【18】
彼と好きな色が思いがけず一緒だったり、料理の好みが似通っていたり些細な事の積み重ねは想いを大きくした。誰よりもユキさんが好き。何よりも、彼を大事にしたい。
願わくば、初子さんの様に赦されたい。
ユキさんに、未だ愛されていたい。
未だ終われない、終わりたくない。
今度は、溶暗を待つ訳にはいかない―――――。
明日から夏季休暇に入るあたしはサーバー管理の件について、牧野に申し送りをしていた。其処へ一本の内線が舞い込み受話器を上げる。
「情シスの芳野です」
『受付です。御約束では無いとの事ですが、書類をお渡ししたいと芳野さん宛てにインテグレート・ネットワークコーポレーションの若村様がお見えです。如何致しますか?』
「直ぐに下ります」
あたしはそう言って電話を切ると牧野に若村さんの来社を告げ、エントランスへ向かう為エレベーターに乗り込む。二つフロアを下り開閉を知らせる電子音と共に扉が開くと、其処にユキさんが立っていた。互いに姿を認めあって彼の方が一瞬躊躇うのを感じ取り、あたしの胸がツキリと痛む。そんな顔を見られたくなくて顔を俯けたら、コツとエレベーターの床が鳴った。彼の足があたしの五十センチ程先のパネルの前で静止し、扉が閉まる。
…初子さんと仁美さんは偶然にエレベーターで会ったんだったよね。
突然の再会に一瞬で息が詰まった癖に、そんな事が頭を過った。
名前を口にしようと顎を上げた。すると一つフロアを下りたエレベーターの扉が開き、目の前に群衆が見えた。ざっと数えても十人以上は居るのでこの一機に納まりきれるのかも不明だが彼等はぞろぞろと乗り込んでくる。同じ作業着に身を包んだ男性達が此方へと押し迫って来て、あたしは此れ以上下がれはしないのに壁に背をピタリと合わせた。
「!」
其れと同時にあたしの前に濃紺のスーツが現れ、その中心に存在する臙脂色のネクタイには見覚えが有った。この香りも、あたしは覚えている。
四隅に追いやられたあたしをまるで守る様に、ユキさんはあたしの前に立った。空いている左手をエレベーターの壁に付き、あたしを囲う。押し詰め状態の機械の箱の扉が無事に閉まり、降下を始めるとあたしはこの現実を疑った。
会えない日々が続いていた。降って湧いた様な偶然に、奇跡の様な時間。
あたしは其れを確かめる様にそっと手を伸ばし、震える右手で怖々彼の胸に触れた。触れたらどうしようもなく胸が苦しくなった。張り裂けそうな程で、息をするのも難しい位。あたしは彼のラペルをぎゅっと握り締めた。逃げ場のない彼の胸に額を押し付けて、彼がこの場所に居ることを嬉しく想う。
「ユキ…さ…」
「……」
「好き、なんです」
彼に聞こえたのかどうかも怪しい程のか細い声で呟いた。何かを言って欲しいと願ったが無情にもポーンと電子音が鳴って、目的地であるエントランスへの到着を知らせる。扉が開くとこの場に漂っていた圧迫感が一気に解放された。
何時までもこうしている訳には行かず、あたしは額と指をゆっくりと彼から放した。彼も数秒立ち竦んだままだったが、扉が閉じられるその前に踵を返しあたしよりも先に歩き出す。数歩遅れてエレベーターを降りたあたしはエントランス内にある簡易な待合所に、先を行くユキさんはブリーフケース片手に出口へと向かう。
熱くなった頬の火照りを取り去る様に手の甲を幾度か押し当て、呼吸を正すとあたしは若さんを探す為顔を上げた。待合所のソファに座る細身の男性ばかりを目で追うあたしの前にやって来たのは……修哉さんだった。
若さんが居るものだと思い込んでいたあたしの身体が、途端強張って一瞬動きを止めた。その失礼な所作を目の当たりにした彼が、やっぱり困った様に微笑する。
「ごめん、俺って言ったら来てくれないかなと思って…此れは本当に若村から頼まれた書類。こっちに回るついでがあって来たんだ」
社名の入った青い封筒を差し出され、あたしはおずおずと両手で受け取り頭を下げる。上手く声が出なかった。
「…果歩、俺この前酔ってたみたいで何かを言ったかもしれないけど忘れてくれると嬉しい」
