【12】
「やっと来た」
ユキさんが一人、あたし達の姿を認めて片手を上げた。
「ぎょうさん買うてきたなぁ。誰がこない食うのん」
二人して手に下げていたビニール袋をユキさんが交互に見つめ、呆れた様に笑う。すると山本さんがあたしを指差し
「芳野」
と言った。
「へっ? あたしちょっとずつ食べたいって言っただけですよっ」
「『山本さん、あたし焼きそば焼き鳥アメリカンドッグ生ビールが欲しい』って強請ったやん」
「強請ってないしっ。しかも生って言ったの山本さんじゃないですか」
あたしは必死に山本さんに言い返す。けれど山本さんは痛くも痒くもない様でしれっとした顔をしていた。
「俺言うてへんし」
信じれられない! 何かを言ってやろうにもそう言い切られては全てが徒労に思える。あたしが結局口を噤むと山本さんは「どうだ」と言わんばかりの顔をした。
「んなっ」
「まぁええやん。どうせ食うやろ。柴田さん達ももう座っとるで早よ行こ」
ユキさんはあたしの手を掴み、皆が待つ場所へと向かう。
「果歩ー探したよー?」
あたしを見たシバは開口一番そう言う。あたしが苦笑いしながら謝ると、自分に向けられる鋭い視線に気付いた。会場に訪れた時、敢えて視界に入れないようにしていた営業部の女性達の好意的とは言い難い視線に。明らかにあたしの存在を邪魔に思っている。朝見さんに至っては「主任、又桃の隣座って下さい」とニコニコの笑顔でユキさんを誘う。ユキさんがあたしの手を引いているのが見えない訳じゃないだろうに。
あたしはユキさんの手から逃れる様にゆるりと腕を振り彼の手から抜け出して「シバ、ビール有る?」と大判のシートの後ろの方に座っているシバの元へ屈み込む。
「どれが良い~?」
あたしとシバがビールの入ったビニール袋を覗き込んでいる間も、朝見さんはユキさんに何かを話し掛けていた。
「芳野、俺好みのビール取って?」
何処までも上から目線の山本さんの声があたしの頭上に振り注ぐ。
「知りませんて」
ばっさりと言い捨てると、前方に座っている朝見さんが振り返り
「虎太さんと芳野さんて夫婦漫才みたいですねぇ?」
と言った。彼女がわざと、それでいて大阪のノリみたいな発言をする。見上げた先のユキさんはただ笑んでいるだけだった。あたしはこの胸の奥に渦巻く汚い物を押し込める。そしてビニール袋の中に視線を落とした。
「喉渇いた、あたしコレ。山本さん、ハイ」
あたしは辛口と謳うビールを一本取って、彼に差し出す。
「芳野、こっち」
朝見さんとシバの間に一列分の隙間があり、ユキさんは其処を指差して座る様に言った。彼女の近くに居る事さえ嫌であたしは其れをやんわりと断る。
「何で? 其処でずっと立ってるつもり?」
「えっと、そこのコンクリの所に座って良いですか? 浴衣で来ちゃったんで、あっちの方が楽そうで」
「あぁ…そういう事。せやったら俺も」
「主任、花火始まりますよ?」
朝見さんの一言で周りを見渡せば、大半の人間が未だ何もない空を見上げていた。会場内にある照明が幾らか落とされたのでもう直ぐ花火の開始である事を窺わせる。
「ほら座らへんと後ろの人にも迷惑になりますよ? 早よ座って下さい?」
朝見さんの手がユキさんの左腕を地面の方へと力強く引く。ユキさんはあたしに視線を残しつつも、彼女の腕を振り払う様な事はしなかった。
あの人達は同じ部署で。これからずっと一緒に職務を全うする仲間で。
分別のある大人が取り乱してはいけないと、あたしは思った。ユキさんに対し苦く笑いながら、彼等のシートから少し離れた場所へと歩き出す。
不安で不安で、ただ近くに居たいと思った。傍に彼の匂いを感じたいと思った。同じ会社だから一緒に花火大会行っても大丈夫だと思った。
でもあたしも結局、他部署の人間で。
こんな疎外感や嫉妬を感じる位なら、やっぱり来なきゃ良かった。
