第1話 紅目の魔法使い 3
部屋に入るなり、七都はカトゥースの容器を置き、メーベルルの剣とセージにもらった胸当てをはずして、ベッドに勢いよくダイブする。
ベッドは七都の体を包み込み、しっかりと支えた。
もちろん、ゼフィーアとセレウスの館のベッドほどふかふかでも、洗練されてもいなかったが、それなりに丈夫なベッドで、きちんと整えられ、清潔でもあった。
「あー、きょうは、屋根つきの建物のベッドの中で、気持ちよく眠れる……」
七都は呟いて、ベッドに寝転がる。
そして、ベッドからの低い目線で、部屋の中を見渡してみた。
そこは二つの狭い続き部屋になっていて、一応寝室とリビングに分かれていた。
家具は、ベッドと、テーブルに椅子二脚、そして備え付けの棚のみ。
この宿屋に見合った感じの、デザインよりも実用性にこだわった調度品だ。
いちばんいい部屋にしては粗末なものではあったが、一泊だけ過ごすには十分だった。
しばらく寝転がったあと、七都はおもむろに上半身を起こし、服の隙間から、そっと胸を覗いてみる。
相変わらずそこにあるのは、目をそむけたくなるような、恐ろしい傷――。グリアモスの爪で引き裂かれた痕だった。
この傷を晒してふらふら歩いたら、ゾンビにしか見えない。七都は、自虐的に思う。
けれども、胸の傷は少しずつではあるが、治ってきているような気がする。
暗黒が中に見えている傷口は、以前よりは塞がった。
気休めかもしれないが、確かに小さくなったような感じがする。
やっぱり、カトゥースと蝶のエディシルのおかげだろう。
カトゥースがお菓子でも、蝶にはハンバーガーとか、たこ焼き程度の力はあるはず。少しずつでも、傷口がふさがっていってくれれば……。
もし、この状態のまま元の世界にもどったら、どうなるんだろう。
七都は、ふと考えてみる。
やっぱり向こうでも怪我がそのままだろうから、たぶん救急車で運ばれて、病院直行……だよね。
で、もちろん長期入院。夏休みどころか、二学期になっても、余裕で、まったりどっぷり病室の中。
果林さんにも、心配と迷惑をかけてしまう。料理の学校に行くどころじゃなくなるに違いないもの。
その前に果林さん、傷を見た途端、気を失うかも。
となると、帰るまでには絶対にこっちで治さなきゃ。
風の城には、魔神族のお医者さんっているのかな。
ナチグロ=ロビンも、もうそこでは意地悪はしないよね。
ちゃんと手当てしてくれると信じよう。
彼が出来なくても、リュシフィンなら出来るだろうし……。
ユードが言ったように、傷口を跡形もなくきれいに治そうとするなら、魔王かグリアモスのエディシルがいるのかもしれない。
だとしたら、リュシフィンは魔王、ナチグロ=ロビンはグリアモス。二人とも揃っている。
だが、彼らがエディシルを快くくれるとしたところで、自分は何の抵抗もなく、素直にもらう気になれるのだろうか。
窓の外で、微かなパタパタという音が聞こえる。
ガラスの向こうで蝶の集団が舞っていた。
蝶たちは、透明な羽根でガラスをたたいている。
「晩ご飯!」
七都はベッドから起き上がって、窓を開けた。
蝶たちが、七都の髪に次々と止まる。
窓の向こうには、広めのバルコニーがあった。
七都は蝶を引き連れてバルコニーに移動し、手すりにもたれかかる。
宿の一階のホールのあたりからは、まだ部分的に人々の賑やかな声が漏れてはいたが、地上は静寂に包まれていた。
月の光が、夜の景色を青味を帯びた銀色に染めている。
そのどこからも、あの冷たい謎の視線は感じられなかった。気配も全くない。
七都は、ほっと胸を撫で下ろす。
やはり、人間のいるところには近づいて来ない。
とはいえ、視線の主が魔神族なら、いずれは七都の前に姿を現すに違いなかった。
もうすぐ魔の領域。人間に対する遠慮も一切いらないし、夜でなくとも活動できる。
そこに入ってしまえば、視線の主とは対峙せざるを得なくなるのだ。
当然相手は、七都よりも魔の領域に詳しいだろう。魔力も使えるだろうし。
もし戦いを挑まれでもしたら、圧倒的に不利かもしれない。
それにしても、いったい何者なのだろう。
静かで冷たい、絡みつくような視線。
憤ったような、けれども、少しだけ悲しみが混じったような……。
ともかくその視線には、七都に対する敵意は確かにあるようだった。
何となく、とても嫌われているような気がする。
町を出てから、七都の感覚は次第に鋭くなった。
というより、この世界に来てから、徐々に鋭くなりつつあるのかもしれない。
魔力も少しずつ、思い通りに使えるようになってきた。
ティエラが隠していた剣も、簡単に見抜けた。謎の視線の存在もわかったし、先ほども、あの魔法使いのグラスを粉々にした。中身を彼の顔と髪にかかるようにぶちまけることにも、ほぼ成功。
魔力は、どうやら気負って使おうとすると、駄目みたいだった。
無意識に自然に使うと、驚くほど上手くいく。
難しいことを考えないで、リラックスして直感で使うのだ。
手や足を動かすように。目で物を見るように。そう、ナイジェルが言ったように。
七都が指を立てると、蝶が一匹、髪から離れて、その先にとまった。
「いただきます」
蝶が、七都の指の先で分解する。
銀の粉が飛び散った。
「う……。気持ち悪い」
七都は、顔をしかめた。
何十回蝶を食べても、慣れない。
体の中に流れ込んでくるエディシルは確かに美味だが、蝶が消える感覚は、やはりぞっとするものだった。
何せ、生きたままその生命を絶って、自分の糧にするのだ。
(蝶の踊り食い……)
七都は、溜め息をつく。
カトゥースは、もうほとんど残ってはいなかった。
あと数回飲むと、なくなってしまう。
となると、頼れるのはこの蝶だけになる。
ごめんね。わたしが生きるために。
ありがとう。いただきます。
二匹目の蝶は、七都の唇に触れて弾け散った。
抑えないと、吐き気がしそうだ。
だが、心地のよいあたたかい流れが体の中に入り込み、疲れを癒して行く。
「やはり、あなたは魔神族なのですね」
誰かが、七都の右斜め後方で呟いた。
七都は、思わず振り返る。
蝶たちが七都の心の動きに敏感に反応し、それをあからさまに表現するかのように、一斉に宙を舞った。




