【7】
「おかえり」
「ただいまですー、ユキさんもお疲れ様です」
土曜日の夕方、あたしはユキさんの家に訪れた。彼はあたしが手にしていたビニール袋を受け取ると室内に上がったばかりのあたしを抱き締める。
「外、寒かったやろ」
彼も休日出勤から帰ってきたばかりだったのだろう。触れ合った頬は未だ温かいとは言い難かった。
「俺ちょっと片付けたい仕事があんねや?」
「うんうん勿論だよ。お鍋だし、野菜切るだけだから続けて?」
あたしがそう言うと彼は唇を掠めるキスをして「頼むわ」と優しく微笑む。未だ、うがいしていないのに、なんてあたしは現実的な考えて羞恥心をどっかへやろうと試みた。
ユキさんと付き合って、経過した月日で言えば七ヶ月近くになる。色んなユキさんを見て、色んなユキさんを知って、色んな感情を知った。恋人と喧嘩をするのも始めてで、歩み寄りは難しいかもしれないと思ったのに、結局ユキさんがあたしを赦した形で収まった。
変な話だけど、喧嘩した事であたしは『想い合ってる』んだなって思えた。こんな風に思えるって、やっぱり凄く特別な事の様な気がする。
野菜ばかりのお鍋だったけれど充分満腹、でも締めはやっぱり雑炊であたし達は汗を掻きながら其れを平らげた。片付けを二人で済ませてテレビを点けると、年末の特別番組の合間にクリスマス商戦の玩具やゲームのCMが沢山流れている。
「あ、コレ大貫さんが買った玩具」
「今日、彼女の家に遊びに行っとったん?」
「大貫さんちの近くに大きな公園が有ってね、其処で流星君と大貫さんと三人で遊んできた。旦那さんがサッカーやってたんだって、その血筋なのか凄くキックとか上手だったよ?」
日中はユキさんが仕事だと聞いていたから、大貫さんに誘われてあたしは久し振りに戸外で身体を動かした。風が少し強くて怯んだあたしに大貫さんは「芳野さん、もやしになっちゃうよ!」って、流星君との鬼ごっこを容赦なく強要。インドアなだけに、幾ら二歳児相手と言っても体力的にきつかった。
「流星君がね、”果歩又遊ぼうね” って。可愛いの。大貫さんもそうだけど、この歳にして新しい友達が出来るって言うのは新鮮だね」
キッチンでコポコポと音を立てていたコーヒーメーカーが静かになった。カフェイン中毒だった山本さんの置き土産の其れを、ユキさんも重宝しているらしい。
ソファから立ち上がろうとするあたしを手で制したユキさんが、キッチンへと向かう。
「…そうかぁ…良かったなぁ自分、友達て少ないやろぉ?」
「否定できない」
あたしは笑いながら彼に続いてキッチンに入って、彼の隣へと並びカップがコーヒーで満たされるのを眺めた。一人分のコーヒーが出来上がり、その横のカップに彼はデカンタを傾けたのだけれどなかなか注ごうとはしなかった。不思議に思って彼を見上げると、一拍の間が有って彼と視線を交える。
「?」
「……俺もそのガキに会うてみたいな」
彼は目元を緩め視線を伏せた。カップに注がれた漆黒のコーヒーがゆらゆらと波立つ。
ユキさん、何か言おうとした?
そんな風に感じるのは今日で何度目だろう。この変な間は、彼が大阪出張から戻って来てからの様に思う。何でも言葉にして話し合っていこうって言ったのはユキさんなのに、彼がこうして口を噤んでしまうのは何故なんだろう。
◇
「わー完璧、電気屋の紙袋やん」
「ご、ごめんなさい、其処まで頭が回らなかった」
クリスマスイブイブ、つまり日本は旗日であたしとユキさんはゆっくりとした休日を過ごしていた。午前中に駅で待ち合わせをして話題の映画を観る。遅めのランチに、美味しいと評判の蕎麦屋に行き口当たりの良い日本酒を頂いた。彼が、こういうチョイスをしてくれるから過度に飾る必要がなくて、とても居心地が良い。
夕方早い時間にユキさんのマンションに帰宅して、クリスマスらしく西洋料理に取り掛かる。山本さん程の料理は出せないけれど、それっぽい演出は出来たんじゃないかと自己満足だ。シャンパンで乾杯をして、あたしはこの後の話題にしようと先にプレゼント差し出した。そして渡された紙袋を見たユキさんが発したのが、先程の台詞だ。
あたしがユキさんに用意したのは最新のタブレットと、彼が使ってるスマートフォンのカバーだった。彼らしい色合いの物を選んだし、タブレットだって今彼が使ってる物よりも大分性能が良い物の筈だ。彼は紙袋から四角いそれらを取り出し、バリバリと包装紙を剥がしていく。其れはクリスマスっぽいのを選んで包装して貰ったのにな…と少し拗ねて小さな溜め息はシャンパンの泡と一緒に飲み込んだ。ユキさんは開封されたプレゼントを目の前に十二分に黙した後、
