【14】
「和田さんっ本当に貴方には申し訳ないけど、俺はよっしーの事女と一度も思った事ないんでっ! よっしー! だからお前が俺の事を男として見てたんだとしたら、申し訳ない!」
一頻り笑った若さんはお腹を抱え、うっすら目に浮かんだ涙を指の腹で拭う。あまりの笑いに周りの人達が何事かと此方を見ているではないか。それでもあたしは、その冷笑よりも朝見さんの非難の言葉が胸を蝕んでいた。
あたしの硬い表情に気付かないまま若さんは、未だ喉の奥で笑いながら話を続ける。
「俺仕事出来ない奴に容赦ねーもん」
「え?」
若さんの台詞に、流石のユキさんも驚いている。
若さんは草食系に見える位は、雰囲気がのほほんとしている。けれど口を開けば言葉は悪いし、仕事に関しては本当に妥協が無い。
「本当ですよ。俺、コイツが仕事してる最中座ってる椅子蹴り飛ばした事もあるし、袖机の引き出しへこませた事もあるし、馬事雑言浴びせてオフィスから追い出した事もありますから」
ユキさんは呆けた顔をしてあたし達を見ていた。その横からは朝見さんの冷たい視線。
「あーっと足止めしちゃいましたけど、便所でした?」
「…あ、いえ煙草を買いに」
「俺も丁度良いや、煙草切らしたから付き合います。ん? 貴女も煙草?」
「…いえ…うちは…」
若さんは吸いもしない煙草を買いにユキさんと一旦お店の外に出て行って、その場に残った朝見さんは暫く留まってあたしに何かを言いたそうにしている。
「…芳野さん」
「はい」
「うち…お二人が付き合うてるの聞いてます。せやけど…うちが主任の事好きになるんは勝手ですよね? 貴女に止める権利なんてありまへんよね?」
はっきり物を言う子なんだな…。今迄の、あたしに聞こえるか聞こえないかの声量であたしを詰る様な事を言う輩とは全然違う。他人事であれば、何て清々しい子だろうと認められる。
「…ない、ですね」
「芳野さんて彼女て立場に甘え過ぎちゃいます? 営業部の集まりに平気で顔出したり、主任の嗜好に口出したり…幾ら男の人かて思うてなくても二人っきりで異性と飲みに行くなんて普通せえへんちゃいます? っちゅうか、うちやったら絶対せえへんよ。好きな人、困らせたりせえへんっ」
彼女はあたしに反論の時間もくれずに、お手洗いがある方へと歩いて行ってしまった。
彼女の背中を見送った後、あたしは座る位置を戻してすっかり薄くなってしまったウーロンハイを一口飲んだ。
平気で顔を出したつもりはない。
煙草を止めてと言ったつもりもない。
若さんとは、何でもない。
あたし…ユキさんを困らせてるのかな。やっぱり甘え過ぎなのかな。
「…果歩? めっちゃ飲んでんなぁ? 帰れるん?」
「大丈夫、です」
ユキさんと若さんが戻ってくる迄の ―― 凄く長い ―― 時間に、あたしは自分の残りのグラスを空にして、氷がすっかり融け始めていた若さんの芋焼酎のロックを煽った。飲み慣れないお酒は一気に身体の熱を高め、あっと言う間に思考能力を低下させる。
ふわふわとした頭でも、店員さんに追加のオーダーを済ませていたあたしは若さんの為のロックに口を付けた。
「よっしー、何血迷った訳?」
「…んー…と、美味しそう? だったから?」
「何で疑問形……和田さん、未だ飲み会でしょ?」
二人の会話をきちんと聞ける位には、頭は働いている。多分、眠いだけだ…瞼が重いのもそれだ。
「俺コレ連れて帰るんで。よっしー帰るぞ」
「…まだ、飲め、るって…若さ…」
「うるせーよ」
あたしは若さんに一喝され、腕を物凄い力で引っ張られて立ち上がる。足がふらついてぐにゃりとなって、あたしは目の前の若さんに助けを求めた。
「重っ…ざけんなよ…てめっ…」
あたしよりも幾ら身長が大きくたって、若さんは細身で何せデスクワークの人なので力があるとは言い難い。
「…若村さん、もうちょっと待っとって貰えません? 俺がやっぱり送るんで」
ユキさんのその台詞にあたしは「大丈夫っ」と叫んだ。若さんのポロシャツが伸びてしまう程強く掴んで何とか足を踏ん張るあたし。出来る限り目を開いてユキさんの顔を見た。そのユキさんは、少し驚いているみたいに見える。
ごめんね。ごめんね、ユキさん。
「…すみません…酔っ払っちゃって…あたし、帰り、ます、ね?」
駄目だなぁあたし。こんな駄目駄目人間だったかなぁ。自分の心配をしてくれる人にこんな態度は良くない。好きな人相手にこんな態度良くない。
駄目だね…ユキさん前にしたら、何だか解んなくなっちゃう。どうしたら良いか解んなくなっちゃう。付き合う前は、もう少し自分に素直で、冷静で居られたのに。