ヒュー…ドーンっと大きな音がしてパチパチパチと花火が散って行く。其れを背中で聞きながら、座ろうと思っていたコンクリートの上に未開封のビールを置く。あたしは大勢の人が向ける視線とは逆の方向へ歩を進めた。勝手に帰るつもりはないけれど、どうしたって前に座るユキさんと朝見さんの背中が目に入ってしまうあの位置に居座る事は出来なくて、あたしは道路の方へ道路の方へと歩いた。車に乗る人達も次々に上がる花火に目を奪われている。見事に出来上がった渋滞にあたしは笑った。何処かでは前進を促すクラクションがけたたましく鳴っている。適当な場所で振り返ると大輪の花火が夜空に浮かび上がった。
赤や緑、金色の花火。様々に形を変える。咲いて、散る。そして又、咲いた。
お腹に響く爆音。これでもかと咲く大輪の花火を、一人浴衣で見上げるあたしは滑稽だろうか。…誰も他人の事なんか見てないか。そんな風に自嘲して少し痛む足元へ視線を落とした。
ユキさんも、花火だけ見てくれると良い。隣も、後ろも振り向かないで。
「飲み」
急に目の前に紙コップが現れた。顔を上げれば、ユキさんが同じ紙コップを口に寄せていた。
「…ユキさん」
「んーーーっやっぱ生が一番ええわっウマ」
勢い良く煽ったのかその薄い唇にビールの泡が付いている。子供みたいな姿にあたしは小さく吹き出した。
「何笑うてんねん」
あたしは自分の唇を指し「泡」と言う。すると彼は腰を曲げて、あたしの前へと顔を突き出した。
「拭いて」
突然近付いてきたユキさんの綺麗な顔。顔の左側が、空に昇る花火の光で照らされ明るい。彼のチャームポイントである左目の泣き黒子に、とてつもなく色気を感じて胸がとくりと鳴った。あたしは右手の指で彼の唇をゆっくりとなぞる。指が震えて上手く拭けずに彼の唇に未だ少し泡が残った。ユキさんはあたしの指を軽く握るとぎゅっと自らの唇へ押し当てる。少しの泡も残らず消えた。その後ちゅっとリップ音をさせてあたしの指を解放した。突然の登場と突然の行動にあたしは恥ずかしくて、右手をぎゅっと握り締め背中の方へと隠す。
「嫌やった?」
「…は恥ずかしい、です」
ユキさんはちょっと笑ってあたしの隣に立つ。そして「もっと恥ずかしい事しよか?」とあたしに唇を寄せキスをした。
「なっ」
「だーれも見てひんよ」
確かに周りの人は皆、顎を上げ空を見ている。クスクスと笑うユキさんがもう一度あたしに顔を近付けたのであたしはゆっくりと瞼を伏せた。触れるだけのキスが気持ち良くて吐息が漏れる。其れを拾う様にユキさんの舌があたしの口腔に入り込み、キスを深くした。ユキさんの舌からビールの苦さが伝わる。苦い筈の其れさえも甘く感じて、触れ合える事に歓喜した。
此処は公衆の面前で、会社の人達も居るのにこんな事をしてちゃいけないと思うのに、止められなかった。止めて欲しくなかった。愛されてると感じたかった。
自分が欲深い女なんだって、初めて知った。
「浴衣、似合うてる。せやけど脱がしたい衝動に駆られとる」
キスが気持ち良くて、彼の熱を分け与えられあたしは自分でも解る程ぼうっとしていたと思う。そんな所に来て彼があたしの耳元でそんな事を囁くものだから、あたしの身体は更に火照った。
「脱がっ?」
「伊藤君なんて自分見た瞬間、ゴクて唾飲んでたで? 自分自覚あらへんの? 今日憂いがあるっちゅうか…色気めっちゃ出てんで?」
「…出してない」
あたしは自分の体温ですっかり冷たさを失ったビールを一口飲んだ。炭酸も少し抜けてしまったらしい。
「…良いんですか、戻らなくて」
「ええよ」
「でも彼女達、ユキさんと」
「果歩は、俺と彼女らをどうにかしたいん?」
どうにか、したい訳が無い。あたしは首を振ったが言葉を続けた。
「営業部の、親睦を深める企画、でしょ?」
紙コップを口に付けていたユキさんが視線だけあたしに流して見つめる。
「表向きはやろ? 大体伊藤君達若手が派遣さんや事務方の女の子と仲良くしたいだけやん」
…彼女達が仲良くしたいのは、ユキさんだよ。ユキさんだって解ってない訳ない。自分に向けられる特別な視線に不感症な訳ない。
でも此処で其れを言ってどうする? 朝見さんは貴方に気が有るのよと言ったところでどうなる? ユキさんは困った顔をして「関係あらへんよ」って言うだけだ。
「…だね」
あたしは温くて苦いビールを飲み込んだ。




