【5】
「聞いてよー果歩ー、中村さんがねー和田主任の事食事に誘ったんだってー」
食堂で一緒になったシバが席に着くと泣きそうな顔であたしにそう訴えてきた。「中村さんて?」と聞き返すと「常務の秘書の中村さんだよー、巨乳のー」と言う。”常務の秘書”では思い浮かばなかったナカムラさんの顔が”巨乳”と言うキーワードで直ぐに浮かんだ。
「あぁ彼女…」
何だか胸をざわつかせるこの想いに蓋をした方が良いと判断したあたしは、シバの話を素気無く聞き流して日替わり定食の唐揚げを箸で摘まみ上げる。
「中村さんの後とか、誘いにくいよー」
もう彼の話は聞きたくなかった。必要以上に”同僚”である彼の事を意識するのは止めた方が良いと、何処かで警鐘が鳴っている。
「あー一度位ご飯行きたいなぁ」
話す事に夢中なシバは案の定、トレイに乗った親子丼には手をつけていなかった。
「シバ、早くご飯食べないと時間なくなるよ?」
「あっ、そうだ、午後一同行なんだ」
慌てて箸を持ち上げるシバに影が重なり「空いてますか?」と言う声が降ってきた。二人同時に顔を上げると、其処に居たのは渦中の和田主任と、声を発したらしい若い男性社員だった。息を飲んだあたしに対して、隣に座っていたシバは姿勢を正し「勿論、どうぞどうぞ!」と前の席を指し示し彼等の着席を歓迎した。
「有難う」
と王子様の微笑を零し、連れの男性に目配せすると彼はあたしの前の席に座った。
「珍しいですね、営業の方が社食なんてっ」
「午後一で営業会議が入ってるんで、殆どの営業が社内に居るんですよ」
答えたのはシバの前に座った男性だった。嬉しそうな顔をしてシバの顔を見つめ返しているので、彼もシバのファンなんだろうなと口元を緩めた。
直ぐ傍にある主任の存在を視界から追いやる様に顔を俯け食事を再開させようとすると彼の連れの男性が
「滅多にお会いしない二人に会えて光栄です」
と些か興奮気味に喋り出し、シバがちらりとあたしを見て少し肩を竦める。彼女にしてみれば言われ慣れている台詞な筈だ。
「伊藤君、彼女達は有名なの?」
「秘書課の柴田さんと、システムの芳野さん、綺麗どころの二人組で有名なんスよ、主任!」
イトウと呼ばれたその彼から、あたし達二人に視線を戻し目を細めた主任は「社食に来て幸運だったね」と笑った。その笑顔を見たシバがほう、と言う嘆声を漏らしたのが聞こえて思わず苦笑いをした。
「幸運ついでと言っちゃナンですが、今度一緒に飲みに行きませんか?」
「そうですねー和田主任もご一緒ですよね?」
イトウさんからの誘いに乗じてシバが抜け目なく、目当てである主任を誘う。明らかにイトウさんが落胆の色を見せていて、あたしは緩む口元を手で隠した。和田主任が参加の飲み会なんて、女性達の興味が其処にしか行かないのだから、飢えた男性諸君には目も当てられない。
「果歩も行くよね?」
シバは当然の様にあたしにそう問い掛けてきたが、そんな争奪戦を想像するだけでもテーブルの上の唐揚定食が不味くなる。
「今、ちょっと抱えてる仕事有るから難しいかな」
「果歩が何も抱えてない時ないじゃん」
目敏く突っ込みを入れてくるシバ。恐らく安全牌のあたしを飲み会に参加させて、ライバルを減らそうと言う策略を頭の中で練っているのだ。
「ほらシバ、早く食べないと」
「うぅ果歩の薄情者…」
その声は小さく、二人の男性に聞こえたかどうかは不明だが、その後和田主任がさらりと不参加の意向を伝えた。
「僕も未だ此方の顧客に関しての情報不足を否めないので、勉強しないといけないから今回は遠慮させて貰うね」
シバの箸は一向に進まないのだった。
定時を三十分程過ぎ仕事も一段落かと眼鏡を外した頃、携帯に以前勤めていた会社の同僚からメールが入った。近くに居るから呑まないか と。快諾の返事を送り、あたしは牧野に声を掛けるとIDカードをデスクの引出しから引っ張った。
「ごめん先やってた」
案内された席に到着すると、先に来ていた若さんは既にビールで喉を潤していた所だった。彼にしては珍しいスーツ姿で少し驚く。
「どうぞどうぞ。あ、ウーロンハイ下さい」
熱いおしぼりで両手を拭き、配されたグラスに口を付ける。若さんが適当に食べ物をオーダーしている間、あたしは店内の壁に貼り付けられたお薦めメニューを見回していた。
「相変わらず食べるね。もう三十過ぎたんだよね?」