彼の一言に驚きあたしは俯けていた顔を上げ、彼の浮かべていた笑顔に又困惑した。彼は照れ臭そうに笑っていた。
「実は久し振りに酒飲んでね、次の日の朝なんか頭痛くて」
嘘だ嘘だ嘘だ。この人が酔った事なんて一度も見た事が無い。しかも彼が口にしたのはロックグラスに注がれた半分程のウィスキーだ。この人は又あたしを守ろうとしている。『お前の気持ちは解った』のだと言っている。彼を見上げ、この人は何処で誰に弱い所を見せるのだろうと想う。この人を苦しめている事に胸が熱くて痛くて、あたしは手にしていた封筒を胸の前でぎゅっと抱えた。
「会社なのにぃ男引っ張り込んでぇ、暇な部署は良いですねぇ」
突然掛けられた耳馴染みのある声にビクリと肩を揺らし、あたしは声の主に視線を遣る。退社する所だったのか普段首から下げているネックストラップは見当たらない。
「あたしもぉ異動したいくらいですぅ」
くすくすと嘲笑が聞こえる。その笑った顔が酷く歪んで見えた。懐かれてると思っていたのはあたしだけだったのか。
呆然と立ち竦む中、エントランスを行き来する社員達が不穏な空気に気付いてか此方を見ている。あたしだけでなく、修哉さんがそんな好奇な目で見られるのだけは耐えられない。あたしは彼に「今日は有難うございました」と頭を下げこの場を切り上げようとした。下げていた視線に入ったのは、修哉さんが久住さんの方へと向かう皮靴だった。
「失礼、私は御社と取引のある会社の真関と申しますが、今彼女に対して侮辱ともとれる発言は聞き捨てなりません」
「しゅ」
彼の行動にストップを掛けようとしたあたしに、修哉さんがちらりと向けた顔は「黙っていろ」と言っている様であたしは口を結び彼等の動向を窺った。まさか修哉さんから反論が出るとは思っていなかったのか久住さんは狼狽している。そしてあたしはその久住さんの向こう側に此方を見ているユキさんの姿を捉えた。
「ぶ、侮辱だなんてぇ、だってぇ本当の事ですよぉ? …社内でも男たぶらかしてますからぁ」
久住さんがあたしをそんな風に見ていたのは心外だ。けれど今は其れに胸を痛めている場合では無い。取引先とトラブルだなんて、両社にとってメリットはないし修哉さんの立場もある。
「あの、あたしは平気ですから…真関さんはお帰りを…」
彼を守らなければと思いながら、此方に向かって来るただ一つの視線に心が奪われて絞り出した声は頼りないものだった。
「貴女は何か誤解してらっしゃる様だ。私は以前は彼女の上司でもありました、彼女が男性をたぶらかす様な女性で無い事も承知しています。ですから先程の失礼な発言は撤回し、彼女に謝罪して頂きたい」
「なっ」
久住さんの顔が屈辱で歪む。まさか修哉さんがあたしの『上司』だったとは思わなかったのだろう。ギャラリーも今の会話を聞いてか俄かに騒がしくなった。非難めいた視線が久住さんに集中し、その視線に耐えられなくなった彼女は憤慨している体を隠すでもなく「すみません、でした」と声を震わせて吐き出すと、その場から駆け出した。
当事者の一人が立ち去った事でギャラリーは退散し、又エントランスの日常が戻ってきた。修哉さんは去って行った久住さんの背中が見えなくなると小さく息を吐き、あたしを振り返る。
「嫌な思いをさせたね」
彼女が受けた仕打ちに比べれば大したことではない。あたしは首を横に振ってこう言った。
「すみません…修哉さんにこんな事をさせてしまって」
「こんな事? 俺にとっては果歩を守るのは大事な事だけど」
至極真面目な顔をして修哉さんはそう言った。けれど言った瞬間からその言葉を悔いる様に顔を顰めて横を向き「俺は何を…」と呟きが聞こえ、あたしはぐっと歯噛みした。
この人は、真に強い人だ。この人のこの部分に強く惹かれていたのだ。あたしも強く、なりたい。
暫くして修哉さんはあたしと視線を合わす事無く腰を下り踵を返した。
「修哉さんっ」
あたしが掛けた声に彼は歩みを止め、ゆっくりと振り返る。
あたしの想いを知って欲しい。此方へと向けられる視線を感じたまま、あたしは修哉さんの元へと近付いて彼を見上げた。