【4】
「ただいま」
もう寝ているかもしれない両親に遠慮して小さな声で玄関の扉を閉めた。すると思いがけず母の「おかえり」が聞こえ、あたしがリビングに顔を出すと彼女はアイロンを掛けているところだった。
「果歩、お母さん今週末、センターで仕事入っちゃったからお父さんの夕ご飯頼んでも大丈夫?」
山本さんが恐らくユキさんを独占するのだし、あたしに許されるユキさんとの時間は日中の時間になるだろう。
「土日? うん、大丈夫だよ」
あたしはダイニングチェアーにバッグを置き、アンサンブルのカーディガンを脱いだ。
「塩分は」
「控えめに、ね?」
母の言葉を引き取ってあたしがそう答えると、彼女は鷹揚に頷く。看護師の母は、父の高血圧を心配している。勿論あたしだって両親には何時までも元気でいて欲しい。
「お母さんもあんまり無理しないで」
平日五日、近くのクリニックで日勤看護師として働いている母だが、歳は六十も近いのだ。加えて今回の様に、献血センターでの手伝いを頼まれる事もあるらしく身体を休められない一週間もある。
「そっくりそのまま返すわよ。貴女最近、夜遅くまで仕事してるんじゃないの?」
「あー…うん、ちょっと仕事頑張りたいなって…」
冷蔵庫から麦茶のポットを取り出しグラスに注いで、其れをゆっくりと持ち上げる。
あたしがINCを体調不良で辞めてから、母はあたしの身体を今まで以上に心配するようになった。限界を見極めてあげれなかったと、後悔しているのかもしれない。
「…あのね、同じ会社に付き合ってる人が、居るの。凄い仕事の出来る人でね…何かその人見てたらあたしも頑張んなきゃなって思ったんだ…。無理して、とかじゃなくて、本当に今仕事が楽しい…だから、そのあんまり心配しないで?」
母は優しげな表情を浮かべ「そっか」とだけ言い、アイロンを動かす。あたしは照れ臭くなって、麦茶を飲みながら暫く彼女の仕事を黙って見ていた。
◇
「でね、基樹君の元カノと遭遇しちゃった訳っ!」
お決まりの社員食堂でシバは頬を膨らませながら、軽く握った両手をぶんぶんと上下に振りあたしに訴える。
「元カノがね、すっごい美人なのよ! 果歩みたいな?! 凛とした感じの? とにかくあたしとは正反対みたいなね? だからあたし疑っちゃったの。基樹君は本当にあたしの事好きなの?! って!」
「…シバ、ちょっと声大きいかな」
近くに座る社員達がチラチラと此方に視線を送ってきており、シバの言う『基樹君』が誰であるかを知る人も中には居るかもしれないのだ。シバは身体を縮めた後、少し理性を取り戻したのか声のトーンを落としてトレイの上のフォークを手に取った。食べる気があるのか無いのかレタスの葉を数枚フォークに刺している。
「…そしたらね基樹君が…何で疑うの? って…確かにね、元カノに対してデレっとした訳じゃないし、あたしを疎外した訳でも無い。元カノの方も良い人そうで、本当に立ち話で『彼氏待ってるから』って直ぐ何処かに行ったんだ…でもさ…元カノとあたし似てないし、好きになる要素何処も被ってない気がして…」
あたしは半分ほど食べた煮魚定食に伸ばす手を引っ込め、左横に座るシバを見る。シバはプレートをじっと見たまま
「ごめん、あたしの言いたい事解る?」
と言った。
「…似てた方が安心する?」
「…」
「あたしは嫌だな。彼の昔の好きな人に自分が似てたら嫌」
あたしにとってユキさんが特別で在る様に、彼にとってもあたしが『特別』で在って欲しいと思ってる。
「果歩は自分に自信があるからそう思えるんだよ…あたしは無理」
自信なんて無い。シバこそ、どうしてそこまで「あたしなんか」と卑下するのか理解に苦しむ。容姿は勿論、性格も良い。仕事だってバリバリのキャリアウーマンとは言わないが言われた事は一生懸命にこなしている様だし、上司の専務だって彼女を家族旅行に同伴させる程彼女を気に入っている。よっぽどあたしよりも周囲に認められているのに、何故『自信』に繋がらないのだろう。
きっと、彼女の計る自信と、あたしの計る自信に相違があるのだ。
