【5】
待ち合わせの場所で携帯片手に佇むユキさんをあたしは少し離れた場所から見つめていた。片手をデニムのポケットに軽く引っ掛け、携帯の画面を指でなぞるその姿はとても絵になっている。遠巻きに彼を見つめる女性の眼差しは、好奇心に充ち溢れていた。あたしは少し気後れしながら彼の傍に歩み寄る。
「おはよう、ユキさん」
彼はあたしの姿を認めて破顔一笑する。
「何や自分に会うんめっちゃ久し振りな気がするわ」
あたしも同感だとばかりに頷く。たった数日なのに随分長い間会ってない気がした。
「山本さんはどうしたんですか?」
「あー知らん」
「知らん?」
「昨夜、渡里行ってんやんか、虎めっちゃ飲みよって潰れてな。今も爆睡しよん」
あたしは起きた時の山本さんを想像して笑う。
「なん?」
「山本さん起きたら大騒ぎするんじゃない? なんやーユキー何処行っとんのやーって?」
電車に乗る為に歩き出そうとする彼は、当たり前の様にあたしに大きな手を差し出した。あたしはその手に触れて彼に寄り添い歩く。
「お、自分関西弁上手なっとんなぁ」
改札を抜けホームへ向かう途中
「あー俺会社でも関西弁出てまいそうやな」
と彼が口元を押さえた。
「今、虎と一緒やんか。関西弁しか喋っとらんもん」
「確かに。でも、大阪から来てるの皆知ってるんだから関西弁出しても問題無いですよね?」
「関西弁喋っとると素が出んねんて。口悪いのも出てまうやろ? 其れに東京の人間て関西弁よぉ思わん人間もおんねんやんか」
「そうですか?」
「大阪人はケチやとかがめついとか思われてんで。大阪居た頃、東京の業者に卸値勉強してくれまへんかぁ言うたら、”大阪の人は本当に厳しい事言いますね” て真顔で言われたんよ。吹っかけといて何言うてんねんって突っ込みたいのをめっちゃ我慢しとった」
あたしは彼のコロコロと変わる表情と話術に引き込まれて声を上げて笑った。
乗り込んだ車内であたし達は会えなかった時間を埋め合わせる様に取り留めのない話をし、触れ合った体温を分け合う。仕草一つ、動作一つ、言葉一つ、どれを取っても嬉しくてあたし本当にユキさんを好きなんだなって再認識する。傍に居るだけで充足感でいっぱいになるって、そんな風に人を好きになれるもんなんだって少し驚いた。
その半面、ユキさんも彼女とそういう日々を過ごしていたのかなって思うと、胸の辺りが重くなる。
「もう疲れたん?」
電車を降り、ショッピングモールが見えて来た。あたしの顔を覗き込む様にしていたユキさんに笑い掛け
「暑くて死にそう」
と団扇代わりの掌をパタパタと仰ぐ。
「自分、少し光合成した方がええよ。腕とか真っ白やん」
「光合成って…早くビル入りましょう。それからお茶です」
「もうかいっ!」
有言実行、コーヒーショップでフラペチーノをオーダーして、ショップが立ち並ぶモール内に設置してある休憩スペースに二人並んで座る。未だオープンして間もない時間帯のモールには人が疎らだったが、家族連れや恋人同士、中学生と思しき初々しいグループが皆笑顔で歩いていた。
「何か皆楽しそう」
「せやな」
一日の始まりのわくわく感が詰まったモール内に場違いとも思える大きな声が何処からか聞こえてくる。ユキさんとあたしは一瞬顔を見合わせた後、周りを見渡してしまった。するとあたし達の場所から十メートル程離れた通路で男女が向かい合って言い争っているではないか。
「仕事って言ってるけど、女じゃないのっ!」
「しつこいよ、お前」
「土曜日は休みって言ったじゃんっ」
互いに社会人である様な出で立ちで、幾らかあたし達よりは若い二人だった。女の子の方がヒステリックに叫んで、男の子の方が顔を歪めながらも彼女に対して冷静に対応しようとしているのが見て取れた。
ユキさんとあたしは彼等から視線を戻し、変なもの見ちゃったなと言う感じで黙した。
「歩こか?」
あたしは黙って頷き立ち上がる。後方からは未だ言い争う声が聞こえ、女の子の声が涙へと変わった。あたしは男の子、気の毒だなって思いで歩き出す。
「泣いたって解決しないのに」
