【16】
ガヤガヤとした騒がしい雰囲気の中に身を置くのも躊躇われて、あたし達は路地裏にある小さなバーへと場所を変えた。腕が触れ合う様な距離に彼が居る事が、嘘みたいだ。
彼がウィスキーのロックを舐めていて、さっきの店ではソフトドリンクを飲んでいたのはあたしの為だったのかと勘繰ってしまう。あたしも目の前に置かれたカクテルに手を伸ばし、喉を潤すとコースターに視線を残したまま切り出した。
「修哉さん…あたし」
「果歩」
意を決したあたしの発言を修哉さんが遮った。思わず右側に座る彼を見上げ、非難めいた視線を送ってしまう。
「ごめんは、聞かない。俺の勝手で離れたんだ、果歩は悪くない。…正直に言えば日本に戻って会社に果歩が居ないってのを聞いた時は吃驚したけど、この業界では体調崩すなんてよくある話だしね」
…其れだけが原因じゃないと、若さんに聞いていないのだろうか。
「果歩が今、元気なら其れで良い」
笑顔で其れを言うかな。
何時だってあたしを優しく包んでしまう修哉さん。あたしは何一つ悪くない、と全身で訴えている。付き合っている時は其れで良かった。相思の気持ちがあったからこそ許されるべき事で、今この現状で其れに甘んじてはいけないのだ。
「…修哉さん」
「果歩」
修哉さんはロックグラスの縁を持ち、ぐるりと回す。カランと氷が軽い音を立て、黄金色の液体が艶やかに光った。
「やり直さないか」
暫く瞬きさえも忘れ、あたしは彼の顔を見つめ続けた。彼は口に運び掛けたグラスをもう一度コースターへと戻してから、あたしに視線を向ける。
「もう一度チャンスが欲しい」
今日初めて見せた真剣な眼差しから逃れる事は出来ない。逃れてもいけないのかもしれない。あたしは自分を叱咤するかの様にぎゅっと両手を握った。
「果歩、考えて。今此処で答えを出さないで」
「しゅ」
「果歩、考えて」
「……」
言わなければ。
あたしは貴方を待てなかった、貴方から逃げた。そしてあたしの気持ちは、貴方ではない人に在るのだと。
「…もう出よう」
修哉さんはバーテンダーにチェックを申し出て支払いを済ませると先にスツールを降りる。あたしは未だ動けずに、ただ彼の背中を見ていた。彼が二年経った今でもあたしを想っていてくれた事に罪悪感を覚えた。
若さんが言う様に、彼は二年前と何ら変わらない”同僚” を演じていたのだろう。バーに来るまでの修哉さんはアルコールを摂取せず、何処か無邪気な様子を見せていてあたしを気遣わせない様にしていたのだ。
「果歩、おいで帰ろう」
修哉さんがあたしを振り返り、微笑んだ。
バーを出て彼が拾ったタクシーにあたしは押し込められ、ドアに手を掛けた修哉さんはただ一言。
「番号もアドレスも変えてない」
ただその一言だけだった。あたしは車内から彼の顔を窺うだけが精一杯だったが、それでも彼は優しく笑んであたしを見送った。走り出したタクシーの窓に額を押し当て、遠ざかる彼を追う。直ぐに見えなくなって、あたしは仕方なく前を向き直した。行先をタクシーの運転手に問われ、あたしは自宅の住所を告げた。
自宅へと帰るとリビングから出て来たパジャマ姿の母に出くわし何時もと変わらぬ声を掛けられる。
「果歩おかえり。お風呂今なら未だ温かいわよ」
「…うん…」
「なぁに果歩、貴女泣いてるの?」
その言葉を確認する様に母があたしの顔を下から覗き込んできたので、あたしは顔を違う方向へと逸らした。これでは認めているようなものではないか。
「…お風呂で流してきちゃいなさい」
母はあたしの肩を一つ叩くと、寝室のある二階へと先に上っていく。
「う…」
母に気遣われた事が恥ずかしいやら、嬉しいやら、色んな感情が沸き起こって又あたしの涙腺を緩くした。あたしは泣きながらも手摺を頼りに自室へと上がって、勉強机に突っ伏した。
『やり直さないか』
責めないばかりか、再びあたしの手を取ろうとした修哉さん。貴方にそんな風に想われる価値等無い。今のあたしが持ち合わせているのは修哉さんに対しての罪の意識でしかない。今でも変わらぬ立ち居振る舞いを見ても恋情は沸かず、逃げた事への謝罪の気持ちが募るばかり。彼の望む通り考えても考えても、申し訳ない事をした、ただ其れだけだ。
どうやって修哉さんに事実を伝えるべきか、そればかりを考えていたあたしは、大切な約束もバッグの中の携帯の存在も失念していた。
◇
硬い机の上で浅い眠りの夜を過ごし、時間を確認すると午前五時。強張る身体を解そうと階下へと下り立ち浴室に向かう。脱衣所に設けられた洗面所の鏡に映る腫れ上がった瞼と充血した目。痛々しい顔に眉根を寄せた。煙草と食べ物の匂いのついたシャツのボタンを解き、胸元で光るネックレスに鼓動が速まる。
「…っ」
あたしはシャツの袷を掴み自室へと駆け上がった。勉強机の傍に放られている通勤バッグを引き寄せ、中身を漁った。探し物の携帯はバッテリー切れを起こしていたらしく無機質その物で黒い画面の中にあたしを映し出している。充電しようにも週末以外はチャージャーを全て会社に置いてあって、この携帯は動力を得られない。
ユキさんに家に来るように言われていた筈なのに、あたしは修哉さんの事ばかり考えていた。心配しているに違いない、あたしはそう思い今度は手帳を引っ張り出しアドレスの頁を引いた。固定電話を使用しようと立ち上がり襖に手を掛けた所で「何て言うつもり?」と自問自答する。
昔の彼と二人で会ってヨリを戻さないかと言われて、と言うの?
