【6】
「おはよ果歩っ」
肩を軽く叩かれて振り向くとシバが少し呼吸を荒くしながら、其処に居た。彼女は通常あたしよりも先に出勤している事が多い。何せ役員秘書なのだから。そんな彼女が息を切らして居る事にも些か驚いた。
「どうしたの、走ってきたの?」
「一本、電車乗り遅れて…ホントに焦った」
シバは胸元に手を当て呼吸を整えながらそう答えて、もう一度「焦った」と呟いた。確か、彼女の家から会社までドアトゥドアで二十分で着く程の近距離だった筈だ。あたしが疑問を持ったのを察してか、シバが先回りして答える。
「基樹君所から来たからさ」
別の所から来たからか…と思わず納得し掛けて、あたしは又小首を傾げた。シバは神崎さんの所に毎日の様に通っていると言っていた。だからてっきり神崎さんの家は、シバの家よりも会社の近くに在ると思っていたのだ。
「神崎さんちって何処なの?」
「上石神井」
「えっ!」
シバよりも遥か遠い所に住んでいる事にあたしは驚き、思わず大きな声が出てしまった。
「と、遠いじゃない」
「うん。でも、うちは会社から補助出て借りてるマンションだし、管理人常駐だから男が出入りしてるとか噂されると居づらいし、あたしが基樹君所行った方がお互い気が楽なんだよね」
「あー…そっかぁ…」
シバは恋だ愛だとふわふわしてるイメージだった。その彼女は今の恋に一生懸命だ。ユキさんと恋をする前のあたしなら、そんな非合理的な行動を「疲れない?」と一蹴していただろう。でも今のあたしなら、ちょっと草臥れた身体を叱咤して、彼に会いに行こうか等と画策してしまう。
あたしは、猛烈なスピードで今日中に行うべき作業を定時までに終わらせた。権藤部長よりも先にイントラをログアウトし「お先に失礼します」を言うのと同時にフロアを飛び出る。きっとあたしにとって最速の退社日になっただろう。東京駅へ向かう電車の中で彼にメールを送ると、あたしは少し緊張した。ユキさんはどう思うだろう。早く会いたくて、こんな唐突に彼を迎えに行くあたしを訝しく思うだろうか。
疲れてはいるだろうが、迷惑とは思わないでいてくれるだろう。取り敢えず顔を見て「おかえりなさい」って言おう。それで余りにも疲弊している様であれば彼の降りる駅で「又明日」と言えば良い。元気なら…一緒に食事が出来たら良い。彼の家で簡単な物をさっと作って食べるのでも、お気に入りのお惣菜屋さんで好きなデリを買って食べるのでも良い。時間が許す限り、彼と一緒に居たい。
彼が乗り換えてくる在来線のホームの端に立つ。こっちが最後尾で間違ってないかと二度も確認してしまった。新幹線は何事もなければ、もう直ぐ東京駅に到着する。あと二十分もすれば彼は此処に現れるだろう。もうメールは読んだと思うけれど彼からの返信はなく、あたしは落ち着いていられなかった。何かアプリでもと携帯に指を宛がうけれど、視線と指が彷徨うだけでコレと言ったものを選択出来ないまま、彼がやって来るであろう方向に顔を向ける。
それから数分後…沢山の人の中からユキさんを見つけたあたしの胸が、大きく大きく跳ねた。
「果歩っ」
お互いに駆け寄ったものだから、まるでぶつかり合う様に彼に抱き留められる。海外映画みたいな抱擁を恥ずかしく思うあたしは彼の名を呼んだのだけれど、彼は何時まで経ってもあたしを放そうとはしなかった。緊張していた身体を弛緩させ彼の胸元に頬を寄せると、彼の大きく上下した胸とドックドックと大きな音を立てる心臓に気付いて、思わず眦を下げた。
ホームに入って来た電車に乗ると、彼はあたしを扉付近へと追い遣って彼自身はあたしを守る様に真正面に立った。何気ない優しさに胸が温かくなる。見上げると彼が目を少し大きくするから、あたしは笑みを浮かべながら何でも無いと首を横に振る。
「…何やあった?」
彼にそう言われあたしはちょっと狼狽えた。やっぱり慣れない事をすると、見透かされてしまうのだな。あたしは自嘲的な笑みを零してから、意を決し彼を見上げた。
「…昨日午前中、営業部のフロアに居たんです」
あたしは昨日の事を思い出しながら、胸の痛みに折り合いを付けて言葉を紡ぐ。
「ユキさんが……電話を掛けてきて」
其処まで言うと彼もはっきりと昨日の出来事を思い出した様で、瞳を少し大きくした。そうアレは、彼にとっては、きっと何て事のない日常の一コマだった。
「ユキさんをヘルプしてるのが…良いなって…あ、えっとほら…あたしは部署違うからそんな風にユキさんをヘルプとか…出来ないから…ごめんなさい…変な事言ってる」
話している内に、彼に上手く説明出来ているのか解らなくなってあたしは謝った。ユキさんを責めているつもりもないし、朝見さんを頼るのを止めてと言っているつもりもない。ユキさんに関する事になると、何処か言葉不足になってしまう。
