第1話 紅目の魔法使い 2
あいつだ。
魔法で七都の髪を壁に埋め込んだ、張本人。
七都は、その若者をキッと睨む。
歳は二十歳過ぎくらい。髪は漆黒で、背中までの長さがあった。
にやにやしながら七都を見つめるその目は、透明な琥珀色。
そして、その美形の若者の額には、七都と同じV字型の銀の輪がはめられている。
(アヌヴィムの魔法使い……!)
七都は眉を寄せて、彼を眺めた。
確かに人間は、七都の額の銀の輪を見ると、怖れて接触するのは控えてくれる。
けれども、相手がアヌヴィムの魔法使いだと、話は別かもしれなかった。
おそらく若い女の子のアヌヴィムということで、完全に甘く見られている。
この先アヌヴィムの魔法使いに遭遇したら、こういうことは割と起こってしまうことなのだろうか。
こんなの、当然納得出来ない仕打ちだ。
七都の髪は、さらにずるずると壁に引き込まれた。
泣きそうになるくらい情けなくなる。
七都は唇を噛んだ。
理不尽だ。何であの人にこんなことをされなければならない?
怒りがじんわりとこみ上げてくる。
七都がその若者を睨むと、彼もその琥珀色の目で七都をじっと見返してきた。
魔法をたっぷりとたたえたような、不思議な目。
外見よりも、年齢ははるかに上だろう。ゼフィーアよりも年上かもしれない。
当然魔法に関しても、七都より彼のほうが経験豊富だし使い慣れている。
けれども、精神年齢はゼフィーアよりもはるかに下だ。
セレウスだってもちろん、こんな、女の子に意地悪をして喜ぶようなことなんて絶対にしない。最低だ。
とにかくあの魔法使いには、七都が魔神族であることを理解させて、やめてもらうしかない。
(今すぐ、髪を元に戻しなさい!)
七都は、心の中で彼に言ってみた。伝わるかどうか半信半疑だったが。
(ちょっとした挨拶だよ。そんなに怒ることもないんじゃない?)
彼の声が聞こえた。
正確には声ではなく、彼の言いたい言葉が直接頭に届いてきた。
彼は唇を一切動かしていないし、話すには距離が離れすぎている。
(あなたには挨拶でも、わたしにはいやがらせにしか思えない)
(それは、まあ、人それぞれの見解だな)
(わたしは、いやがってるの。とにかくいやなの! わかるでしょ。人が困っているのを見るのが、そんなに楽しい?)
(そんなに深刻に捉えなくても)
彼が、くすっと笑う。
(深刻だ! 早く髪を戻しなさい!)
七都は、叫んだ。
(あなたも頭の固い女だな。微笑んで無視するとか、適当にあしらって済ませばいいだけのことなのでは?)
(わたしがそう出来るような物わかりのいいオトナになるまでには、たぶん、まだあと十年以上はかかる)
(では、十五年後くらいに、もう一度あなたに会ってみたいものだね)
彼がのんびりと言って、手に持っていたグラスに口をつける。
七都の髪は、さらに壁の中に消えた。
このままでは、壁に留めつけられてしまう。
(しつこい! 人がいやがることをするな! 第一、酔っ払いと遊んでるほど、わたしは暇じゃないんだ! さっさと戻せ!!)
七都は、強い思念を彼にたたきつけた。
彼の口元から、笑いが消える。
怒ったか?
七都は、身構える。
七都の髪は、ぐいと強く引っ張られ、壁に引き込まれた。
顔がのけぞる。やめる気はなさそうだ。
これって、宣戦布告?
七都はしばし目を閉じ、深く呼吸をする。
それから、ワインレッドの目を見開いた。
若者が手に持っていたグラスが、粉々になって、はじけ飛ぶ。
グラスに入っていた酒もこぼれ散って、彼の顔と髪をぐっしょりと塗らした。
彼の琥珀色の目が、赤く燃えるような様相を帯びる。
彼は、手のひらに残ったグラスのかけらを握りつぶした。
かけらは輝く透明な粉になり、テーブルの上に散らばった。
客たちが凍りつき、宿の主人が、おろおろと二人のアヌヴィムの魔法使いを見比べる。
ここで魔法を使った喧嘩はしないでくださいよお。
主人の顔には、そういうセリフが張り付いていた。
いい加減にわかりなさい。
あなたが相手にしているのは、アヌヴィムの魔法使いの女の子じゃない。
あなたの主人の同族だ。
そして、あなたが今やっていることは、わたしたちに対して、決して許されることではない。
七都は、静かに彼を見据える。威厳を保って、顔を真っ直ぐに上げて。
魔神族は、アヌヴィムよりも立場は上。
それは、ゼフィーアが七都に何度も言って、わからせようとしたこと。
当然この魔法使いも、そのことは承知しているだろう。知りすぎるくらいに。
(魔神族か……?)
彼の言葉が、七都の頭の中で現れて、消えた。
それには、驚きと戸惑い、そして、あきらめと絶望感のようなものも、付属品として確かにくっついていた。
七都の髪が、壁からすうっと抜け出てくる。
よかった。やっとわかってくれた。大ごとにならずに済んだみたい。
七都は、取り戻した自分の髪が無傷であることを確認し、安堵する。
「ごめんなさい。ちょっとひやひやさせちゃったね」
七都は宿の主人ににっこりと笑いかけ、それから部屋の鍵をもらって、階段を上がった。
ホールは、再びそれまでの喧騒を取り戻した。何事もなかったかのように。
アヌヴィムの魔法使いの若者は、思いつめたような目を宙にさまよわせ、注文した何杯目かの新しい酒を一気に飲み干した。