あたしの気持ちがユキさんのものだとしても、男の人と二人で会って思慕を吐露され、ユキさんとの約束を忘れていたのだとどの口が言うの?
あたしの周囲の男性を牽制したいと妬いてくれるあの人を大切にしたいなんて想いながら、昨夜のあたしは修哉さんを最優先に考えていた。
何て説明したら何て謝ったら良いの?
普段では乗る事のない時間帯の電車は空いていて、未だ太陽の熱も控えめであたしは汗一つかかずビルのエントランスを通る事が出来た。八階のセキュリティーボックスにカードをスキャンさせ扉を開く。入って右側にパーテーションがあり、その向こうが部員数三名と言う情報システム部だ。あたしは何時もの癖で「おはようございます」と言いパーテーションを超えた。
「おはよう」
「!」
誰も居ない筈の、其処に居る筈のないユキさんがあたしのデスクで腕組みをしてあたしを見上げていた。
「えらい早い出勤やな」
「…ユキさん、」
「生きとったみたいで何よりやわ」
淡々と喋ってはいるが、彼が怒っているのは明らかだった。
「っ…」
「言い訳、聞こか」
何時も茶化してばかりの彼が冷たい表情であたしを見ていた。
其れはとてつもなく冷たい瞳。
ユキさんとあたしの間に一メートルも距離はないのに、彼がとても遠くに感じる。
「…ごめんなさい、行けなくて…」
「言い訳聞くちゅうたんや、謝れ言うてないで」
聞き慣れた関西弁も怒気を孕んでいると、まるで抉られるみたいに痛い。疾しい事は何一つないつもりだ。だから最初からあった事を話せば良い、なのに怖い。彼の放つ怒りのオーラが浮遊する空気をピリピリとした物に変えて、まるで一触即発の状況にいる様だ。
「言われへんの? 言われへん様な事しとったん?」
ユキさんはそう言うと徐にジャケットの内ポケットから携帯を取り出し何やら操作し始める。そしてその携帯をあたしに見せる様に向きを変えデスクの上に置いた。
「ごっ丁寧になぁ」
恐る恐る携帯を覗き込むと其処には一枚の画像。
「!」
タクシーを呼び止める修哉さんとその隣に立つあたしの、写真だった。
「バー・レコルトから出て来た二人、コレ自分やんな?」
誰かがバーから出て来たあたし達を隠し撮りして、ユキさんの携帯にメールを…。こんな勘違いしてもおかしくないような状況の写真を彼に送りつけるなんて!
「ユキさん、違うんだよ?!」
「何が? 自分、若村さんと飲む言うてたやんな? この人そうやないよな? 誰?」
「…」
「俺言うたやんな? 遅うなってもええからうち来いて。来いへんしコールしても出えへんし、挙句コレやろ?」
声に出して反論すれば良いものをあたしはただ頭を振った。
違う違う違う!
心で叫ぶ声は彼には届かない。あたしは声を失ってしまったみたいに、馬鹿の一つ覚えみたいに首を横に振った。
フロアの入り口でセキュリティが解除される音を双方の耳で確認し、あたしの身体は固まった。そしてユキさんは携帯を手にし立ち上がって、あたしの事を見ずに横を擦り抜けて行く。
「時間切れや」
あんなに優しく笑う人が、あんな ―― 冷酷な ―― 瞳をあたしに向けるなんて。