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Call me  作者: 壬生一葉
第1章
6/45

【6】


…帰ってくる…?



耳元に落とされた衝撃的な一言を充分に理解しようとしている間に、若さんはあたしと距離を取ったあと頭を大きく撫で「じゃあな」と去って行った。




   ◇




若さんは昨日、其れだけをあたしに伝える為にやって来たのかな。

あたしは満員電車に揺られながら、窓の外に流れる景色に視線を投げていた。加速すると形を失くし、ただの色彩としか映らない景色。こんな景色を、修哉さんと何回見ただろう、お互いに欠伸を噛み殺して。





真関修哉(ませきしゅうや)、あたしが付き合っていた男性(ひと)の名前だ。

あたしは大学を卒業すると外資のインテグレート・ネットワークに就職し、開発チームに配属された。其処には何人ものプログラマが存在したが、優秀とされていたのは修哉さんと若村淳史、若さんの二人だった。運良く、その二人とチームを組む事が出来たあたしは完璧な仕事を遂行しようとする若さんの下に就く事になった。

神経を使い疲弊し切っていたあたしに「芳野は頑張ってるな」って言ってくれたのは修哉さんだった。ただの慰めだったとしても、あたしの沈み切ったモチベーションを上げるには充分に威力のある言葉で、あたしは救われた。

あたしに対して甘い修哉さんに、若さんが物凄く怒った事があった。

「甘やかすな! これ位出来て当然だろ!」

チームの皆が居る場所で怒号を上げたのだ。若さんもきっと神経が限界まで来てたのかなと今では思える。そんな若さんに対して修哉さんは慈しむ様に笑って見せた。

「甘やかさせてよ、俺、芳野の力になってやりたいから」

何を言うのかと戦々恐々としていたチームの皆は口をあんぐりと開けて修哉さんを見た。若さんも、そしてあたしも例外じゃなかった。


ビジネスシーンでぐっと近付いた距離が派生して、プライベートに変化するのに余り時間は掛からなかった。


二十二歳のあたしから見た四つ上の修哉さんは大人だった。対等だった事は何一つない。元来の穏やかな彼の性格もあったと思うが、常にあたしを柔らかく包み込んでくれていた。あたしが「黒」と言えば、「黒かもしれないけれど、白である可能性も捨て切れないね」とあたしを導く人。社会人になりたてで、全てにおいて未熟であったあたしにとって、修哉さんは憧れだった。

修哉さんは、恋人としてのあたしに対し強引さや無理強いはない。けれどこと仕事に関しては、強い信念を持ち大きな仕事がしたいと常々言っていた。修哉さんと若さんとあたしの三人で飲みに行くと必ず、大掛かりなソフトウェア開発の話で盛り上がった。彼等が熱く語る事の半分程しか理解出来ないで、終始曖昧に頷くあたしだったけれど、そんな時間も楽しかった。あたしには、そんな二人が頼もしく眩しく映っていた。

仕事は大変だったが、修哉さんが其処に居て、あたしは正に『甘やかされた』日々を送っていた。プログラマとして二年目、修哉さんとの付き合いが一年を越えた秋、彼は言った。


「実力を試したい。アメリカに行くチャンスを掴んだから行こうと思う」


彼の夢を応援していたあたしは、彼の言葉に手を叩き喜んだ。しかし彼はどこか浮かない顔をしていた。その顔は、今でも脳裏に焼き付いている。


「やれるだけやってくるから何時日本に戻るか判らない。俺には果歩に待っててって言う資格がない」


其れは事実上の別れ話だった。


「俺は果歩が好きだよ」


甘くて残酷な台詞。置いて行くのならそんな事言わないでよと思った。でも其れは彼なりの待ってて欲しいと言う”願い” なのかもしれないとも思えた。だから、その彼の提案には頷くしかなかった。あたしは彼を応援しているし、彼が好きだ。重荷には思って欲しくないから頷いて「いってらっしゃい」を言った。この選択がベストであったのかは、正直解らない。


一人で迎えたクリスマス。クリスマスカードを贈る事もメールを送る事も簡単なのにしなかった。どうしてかな、何かが怖かった。贈ったら何かが壊れてしまいそうで怖かった。

仕事は変わらず多忙で、オーバーワークは当たり前、狂っていく体内時計、だから修哉さんの事を考える暇もない程だった。そんな日々を送っていればあっという間に時は過ぎて、気付いたら修哉さんが目の前に立っているかもしれないと安易に思う。


けれど、あたしが心の奥で密かに恐れていた何かが軋み始めていた。



修哉さんを送り出してから一年が過ぎて、あたしは涼しくなった夜風を感じながら駅に向かって歩いていた。その頃、幾らか若さんのヘルプが出来る様になっていたあたし。立て続けの案件に終わりが見え、通常よりも随分と早い帰宅時間だった。擦れ違う人々からアルコールの匂いや煙草の匂いを感じ取る。食事もまともに摂っていないあたしにその匂いは強烈で、顔を顰めると駅へと続く道を急いだ。