思った事が思わず口に出ていて、ユキさんが「厳しいな自分」と微苦笑した。
「…そうですか? あの男の子の言う仕事が本当だとしたら、彼の仕事を理解する様努めるべきだとあたしは思いますけど」
「正論やけどな。好きやから不安になるんやろ? 仕事を疑いたくもなるんちゃうの? 不安にさせる男も悪いやろ」
ユキさんの言う事は、理解出来る様な出来ない様なものだった。ユキさんが、渋面を作っていたらしいあたしの手首を掴み立ち止まらせ顔を覗き込んだ。
「…俺自分と喧嘩したい訳ちゃうんやけど」
「! あ、あたしだってっ…今日凄い楽しみにして…て…」
あんまり優しく笑ってあたしを見つめるから、恥ずかしくなって最後の方の言葉はか細く消えてしまう。
「…年上の俺から一言だけ言わせて果歩。俺思うねんけど、人の気持ちって算数みたいに答えがきちんと出揃うなんて事あらへんて。せやから、一足す一は二やって固定観念に囚われたらあかんと思うで」
解るけど…解るけど、二十七年そうやって生きて来た。自分でも理屈っぽい人間過ぎだなって思う事も在った。でも其れを崩して、頭を働かせるなんて難しいんだよ…。
「それって処世術の一つ?」
「んー? ちゃうかなぁ…素の俺は単純やから感情に従順になれるだけや」
「従順…ですか?」
「せや? 俺が付き合いたい思たら付き合えーやし、何処何処行くー言うたら行くし、他の男に優しすんなぁって思たら妬くやろな」
「…ぷっ其れ我が儘ですよ」
ユキさんがあたしの手の中からすっかり空になったカップを取り去ってダストボックスへと放り込む。さり気無い優しさはあたしの中の”好き” を大きくしていく。あたしはそのユキさんを待って、もう一度手を繋いだ。
「そんなもんやないの? 人好きになるて。好きで、その先欲しなって其れ手に入れたら、もっと欲が出て。だから…喧嘩したり、戸惑ったり、不安になったりするん違う?」
「ユキさんも…男の人もそう思うもの?」
「思うやろ。ちゅーか思うてたから、真関さんの事で自分責めてたやん」
苦笑するユキさんを見上げ、あたしは「そっか」と目を細めた。
醜くは無いのかな…ユキさんが好きでユキさんと付き合って、過去の彼女に嫉妬する自分…そう言う自分が居てもおかしくないのかな。
セレクトショップを幾つか覗いて、輸入食品を扱うお店で試食で摘まんだチーズが美味しくて、ワインと一緒に買った。
「虎が大阪戻たら、二人でゆっくり過ごすで?」
「うん」
「…あ、ちょお待って? 電話や」
そう言ってユキさんがパンツの後ろポケットから携帯を取り出し、着信画面を見て一瞬眉を寄せた。そして「虎の…姉ちゃんからやわ」とあたしに告げてから携帯を耳に当てる。人さまの通話だ、聞いてはいけないだろうと近くに有る適当なお店に入ろうと周囲に目を遣った。ディスプレイのバッグに興味を引かれ其方へと行こうとするあたしの手首を、ユキさんが捉える。彼を見上げると電話中でありながら、あたしと視線を合わせ首を横に振った。”離れるな” と言う意味なのだろう。あたしは少し挙動不審になりながらも自分の手首から彼の指を引き剥がして、彼が手首に引っ掛けていたワインの細長いペーパーバッグを彼の指に乗せ直した。そして、彼のTシャツの裾から少し覗くベルトに指を掛け彼の傍へと立った。
聞こえてくるユキさんの声が、低い物へと変わる。
「はぁ? 聞いてへんねんけど? 夏休みやて聞いてますよ」
あたしは少し驚き彼を見上げた。眉根を寄せた彼の口から「ちっ」と舌打ちが聞こえる。
「直ぐにでも宅急便で送りますわ」
そう言うとユキさんは通話を終え、携帯を握った手を力なく落とすと深い溜め息を吐いた。
「ほんまっあのクソガキがっ」
「…どう、したの?」
「虎、向こうで会社辞めてきよったらしい」
「え?」
「アイツ夏休みや言うて東京来とったんちゃうんやて。あー…ほんま何やねんアイツ…くっそ」
嘘を吐かれていた事が悔しいのか、会社を辞めた事を怒っているのか、あたしにはどちらとも判断出来ない表情でユキさんは暫く其処に立ち止まっていた。