「変やないよ。そうなんや、昨日自分はそないな事思うたんや…そうかぁ…うん話してくれて有難う」
ユキさんは眦を下げあたしの想いの一つを又、受け取ってくれた。
「確かにな部署はちゃうから直接的なバックアップは無理やと思うわ。せやけど、俺は自分がウェブサイトとかごっつ頑張っとんの知っとるし、頑張る力は貰えとるよ? それと…ちゃんと言うてへんかったんやけど…朝見が『和田専属』とか言う話、聞いた事ある?」
”和田専属” あたしが直接聞いた訳ではない。情報通なシバの耳に入り、彼女が親切心からあたしに教えてくれたのだ。ユキさんからそんな話を聞いた事もなかったし、其れを認めたくもなかったから今日まで彼に確かめる様な事はしなかった。
苦々しい表情になってしまったのだろう、あたしを見ていたユキさんが辛そうに眉を下げて其の事について初めて言及した。
営業部で、特に営業マンと事務員を固定する組み合わせ等無い。朝見さんの仕事が速いから、手が空くと仕事を多く抱えるユキさんの仕事を手伝う事がどうしても多くなってしまうと言う話だった。概ねそうではないかと希望的観測を含め想像していた事だから、あまり驚きはしなかった。
「ごめん…めっちゃ言い訳になっとる」
あたしは”そんな事無い” と言う気持ちを込め首を横に振った後きちんと「大丈夫」と言った。
「そうだったんですね…仕事が出来る方ならユキさんも営業部も、はたまたうちの会社も助かるね」
彼が心を痛めない様に、あたしはもう気にしないと言うつもりでそう言った。
その夜、あたしは彼の家でお惣菜を食べビールを一缶ずつ空けて、くだらない話をして触れ合ってキスをして一緒の布団に潜った。
◇
「果歩、明日菫ちゃんとクリスマスプレゼント買いに行こうと思ってるんだけど、一緒に行かない?」
昨日、恒例の社食でそうシバに誘われたあたしは、聞き馴染みのない女性名に首を傾げた。シバが「管財の菫ちゃん。大貫菫」と教えてくれて、あたしは快諾した。
ショッピングモールで先ずやって来たのは、子供が目を輝かす程の玩具やゲームを取り揃えたお店だった。大貫さんは十二月二十四日の大役を全うする為、息子の”リュウセイ” 君をお母様に預けての参戦だ。あたしは現代の玩具の精巧さに驚きながら、大貫さんの後ろを付いて回る。
「果歩は? もうプレゼントとか決めてるの?」
シバは、あたしの隣で何とかジャーと言う戦隊物のフィギィアを両手で弄びながら訊ねた。
正直困っている。サプライズも何も有ったものではなく彼に直接欲しい物は無いかと訊いてしまった程だ。「要らんよ」と答えは返ってきたのだけれど。
「主任じゃ、これまで色んな物貰ってそうだもんねぇ。まぁでも主任って果歩の事すっごい好きじゃん? 何あげても喜びそうだけど。それこそ、たこ焼き器とか?」
「…其れはもうユキさんとこに有るから」
「マジー?」
シバは笑った。
確かに彼は過去の女性達に色んな物を貰っただろう、そして何を贈っても喜んでくれるとも思う。それとなく、彼が何に興味を示しているのか探っているのだが見極め切れていないのが悲しいかな現状だ。もうクリスマス迄ひと月も無いと言うのに。
…あたしは、欲しい物決まってるんだけどね。
始業開始時間二分前、珍しい外線から直通の電話が鳴る。そして其れは思いがけない人からのコールだった。
『芳野さん?』
女性からの電話だった。名乗りもせず、あたしの名を呼ぶその人にあたしは少し身構える。
『あたし大間里利子』
「…えっ!」
『ウェブサイトに、あたしの作品載ったの?』
定型句の挨拶等抜きにした里利子さんの声には非難の色が見える訳でもなく、かと言って嬉々としている訳でもなさそうだ。
そして全力を尽くした今回の企画は、一週間程前にアップロードを済ませていた。
『一本、どっかのレストランから電話が有ったよ。期待してなかったんだけどね』
あたしは言葉を失くして片手で口元を覆う。
『ちょっと聞いてる?』
険呑な声にあたしは慌てて「聞いてます!」と返事をして、「嬉しいです」と付け加えた。彼女は其れを聞いて電話の向こうで少し笑う。
『有難う』
言うなり彼女は通話終了にしてしまったらしく、「こちらこそ」と返した言葉の途中で機械音が聞こえてきた。彼女らしさに笑みが零れた。
良かった。頑張って良かった。里利子さんの所に掛かって来た一本の電話が、巡り巡ってユキさんの所まで繋がると良い。
あたし…頑張りたかったの。この仕事はどうしても頑張りたかったの。あたしに出来る唯一の、事だったから。