「……タブレットやん! 今の最近、調子悪かってんよ。あ、でこっちは…カバーっラバータイプやんか。黄緑とか…派手ちゃう?」
と言った。
「目立つは目立つけど、似合ってると、思う」
そう言ってあたしは、自分の携帯のカバーが変わった事を知って貰おうと手元の携帯に触れた。彼の視線が素早く其方に動き、ニッと口の端を上げ笑う。たまたま同じ機種の携帯を使っていたから、あたしは彼とは色違いのカバーを自分用に購入した。
「ほんま有難う。早速使わして貰うわ」
その笑顔に作られた所は微塵もなくて、あたしはホッとした。
タブレットの話をしてあたしが作ったご飯を一緒に食べて、気分が良くなったあたし達はワインも一本空けた。会話が途切れると、何故だかその度に目が合って、クリスマスの成せる技なのかと思った。
…実はあたし、ちょっと…さっきから緊張している。
勿論、あれをお願いした時の方が今日以上に緊張していたのだけれど。
半月程前、あたしはユキさんにクリスマスのプレゼントを強請った。強請るなんて、図々しいのかもしれないけど、きっと其れはあたしが望まなければ手に入れる事は出来ない物の様な気がした。
あたしは、未だ付き合い始めの頃に突然貰った首元を飾るペンダントトップに触れる。嬉しかったけれど恐縮したのも事実だ。何の記念日でも無いのに、何かを貰うなんて経験した事が無かったから。
だから、あたしを飾ってくれる高価な物は此れ以上必要ないのだと彼に言った。装飾品は此れで充分。充分だから……
『この家の、合い鍵を、下さい』
あたしが今、欲しいのは其れだった。何時でも貴方に会いに行ける合い鍵が欲しい。
「これ」
食後のコーヒーを飲んでいるとユキさんが、ローテーブルの天板に手を翳す。カチリと音がして、其れがあたしの方へと向かってくる。
合い鍵が欲しいと言った時、ユキさんは吃驚していたけれど凄く嬉しそうに笑ってくれた。だから入手は可能だと頭では解っていたのだけれど、其れが今、現実となってあたしの目の前に現れる。ユキさんの手が、ゆっくりと天板から離れて行き其れがお目見えした。
目頭が熱くなる程、あたしは歓喜していた。嬉しい嬉しい嬉しい。
消えてなくなっては困るから、あたしはこの家の予備の鍵をそっと手に取った。一度この手に握った事のある形状の鍵。あの時は彼に返したけれど、今此処に在る鍵は当分返さなくて良い物なのだ。そう思うと本当に胸がいっぱいになる。
あたしは又、ユキさんから『特別』を貰った。
◇
あたしはもはやルーティンワーク化している、営業二課剣持主任の元へ向かって階段をツーフロア分下りた。其れは十六時を回った頃で、一課の営業さんが営業先から戻るには少し早い時間と言えた。けれど、珍しくユキさんがコピー機の前で吐き出される印刷物を待っているのが見える。嬉しさが込み上げるのを隠す様にあたしは、視線を伏せてから剣持主任のデスクへと急いだ。
「芳野君、いつもごめんね」
「いえ。今日はどうしました?」
剣持主任は未だ慣れない販管ソフトには四苦八苦している様で、投げ掛けられる彼の質問に一つ一つ丁寧に答えていく。答えをパッと教えてしまう事は簡単だけれど、其れではキー操作を覚える事は出来ない。だから申し訳ないけれど、あたしは何時も剣持主任にはメモを取る様にして貰っている。けれど走り書きしたメモが読めず「このメモ何だったろう」と聞かれた時は苦い笑いが零れた。
「神崎君、吉祥寺の見積書出来ました?」
剣持主任が一生懸命メモを取ってる間、手持無沙汰なあたしは一課から聞こえてくる彼の声を拾ってしまう。
「出来ました。確認貰っても良いですか」
「了解。あと、巾なりサンプル手配済み?」
「直送しました」
「未だ変更出来るならうちに入れて貰って、神崎君が直接持参して下さい。其れだけサンプル頼むって事は決め兼ねてる筈だから、自社品も混ぜて提案すると良いと思います」
「あ、はい。そうですね…ちょっとメーカーに連絡します」
そんなやり取りが聞こえて来た。彼は基本、オフィスで誰に対しても丁寧語で接している。部下に対する指示も、常に命令と言う訳ではない様だ。こういう人と一緒に仕事が出来るって言うのは凄く影響も受けるし、働き易いんじゃないだろうか。
あたしも、彼みたいにきちんと立ってたいな。
牧野に指示を出して、自分一人で抱え込むんじゃなくて、良い意味で周りを巻き込んで良い仕事がしたい。
こんな風に思えるようになったのは、ユキさんのお陰だ。




