが、何重にも巻かれたやわらかい布を手に持っていた。包帯のようだ。
「ありがとう」
七都がそれを受け取ろうとすると、彼はためらいがちに言った。
「やっぱり、私が取り替えさせてほしいなんて申し出たら、怒るんだろうね」
「当然。自分でやりますから」
七都は、カーラジルトの手から包帯をひったくる。
「で? 自分で出来るの?」
カーラジルトが訊ねる。
「……出来ないかも」
七都は呟いた。
自分で巻いたら、きっとすぐにゆるんで、はずれてしまう。
胸に包帯なんて巻いたことないし、巻き方も知らない。
ゼフィーアもシャルディンもきっちり巻いてくれたけれど、あんなに上手に出来るわけない……。
「では、私にさせてくれませんか、姫君? どうか」
カーラジルトは七都の前に片膝をつき、手を出した。
突然の彼の丁寧な態度に、七都は少し躊躇して、彼を見下ろす。
この人は、自分のことをわたしの臣下だと言った。
何かあったときは、わたしのために戦わなければならないと。
それはとても深い意味を持った言葉だ。命を懸けるということなのだから。
ゼフィーアも、彼女の主人には従わなければならないって言ってたけど、アヌヴィムと魔神族との関係とは違う。
シャルディンをわたしは、いわば魔力で縛っている。だけど、カーラジルトはそうじゃない。
わたしは、シャルディンとは別の信頼関係をカーラジルトとの間に築かなければならないのかもしれない。
忠誠なのか隷属なのか、どういうものなのかはわからないけど、とにかく王族と魔貴族には深い絆がある。わたしは、それを大切にしなければならない。
七都は、手に持った包帯を眺めた。
彼に取り替えてもらうのを拒むのは、もちろん恥ずかしいから。彼に体を見られたくないから。
それは、女の子としては普通の反応の仕方だと思う。
けれども、王族の姫君としては、たぶんそういう態度を取ってはならない。
そういう態度をするということは、臣下である彼を信頼していないということをあからさまに宣言しているようなもの。彼を失望させ、悲しくさせてしまうことなのだ。
こちらが信頼しないなら、当然相手も信頼はしてくれなくなってしまう。
<こんなことでいちいち恥ずかしがっていたら、この先、相当困ることになりますよ>
ゼフィーアの言葉。
また思い出してしまう。シャルディンの時に引き続き……。
「わかった。あなたを信頼することにする」
七都は呟いた。
カーラジルトが、顔を上げる。
七都はカーラジルトの手のひらの中に、転がすように包帯を置いた。
「ではお願いします、アールズロア伯爵」
七都は、思いきりよくチュニックを脱ぐ。
それから薄く血の滲んだ布をむしり取るように、胸からはずした。
もう、こうなったら勢いだ。
のろのろはずしていたら、だんだん恥ずかしくなってきてしまう。
威厳を持って、頭をしっかり上げて、彼の前に立つ。そうしよう。
血は、とうに止まっていた。
薬が効いているらしい。いつもの暗黒の傷口が、七都の胸に深く刻まれていた。
カーラジルトは七都のあらわになった胸を見て、アイスグリーンの不透明な目を大きく見開いた。
それから目をそむけ、眉を寄せる。
え? 何、その深刻そうな不安になる動作は?
カーラジルトは立ち上がった。そして、七都の肩を両手でいきなりつかむ。
彼は、七都を至近距離から見下ろした。
ちょっと。ちょっと。信頼関係がいきなり崩壊?