自信なんて無い。ただ、あたしはユキさんを好きだと強く想っているだけだ。
「その後は…?」
「…んー…」
シバはあたしの方へと一度視線を流すと、不機嫌な感情を隠そうともせずこう言った。
「…何か…果歩に言うんじゃなかったかも…幸せな人に言ってもあたしの気持ちなんて解らないと思うから」
「…」
シバは殆ど手を付けなかったパスタランチが乗ったトレイを持ち上げ、席を立った。彼女が社食を出る迄その姿を目で追っていたあたしだったが、彼女が見えなくなると息を吐いて冷たいお茶を一口飲む。
…幸せだからとか其れは抜きにしても、彼女の負の感情が理解し難かった。
神崎さんはシバの事を好きなのだし、元カノだって神崎さんをどうじゃない。元カノに雰囲気すら似てない事に不安になるのも…ちょっと解らない。
けど…シバがあんな言い方をするなんて…あたしの言い方が良くなかったのかな…。
食欲が何処かに消え失せてしまったあたしは又、溜め息を吐いて腰を上げた。
「芳野君ね、ホームページの件だけどね、簡単にプレゼン出来るかな?」
終業間際、内線電話を終えた権藤部長があたしを呼びそう切り出した。
「いつでしょうか? シミュレーションはお見せ出来ますが、紙ベースでは未だ部長にお見せした以外の資料作成してないんですが…」
「今ね専務からでね、管理職数名でね芳野君の仕事見て採用するか決めるって話になったみたいでね」
「本当ですか!」
あたしは思わず声を上擦らせた。
「イントラも変える方向でしょう? でホームページとなるとね、サーバーも容量上げないといけないからね。販管の研修前に組むから…そうだね、来週の前半でね調整しようかな。大丈夫かな?」
「了解しました。資料は何部用意すれば」
「五部ね」
「はいっ」
「…芳野君、何かね活き活きしてるね」
言葉を返すよりも先に笑顔が零れる。其れを見た権藤部長も目尻の皺を深くした。
INCに居た頃、プログラマの仕事は苦しかった。やりがい、達成感はあったけれど日々仕事に追われ息つく間もない程だった。耐えられず辞めたのに、今こうしてマシンと対峙して又プログラミングを出来る事に喜びを感じている。自分が与える指示に忠実に答えを返してくれるコードに高揚する。若さんがあたしに「現場に帰ってこい」と言ったことの意味、今なら解る。
『今、帰ってきたん?』
あたしはヘトヘトの身体を叱咤して敷き終わった布団の上に大の字に寝転んだ。とても彼氏と電話中の女とは思えない酷い姿だが、緊張が解れるこの体勢はとても気持ちが良い。
「んー」
『何か喋りも疲れとるで』
「んー…でもユキさんの声聞けて、元気出た」
これは本当。声とその関西弁。ユキさんだなぁって安心する。
『…やっすいのぅ』
そう言って苦笑いしてるであろうユキさんも容易に想像出来た。
「今日は? 山本さんとどっか行ったんですか?」
『今日はちょっと仕事しとったんやけど、虎が拗ねて何や何処かに行ったまんま帰ってきいへん』
「仕事って何か大きい案件?」
会社で噂になっていたと伝えると彼は少し照れたような口調で「どっから漏れんねん」と呟いた。
「でも凄い、未だ本社来て半年も経たないのに…」
『何も凄ないよ。業績アップの為に本社来とんのに、大口やっとや』
あたしは天井に視線を這わせ、頭の中でもう一度その台詞を反芻していた。何故だか一瞬、彼の台詞に違和感を感じたのだ。
『せや土曜、空いとるやんな?』
「あ、あたしもその話しようと思ってたんだ。夜はお父さんにご飯作んなきゃいけなくて家に居ないといけなくて」
あたしは身体を起こし、電話の向こうの彼の様子を窺った。
『じゃぁ朝から夕方迄は暇やんな? ショッピングモールでぶらぶらしよか』
「んー」
あたし達は土曜日の待ち合わせをして電話を切った。携帯にスケジュールを入力し、今度はバッグの中の手帳に約束を書き入れる。芯を収めたボールペンの先でカレンダーを数回叩いた。
プレゼン、研修、ソフトの導入。少し慌ただしい、ミスのないようにしけなければとあたしは気を引き締めた。




