【8】
電車に乗り、吊革に掴まってる間もあたしの片手はユキさんに繋がれたままだった。もう流石に逃げようなんて思っていないのに。
「…山本さん、良かったんですか」
山本さんはもう一杯飲んでから帰ると言いお店に残って、あたしは送ると聞かないユキさんに連行される様に電車に乗った。
「ええよ」
あたしはユキさんと視線を合わさない様にと前に座る女性の旋毛や肩を意味も無く見ていた。時間が経つにつれて本当の意味で冷静さを取り戻したあたしは、ユキさんにとって山本さんが大切な友人である事を思い返させた。あたしが先程彼に言った事に関しては、あたしの持論から言って間違ってるとは思ってない。けれど…やはりあたしが其れを言うべきでは無かったと後悔し始めていた。
「…怒ってる?」
「何を?」
「あたしが山本さんに言った事」
「…あー…怒ってひんよホンマの事やし。虎かてズバリ言われて腹立てとる」
「ユキさんも思ってはいたって事?」
あたしは顔を上げ、ユキさんの表情を窺う。彼はずっとあたしの事を見ていてくれたらしく直ぐに視線が絡んだ。
「甘いとは思うてるよ…せやけどアイツいっつもあんなんやし…自分が決めたら周りが何言うても聞けへんから…アイツの気の済むまで放とる。いや…だからアイツの事はもうええねんて…それより…」
ユキさんが何を言いたいのか理解したあたしは思わず吊革を握る手に力を込めていた。
「嫌な思い、したやろ。ごめん」
「…山本さんも嫌な思いしたから…」
あたしは彼から向けられる優しく落ちる眼差しから逃れる様に下を向く。
「果歩が、酔うてるとは思うてへんかったよ。せやけど、虎カッとなるんが早いし俺に輪を掛けて口が悪いん知っとるし、こっちが引いたった方がええかな思うて言うてんよ。せやから…ごめん」
”庇ってあげれなくて、ごめん” って。確かにあたしはあの時、あたしは酔ってないのにって思った。ユキさんの気持ちを酌んだりもしないで。
あたし…何か駄目だなぁ…。
「果歩? 何か変な思考入っとらん?」
繋いだ手を揺さぶられて、あたしは彼を見上げた。
「考えてない」
「ぶっ即答過ぎるんが却って怪しいんやけど!」
ユキさんは、こうやって笑いに変えてあたしの気持ちを解してしまう。彼の優しさに甘えているだけの自分が凄く嫌だった。
◇
「芳野君、良いね。以前の物より断然良いよ」
ホームページのプレゼンが終わり、ミーティングルームを後にする重役達があたしに労いと称賛の声を掛けてくれた。最後に権藤部長が「決まりだね」とあたしの肩を叩く。あたしは腰を折り礼を言った。
次は週末に控えた研修に備えなければと、デスクの上で書類の整理をしていたあたしに内線が入る。山本さんがあたしを尋ねて来たと言うのだ。あたしは慌ててエントランスの待合所に向かった。
「山本さん」
窓際のソファに腰を掛け携帯を弄る彼に声を掛けると、彼はゆっくりと顔を上げる。山本さんに一昨日の別れ際の時の様な冷たい雰囲気は無く、少し照れていると言うか、バツが悪そうな顔をしていた。どうしたものかと逡巡するあたしに山本さんは「座りいよ」と対面の席を促す。
「…この前は悪かった」
「…」
「核心突かれて腹立った」
「…」
「…何か言えて」
「こちらこそ生意気な事を言って」
「何で謝んの」
正確には未だ謝っていなかった。それでも山本さんはあたしの言葉を遮ってそう言った。
「…あたしが言うべき事じゃなかったと思うので」
「俺に向かってあないな事言う奴おらんし…思うてても皆言わへんから」
其れを恥ずかしがるように言う山本さんが目を伏せる。彼なりの苦悩を思うと、あたしが彼を非難する様な発言も全否定しなくて済みそうだ。
「仕事、どうされるんですか?」
「え…あぁ…親父の会社に入れて言われとる…」
「嫌だったんじゃないんですか?」
「…そうや?」