暫く歩き、半袖一枚では肌寒いと片手でもう片方の腕を抱いた。

ただ冷たい、手だった。

何て冷たい手なんだろうと思ったら、瞼の裏に熱いものが込み上げてきた。


メイクの乗りもイマイチで腕を擦る指先が少しかさついている。二十五歳の女がこんなにボロボロになるまで仕事をしたって、誰も「頑張った」とは言ってくれない。若さんは「お疲れ」とは言うが「頑張ったな」とは言わない。仕事をこなすのは社会人にしてみれば当然、当たり前の事だからだ。其れは解る。解るけれども、誰かが自分を認めてくれる事で得られる物があるのだ。あたしに力をくれる「頑張った」を言ってくれる人は此処には居ない。


仕事に没頭している時には感じなかった孤独感が急に襲いかかってきた。

あたしの中の何か。

均衡が崩れていった。




崩れたらあっという間だった。仕事にミスが増えて若さんに叱られても、悔しいとも思う気力が沸かなかった。身体はだるく、言われた事をこなすだけが精一杯になったあたしに若さんが暫く休暇を取れと進言してくれた。でも、やれる自信はもう何処にもなかった。休暇を明けても、以前みたいな働きをする自分をイメージ出来なかったのだ。


この業界をボロボロになって辞めて行く人間は大勢居る、俺はそんな奴等を何人も見て来たと若さんは言った。でもお前は『ソレ』だけが原因じゃないだろと核心を突いた。ぐうの音も出ないあたしに若さんはこうも言った。

「辞めても良い。ただ絶対現場に戻って来い」と。




あたしはこの一年、修哉さんの重荷になるのが絶対嫌で、自分からアクションは起こさずただ受動態でいた。彼が何時か必ず帰ってくるであろうこの会社で、一人前のプログラマになり待っているだけで良かった筈なのに、いつの間にか積もり積もった寂しさに押し潰されてしまった。寂しいと言う気持ちに無自覚だったせいか、絶望的な虚無感を味わった。


退職後暫くは抜け殻の様だった。


思い返す修哉さんのマシンに向かう真摯な眼差し、激論を交わす修哉さんと若さん。引いた様に見せ掛けて自論を認めさせる柔和な表情と話術。ミーティングの後若さんは、してやったりな顔をしていた事があったけど、最終的には修哉さんの掌で転がされてる事が多かった。

多忙すぎてデートらしいデートは多くは無かった修哉さんとあたし。温泉旅行に行く予定だったのに彼が抱えていた案件にトラブルが発生して急遽キャンセルに。仕事とは言え、楽しみにしていたあたしはふてくされて、修哉さんに「ごめんね。でも又楽しい事を二人で考えられるね?」と往なされた。


楽しい事をこれからもっと考えられる、そう思っていた。


思い返さずにはいられない数々の彼との思い出に何度も枕を濡らした。自分が思っていたよりも、修哉さんに依存していた事を思い知らされる。その彼は、もう居ない。

嫌われたとか振られたとか、決定打は何一つ無かったのに、「置いていかれた」事が自分の存在価値を揺るがす事になった。あたしは修哉さんを必要としていたのに、彼にとってあたしはそう大した存在では無かったのかもしれない、等と卑屈な想いしか浮かばない。



鬱屈した日々を過ごし、季節が又一つ移ろうとする頃あたしは息を吹き返す。きっかけは何て事無い。台所から漂ってくる甘辛い匂いに小鼻がピクリと動く。あたしお腹が減ってるなと感じれた事だった。


母の作ったカレイの煮付けを味わいながら、修哉さんは何を食べているんだろうと思う。過ぎた季節二つ分、痛みが風化したのか荒んだ生活から解放されたからなのか、彼を想う気持ちに変化が訪れた。

彼も息をして、食事をして、僅かに眠って、仕事に勤しんでいる。

あたしが好き”だった” 彼は、海の向こうで頑張ってるに違いない。


何時までもこうしては居られない。





それから二年の月日が流れた今、若さんから齎された情報は修哉さんの帰国。既に過去の想いな筈なのに、心臓がぎゅっと掴まれた様に痛む。




彼が戻るあの会社にあたしが不在な事を、彼は知っているだろうか。彼は、今も……?




不埒な考えに頭を振った。電車は降車する駅に滑り込み、あたしは人の波から素早く泳ぎ出る。階段を一段ずつ踏み締め上る。その度に、彼とは過去の事と自分に言い聞かせた。



あたしは彼を待てなかったのだ。

其れが、動かす事の出来ない事実。






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