「俺が大丈夫やないんや。一歩も動くんやないぞ?」
少し表情を険しくしたユキさんは、一課が飲んでいたテーブルへと足早に消えて行く。
「…」
「良い男じゃん」
若さんはそう言うとあたしの腕を解いて元の椅子へと座らせた。そして財布を取り出すと一万円札をあたしの手に握らせ「じゃあな」と言う。若さんを追いかけようにも頭がふわふわとしていたあたしには、身体を動かす気力が無かった。かと言って、今ユキさんと二人にはなりたくなかった。
どうしようと思ってる間に、ユキさんはあたしの所へと戻って来て
「ほな行くで」
とあたしの腕を掴み立たせた。平衡感覚を欠いたあたしは、彼の身体へと寄り添うような姿勢にならざるを得なかった。会計のカウンター迄ゆっくりと歩き、あたしはお札を握る右手をユキさんに差し向ける。すると彼は何も言わず紙幣を取り上げて、自分のポケットに其れを無造作に突っ込んだ。その後ジャケットの内ポケットから財布を取り出して支払いを済ませてしまった。
振り返った訳ではないが、あたし達の背を幾つかの目が追っているような気がしてならない。
無粋な女なのだろう。甘え過ぎているのだろう。
ほらあたしは又こんな事を考えてしまう。
エレベーターに乗り込み目の前の扉があと少しで閉まると言う所で、ユキさんがあたしの身体を機内の壁に押し付けてキスをした。
「んむっ」
触れるだけでは無い、喰われるようなキスだ。彼から逃れようともがく腕は捕らわれ壁に縫い付けられる。逃げれば追われる舌は熱くて熱くて、あたしの意識を混濁させた。くちゅといやらしい水音を響かせる二人っきりの個室。永遠を思わせる長いキスはあたしから抗う力を削いでいった。落とされる唾液を、与えられた餌の様に喉に通過させていく。呼吸も上手に出来ないのに、喉がコクリと上下した。ユキさんは其れで満足したのか唇を放して、あたしの虚ろな瞳を覗き込む。
「果歩」
彼の唇が濡れている。
「自分が甘えるんは、俺だけにしいよ」
彼だってこの居酒屋に飲みに来たであろうに、とてもアルコールを摂取した様な口調ではなかった。笑うでも、怒りでもない、ただ真摯な眼差しをあたしに向けてユキさんは言う。
こんな表情、現在においてあたし以外の人は知らないんだよね? 彼女に見せたりしてないよね?
「…っ」
やっぱり嫌だ、こんな自分勝手な自分が嫌だ。好きな人にそんな事を言われて嬉しくない訳ない。其れなのに、あたしは其れ以上を望んでる。独占欲剥き出しで…何て強欲なのだろう。
あたしがユキさんから顔を背けると同時にエレベーターが停止した様で機械が揺れた。ユキさんの手はあたしを一瞬自由にしたけれど、手首を掴み直して雑居ビルを後にした。
好きで好きで、傍に居たくて、ユキさんじゃないと駄目だって解ってるのに、ユキさんを前にするとあたしが駄目で。だからこそ、彼にはあたしじゃなくても良いのかもしれないと言う気になる。好きだからただ傍に居る。それだけじゃ駄目な気がしてくる。彼にはもっと、彼を深く理解して包み込んであげられる様な女性が良い気がする。
涙が零れてしまいそうで、あたしはふらつく足に視線を遣りながら唇を何度も結び直した。口腔に力を込めて泣くのを堪える。泣くのは違う気がした。
「果歩」
駅に向かって歩いているものとばかり思っていたが、気付けば行き交う車のテールランプが目に飛び込んで来た。歩いていた足を止め、彼はあたしを振り返る。
「何や俺に言う事ない?」
彼は、こうして優しくあたしに語りかける。あたしの対応に困っているに違いない。何時もの様な強引な物言いではない事が、あたしの心を酷く脅かす。
ユキさんの過去に嫉妬して、そして彼にひたむきな想いを向ける女性に怯えてる。
もう胸に隠してはおけない。
「…彼女達と、花火に行かないで」
あたしは、ユキさんにそう言った。顔を見たら泣いてしまいそうだったから、掴まれた手首に視線を落として彼にそう言った。すると彼は「うん」と、”解った” と言う優しい声色で答える。
「貴方に気のある人と、飲みに行かないで」
「うん」
「関西弁を、会社で使わないで」
「うん」
どうしてっ…! 何で首肯するのっ!
「違うのっそうじゃないっそうじゃないのっ! そんな事あたし望んでないっ」
「解っとるて…せやけど果歩、俺自分の言う事やったら大抵の事は聞いてやれんで」
彼はあたしの手首をぎゅっと握り腰を折って、あたしの顔を覗き込む。この優しい男性をあたしの醜い想いに縛ってはいけない。
「ユキ、さん」
「何?」
あたしが顔を上げると彼も又、背を伸ばしあたしを見下ろした。
「ユキさんと…もう一緒に居られない」