あたしの不躾な質問に、何時もの山本さんの調子に戻った様で彼は凛々しい眉を寄せた。
「嫌な会社で、頑張れるんですか?」
「なっ…何やねん自分っ! 人が頭下げに来たっちゅうのにっ」
「自分のやりたい事、見つけた方が良いですよ。じゃないと貴方の望むモノ何も手に入りませんよ」
今度ばかりは彼は反論せず、開いていた口を閉じる。膝の上に乗せていた両の手はぎゅっと握られていた。
解ってはいるのだ、彼も又。
自分があるべき理想と、持ち合わせた性格と言動が伴わず、どうしたら良いのかの葛藤に。
「山本さん、もし未だお父さんの会社に入られるのを決めかねていらっしゃるなら…足掻いて下さい」
「あ? が、く…?」
「望むモノ、手に入れて下さい」
きっぱりと言い切ったあたしに、山本さんは呆れた様に笑う。
「……よう言うわ簡単に」
一昨日の事だとか、今さっきのやっぱり生意気な発言も容赦してくれた彼とあたしは、ほんの少しの世間話をして立ち上がった。最後に彼はこう言った。
「今日ここ来た事ユキには言うなや?」
友達の彼女に謝りに来た事を知られるのが恥ずかしいのだろう。あたしは頷いた。
◇
「おはよう」
エントランスでエレベーターを待つあたしの横に、人の気配と共に掛けられた声の方 ―― 左側 ―― を仰ぎ見る。スーツ姿の彼に会うのは久し振りで、恰好良い等と思い顔が緩む自分を抑えようとした。
「…おはようございます」
あたしは慌てて前方に視線を戻し、ユキさんも又、エレベーター扉の鏡面に映った自分達を見つめながら微笑んだ。
「明日の研修で、打ち合わせとか未だある?」
すっかりに耳に馴染んだ関西のイントネーションにあたしは驚く。
「ユキさん、関西弁」
「うわっあかん、出よった」
と口元を大きな手で覆うユキさんは、驚愕の表情を浮かべている。スーツを着た長身の美丈夫が、自ら口にした言葉に目を丸くする姿って…あたしも彼を倣う様に手で口を隠し笑う声を潜めた。
「笑うなやっ…あ、くっそ自分…」
絶対にあたしのせいじゃないのに、濡れ衣!
「あーおはようございます、主任。今日からですか」
二人同時に声のした方へと顔を向ける。そこにはシバの彼氏の神崎さんが居た。ユキさんは姿勢を正し「おはよう神崎君」と、東京仕様になった。あたしは其れを見て笑ってしまい、ユキさんに肘で小突かれる。
「? あ、城田さんの代わりの派遣の人、今日から来るって話ですよ?」
「あぁ城田さんは何時から産休入るんだった?」
「来週の月曜からです」
「じゃぁ今日入れて後三日か…。最終日には、花束でも用意しようか? もう悪阻とかは大丈夫なんだよね?」
やっと下りて来たエレベーターにあたし達は乗り込んで、営業部の話をしているらしいユキさんと神崎さんの後ろに立つ。
「流石主任。気が利きます。俺も見習わないと」
そう神崎さんが言った所で、彼の隣に立っているユキさんがあたしに振り返り
「芳野さん、営業部に派遣の人が入るの聞いてますか」
と標準語で訊ねた。あたしも仕事モードへと切り換えて聞いていないと答える。
「城田さんも、研修は一応受けるんだよね?」
今度は神崎さんにそう聞くと彼は頷いた。
「城田さんって言う事務方さんが産休に入るんで、派遣の人が取り敢えず一年契約で営業部に入ります。その派遣さんも研修を受けると思うので、頭数に入っているか念の為部長に確認して連絡入れますね」
「了解しました。お待ちしてます」
話の区切り良く営業部のフロアへとエレベーターが停止し、二人が降りて行く。あたしが軽く頭を下げ其れを起こした時は、扉が閉まり掛けていた。開閉扉の僅かな隙間にユキさんの微笑んだ顔が見える。同じものを返したつもりだが、彼に其れが確認できたかどうかは分からない。
そして、彼の言う『派遣さん』はあたしの小さな葛藤等お構いなしに、あたしが隠し持つ黒い影を簡単に助長させた―――――。




