【7】
休日のオフィスは静かなもので、マシンと空調の作動音だけがフロアに響いている。
「…此れで、大丈夫」
「…マジっスかぁぁ! 有難うございます芳野さんっ。リカバリ出来ないかと思いましたぁ」
あたしは肩を下げ、大きく息を吐いた。一時間ばかりタイプし続けて肩がガチガチになり、あたしは左手で其処を揉み解す。
「マジ有難うございますっ」
牧野に対処法を教え片付けをして会社を出たら、十七時を過ぎていた。アスファルトからは未だ熱気が立ち上っている。纏わりつく空気に溜め息が出た。ちょっと冷たい物でも飲んでから帰ろうかしらと歩き出したあたしを呼ぶ声がする。立ち止まったあたしの傍らに、ユキさんと山本さんが歩み寄って来たのだ。
「ユキさんっ」
「急な仕事やったんやて?」
「あーうん、ちょっとトラブルが」
「お疲れ」
「いえ」
疲れていたのだが、まさか会えると思っていなかったユキさんを前にあたしの心が一瞬にして癒されて行く。
山本さんとはきちんと話せたのだろうかと、窺う様に顔を上げ渦中の人を見ると「腹減ってんのやけど」とお腹を押さえていた。そのマイペース振りに、何だかユキさんと山本さんって似てるなとあたしは思った。
「ここら辺で飯、食っていくやろ? ご両親にも許可取ったし」
「えっ? ご、ご両親?」
「自営の?」
言うなり笑うユキさんの腕をあたしは軽く叩くと、其れを言い出した山本さんをねめつける。そうか、ユキさんが山本さんをあそこに迎えに行ったって事は、あたしの両親とも会ったって事なのか…。
「許可って…話を、したの?」
「するやろ。初めましてがこの状況で何とも言えへんけど…お付き合いさせてもろてますて挨拶したわ」
本当の事だし、ユキさんがわざわざ挨拶してくれたと言うのは嬉しいが…とてつもなく恥ずかしい。
「オヤジさんは、微妙な顔しとったなぁ」
山本さんは、ユキさんの隣でそう言って口の端を片方だけ僅かに上げる。
「急に男が二人も自分の娘の前に現れて、しかも関西弁で挨拶されんねんもんなぁ。そりゃ引くわな」
「お母さんには、好印象やったやろ?」
「イケメン二人やもん。悪い気はせえへんちゃうの?」
「自分でよう言うわ」
掛け合いの様に話す二人の絶妙さ。関西の人は皆こういう感じなのだろうか。
「え、他にはどんな話を? うちの親変な事とか言ってないです?」
「変な事? 言うた?」
ユキさんが山本さんに向かって訊ね、山本さんは暫し考える様な顔付きになった。妙な間があたしをドキマギさせる。
「儲かりますかぁて聞いたら、」
そう言い始めた山本さんの言葉をあたしは勢い良く遮った。
「自営じゃないっ!」
するとユキさんと山本さんは声を上げて笑った。その気持ちの良い笑顔を見ているあたしにも笑みが零れる。この他愛も無い時間を共有出来る事こそ、かけがえのないものなのだろう。
「酒、飲むやんなぁ?」
あたしが拒否するなんて微塵も疑わないユキさんの誘い文句。勿論其れに相違は無いのだが、少し強引な所もユキさんであって、嬉しくなってしまう。
「うん、飲みたい飲みたい」
暑かったせいか、喉を落ちて行くビールの炭酸が気持ち良くてあっと言う間に一杯目を空けてしまう。目の前に座った山本さんが目を見開き軽く口笛を吹いた。
「男前やろ」
そう言ったのはユキさんで、何だか嬉しそうにさえ聞こえる。彼女が男前で嬉しいなんて可笑しいでしょう! 憮然とした表情をしたらしいあたしの頬を、ユキさんの左手が軽く撫で上げた。
「見てて気持ちええやん。好ましいやんな?」
「あぁせやなー。ちょっとしか飲まれへん言うてカルーアミルクで泥酔ぶられるよりはええな」
そんな事を言う山本さんは又も真面目な顔で、彼の発言の真偽を量るのは難しい。
ユキさんと山本さんが注文してくれた食べ物を少しずつ摘まみながら、あたしは二杯、三杯とチューハイを飲み干した。程良くアルコールが回ったあたしは先程から気になっていた事を口にしてみる。
「…お二人は良く話し合われたんですか?」
二人の顔を順番に見て訊ねるあたしに、先に答えたのは山本さんだった。
「罵られた」
彼は悪びれもせずウーロンハイで満たされたグラスの縁に口を寄せ、ユキさんの方へと視線を向ける。
「辞めんのは構へんて。何で俺が嘘吐かれなあかんのて、そう言うただけやん」
ユキさんの口調ももう怒ってると言う類いのものではない。