「そこ年齢聞くとこかよ」
あたしよりも四つ上の彼は、同じ部署の良き先輩で兄の様な存在だった。痩せの大食いなのか、食べる割にひょろりとした体躯の持ち主だ。
「スーツなんか着てどうしたの?」
「客んとこのソフトにトラブルが有って説明と謝罪」
げんなりとした顔で若さんはビールジョッキを持ち上げ、盛大に溜め息を吐いた。
「ご愁傷様」
二年前だったらあたしもその立場だったが、最早其れは他人事だ。
二年前迄、あたしはソフトウェア開発会社でプログラマをしていた。大手とも言わないまでもそこそこに実力のある会社で、仕事に忙殺された日々を過ごしていた。思い返すだけでも胃がキリリと痛む。
「又、今年入った新人が使えない!」
「…未だ二ヶ月にもならないじゃない。て言うか、今思えばあたしも相当使えない新人だったと思いますけど…」
「あーまぁな」
「嘘でもちょっと否定して下さい」
白い目で若さんを見てみるが「否定は難しいな」とのたまう。ひょろりとして争いごとは好みません、僕は草食です、みたいな顔をしているがこの人ってこういう人だった。
「よっしーはさ、やる気が有ったんだよね。出来なくても努力しようとする気持ち? 今年の松浦って言うんだけど、松浦は全然ないの。行き詰まると”出来ません”って言って、こっちの指示待ち。何であんなん採ったんだよって、部長に言いたい」
もう我慢ならないって思いは凄く伝わってくる。自分達が請け負う仕事だけでも手一杯なセクションだ。その上、新人教育が加わってくるというのは負担過多だろう。もしあたしがあの会社に今でも勤めていたら、プログラマ歴五年のあたしは教育係の任に当たったかもしれない。
「すみません」
思わず口を吐いて出た謝罪の言葉に若さんは一瞬だけ険しい顔をしてビールジョッキを口に運んだ。
「謝る位なら辞めんじゃねえよ」
はっきりと彼はそう言う。若さんはオブラートに包んだ物言いはしない人だ。だから彼の下で仕事を始めた当初、滅茶苦茶怒られて悲しくて情けなくて悔しくてロッカールームで声を上げて泣いた。だけど其れはあたしがプログラマとして一人前になる為には必要な過程だった。若さんの下で働いたからこそ、たった三年でも充分に色濃い三年だったと自負している位だ。無論其れは自己満足でしかないのかもしれないけど、外からあの会社を客観視できるようになって、若さんではない誰かの下の三年とは絶対に違うと今のあたしには言い切れる自信がある。
「…ま、良いけどさ。又こうして俺の酒に付き合ってくれる訳だし」
飴と鞭の使い分けが巧い人でもあるんだよね、若さんは。優しく笑ってくれるから、未だあたしは彼に甘えても大丈夫なんだろうなって思ってしまう。
「そっちは? システムの管理中心?」
若さんは続々とテーブルに並べられる料理を口に運びながら、あたしに訊ねる。
「実は販売管理に関するソフトを考案中」
「考案?」
乾いた喉にウーロンハイを流し込み、あたしは一つ頷いた。若さんが頼んだげそ揚げが美味しそうで箸を伸ばしながら答える。
「製作は外注ですけど、要求定義を纏めたりしてます」
「よっしー以外にプログラマ居るの?」
「情報処理出の子が一人、去年入ったけど。難しい事に取り組むのは会社としても初めてみたいで、手探り状態」
あたしは右手を円を描くように動かして見せた。
「腕の見せ所か」
若さんがニヤリと笑う。
「残念ながら、若さんところに居た頃より錆びました」
「光ってもなかったけどね」
「…ですね」
それから、昔居た会社の人達の話で盛り上がって若さんは程良く酔っぱらっていた。お店を出たのが終電近くになり、あたしは若さんの細い腕をがっしり掴み駅へと向かう。
「若さんっしっかり歩いて! 電車乗れないとあたし困るんですって」
「タクシー代位出すって、其れくらいの甲斐性は有るよー俺ー」
「うん知ってますっじゃ若さんはタクシー使って! あたし電車乗るから!」
彼をタクシー乗り場の列に並ばせようと彼の腕を今度は横へと引っ張ったら、彼が自身の足に蹴躓いたらしく細い身体が揺れ逆にあたしが其方によろめいた。
突発的な事故とはいえ、若さんに抱き締められる様な体勢になる。しかも彼はあたしの背が撓る程、体を前傾にした。
「わかっ…」
「帰ってくるよ、」
若さんの胸を叩こうと握り締めた拳が硬直した。
「真関、帰ってくるよ」