「ソウデシタ。…俺、大学出て親父の会社に入らんと自分を試すんやぁ言うて、グループにも何にも関係あらへんちっさい会社に入ったやん。七年やっても何や自分が望む様なもんは手に入らんし、段々惰性で毎日過ごして…其処へ来てユキ、東京へ栄転なんて言うやないか。焦ってん。俺何もしとらんのにて」
「……」
「仕事はおもろないし、ユキもおらんし、ちょっと大阪離れてみよかなて」
「望む様なものって、何なんですか?」
未だ話の途中だった山本さんを遮ってあたしは言葉を発する。ユキさんは未だ黙っていたし、山本さんも気分を害した様でもなく少し考えを巡らせた後
「大きな契約取るんとか? 役職上げる、とか?」
と疑問符を貼り付けた返事をした。あたしは彼の返答に納得が出来ず、思わず表情を曇らせる。三十にもなる男が何を言うのだと、口に出して言ってしまいそうだったが其れはあたしが言う事ではないし言う立場にも無いと顔を俯けた。あたしだって立派な理由でINCを辞めた訳ではない。
「…んや何か言いたい事あるんなら言えや」
「虎」
「ええて。言えや」
気まずい空気が流れ、あたしは助けを求める様に右隣のユキさんを見上げた。ユキさんも困っている様だ。
「虎、もうええやん。果歩も酔うてるようやし。それに自分かて解っとんのやろ? 果歩が何て言うかぐらい」
「解らへん。早よ言うてみい芳野、サン」
まるで喧嘩を売られているみたいだった。お酒が入っていなかったらもう少し我慢出来たかもしれない。山本さんの言動に真摯さを感じられていたら、ずっと口を噤んでいられたのかもしれない。
「大きな契約取るのも、昇進するのも、努力に努力を重ねた一握りの人間だけです」
あたしは顔を上げ、しっかりと山本さんの目を見て言いたい事を言った。すると山本さんはあたしを小馬鹿にした様に笑い「そら正論や」と言った。
”正論”
あたしは又しても、その言葉を浴びせられる事になる。
「そんなん解っとるわ。せやけど上手く行けへんからこうやって愚痴るんやろが」
「愚痴? 愚痴る度に会社を辞めるんですか?」
「っ」
「甘えてます、貴方は」
あたしは頭の中に、形振り構わず仕事に没頭する若さんを、絶対に良い物を生み出すと目を輝かせている修哉さんを、東京の顧客獲得の為に奔走し弛まぬ努力をするユキさんを浮かべた。
山本さんを否定する程彼の事は知らないが、数回話しただけでも軽い印象は受けるものだ。
「っ自分、女の癖に一端の口聞きよって何やねんっ」
「虎っ。果歩も、もう止めえや。自分酔っとんで?」
あたしを宥める様に肩に手を置いたユキさんの手さえも、嫌なものだった。未だきちんと話が出来る程には理性を持っている。泥酔と言う程の飲酒量ではない。其れをユキさんだって解っている筈なのに。あたしはユキさんの手を肩から振り解く。其れを見ていた山本さんが「オイっ」と大きな声を上げた。
「自分の男に何しとんのじゃっ」
腰を浮かせた山本さんの両肩を抑えたのはユキさんの長いリーチだ。
荒げられる声に怖くない訳ではない。けれど目を逸らしたら、あたしの唱えた”正論” とやらが否定されるみたいで其れは絶対にしたくなかった。
「ユキ、おま…何て女と付き合うてんのや」
「虎っ」
「何やほんまの事やないけ。男に盾突くわ、頑固やわ…止めろやこない女」
山本さんのその台詞にあたしの頭にカッと血が昇る。そして直ぐに胸の内が痛みを訴えた。
「すみません…場の雰囲気悪くして…あたし帰りますね」
あたしは俯けた顔を上げずに、バッグを手にすると左側の通路に出た。「果歩っ」ユキさんのあたしを呼び止める声と共に腕が伸びて来て、バッグを持った手首が掴まれる。
「落ち着けて」
あたしを案じる様に、言い聞かせる様にユキさんは言った。その声を反芻させてゆっくりと息をする。
それでも、
「今日は帰ります」と、あたしは長い髪で顔を隠して、でもしっかりとした口調で伝えた。緩む事のない掴まれた手首を自分の方へと引き寄せる。けれどユキさんは其れを赦さない。
「ユキさん…お願い、放して」
「ほな送るわ」
「一人で帰る」
「せやったら放せへんて」
お店の店員さんが、この不穏な空気を察知して「如何致しましたか?」と声を掛けて来た。身動きの取れない状態のあたしと、あたしを放そうとしないユキさん。これでは営業妨害になってしまうのかと危惧したあたしは、解放される為の選択を取らざるを得なかった。




