【15】
2014/05/29 誤字訂正しました。。。
梅雨が明け本格的な夏が近付いた頃、販売管理ソフトの試作が出来上がり若さんがうちの会社に訪れた。
ミーティングルームには若さんとあたし、そして営業部からユキさんが同席していた。実際にこのソフトを使用するのが彼等なので、ユキさんが準備されたノートパソコンの前に座る。若さんはその傍らで細かく説明をし、ユキさんもメモを取りながら使用感を確かめていた。あたしはその二人の後ろに立ち、其れを眺めている。既にINC側から提出されている成果物一覧に目を通して進捗情報は常に把握していたし、若さんが作ったものなら完璧に近いものな筈だ。
実際に使ってみないと解らないが、現時点での問題は見られず八月のお盆を過ぎた頃納品、下旬には営業部員に対して社内研修を行う事となった。そしてうちの社では九月から本格導入だ。
若さんが端末等を片付けるのを手伝っていると、今月末の社内研修に「俺とこの前の打出、二人で良いか」と訊ねられた。
「営業部が総勢二十名程で、こちらは牧野とあたしが立ち合うから大丈夫、かな」
と答えた。ユキさんには、あたしが元INC社員だった事、若さんは凄くお世話になった先輩だと話していたので堅苦しい口調には敢えてしなかった。
「了解。じゃあ改めて納品日とかはメールする。休みはいつ?」
あたしは手帳を開き、お盆を挟んだ五日間だと告げる。
「若さん、今年は休み取れるの?」
「どうだかな。仕事馬鹿の上司が居るから」
「…」
もしかしたら、其れは修哉さんなのかもしれない。本当に彼は仕事が大好きな人だった。
あたしは未だテーブルの上で、手帳に走り書きをするユキさんの背中を見た。あたしには今、ユキさんが居る。修哉さんの事を『だった』と断言出来る自分が居る。もう修哉さんをふいに思い出す事はないし、思い出したとしても胸は痛くなったりはしない。あたしの心を占めるのは、ユキさん一人なのだから。
ユキさんが居る事に気を使ってか、若さんは小声で「今日夜、飲みに行かないか」とあたしを誘う。今日はこのまま直帰コースらしい。
ユキさんの事も伝えておきたいし、丁度良いかもしれない。「行く」と返事をし、一先ずあたし達は別れた。
若さんを見送ったエレベーターホールで、隣に立つユキさんに「ちょっと良いですか?」と先程まで居たミーティングルームを指差す。彼は入室するとテーブルの上に浅く腰を掛けた。するとヒールを履いたあたしと目線が同じになった。
「若さんに飲みに誘われたんだけど、もし良かったらユキさんも行かない?」
「…何で?」
「彼氏ですって紹介したい、かな…。それともこれからも会うからそんな事言ったらやり辛いかな」
「やり辛いとかはあらへんけど、彼も俺が居たら吃驚するやろ。積もる話もあるやろうし、楽しんでき。俺今日残業やし」
「…うん、じゃぁお言葉に甘えて」
ユキさんが右手を動かし、あたしを招く。彼の長い足の間に立ったあたしの手を引き、彼は二人の距離を更に縮めた。互いの鼻が掠り、彼の匂いが色濃くなってあたしの身体がカァと熱くなる。
「…眼鏡とか萌えんな」
言語を見たりする時は眼鏡を掛けるあたしの眼鏡姿の事を言っているらしい。緊張していた身体が弛緩した。
「萌えるって…」
「大事やろ、男の妄想掻き立てんのは」
又真剣な顔をしてそんな事を言う彼の腕に手を置き、距離を取ろうとする。けれど其れは叶わず、彼の右腕があたしの腰を抱き寄せて、噛み付く様なキスをされた。薄く開いていた口に舌が入り込む。
「っん」
突然のキスに鼻から声が漏れ、職場である事が背徳心を煽り恥ずかしさの余り直ぐに彼から離れようと彼の胸を押した。其れも封じられてユキさんの舌はあたしの口腔を犯す。逃げれば追いかけられ、吸われて歯列をなぞられ、上顎を舐め上げられる。
「ふぁ…っん、は…ユ…キさ…ぁ」
キスに翻弄されたあたしの身体からすっかり力は抜けて、膝が折れそうになるとユキさんはあたしをぎゅっと抱き止めた。そして寄せられた耳にユキさんは言葉を落とす。
「遅うなっても俺んとこ来いや?」
急に雄である事を前面に押し出してくるユキさんにあたしの胸は破裂しそうだ。此処が何処であるかを忘れそうになるほど、あたしは彼に身を委ねて「行くね」と答えていた。
◇
若さんと待ち合わせたのはこの間と同じ居酒屋で、違うのはあたしの方が先にお店に到着した事だろうか。彼を待ってドリンクを頼もうかなとメニューを覗き込んだ時だった。
「よっしー、ごめん」
若さんの声に顔を上げた。「今、来たところだ」と言う為に開いた口は、言葉を失った。
「久し振り」
眉を八の字に下げた若さんの隣には、修哉さんが立っていた。衝撃の余り座席から腰を浮かせると、ふくらはぎに引っ掛かった椅子がガタンと大きな音を上げる。修哉さんはちょっと困った様に笑って
「若村に無理にね。ごめん、ちょっと顔を見たくなって」
そう言った。押しつけがましさはない、でも懐近くまで入り込んでしまう彼。
若さんも何処かバツが悪そうな顔をしていて、この対面は彼が望んでいた訳じゃないのだと思う。
「ご無沙汰しています」
あたしは頭を下げ、前の席を掌で指し示した。
家に帰ったら又仕事をするという修哉さんはウーロン茶を、若さんとあたしはウーロンハイを。修哉さんだけがそのグラスに口を付け、若さんはメニューをずっと見ていた。
「もう体調は大丈夫なの?」
「はい、元気にやってます」
「そっか。今の会社はどう? 楽しい?」
「…はい、それなりに」
修哉さんが両腕をテーブルに乗せ前屈みになってあたしに質問をしているのに、あたしは彼の顔をまともに見る事も出来なくて腿の上に乗せた両手をじっと見つめていた。こんな失礼な態度は良くないと解ってはいる。元彼と言う事実は抜きにしても、お世話になった先輩には変わりない。
「修哉さんは」
あたしは顔を上げ、出来るだけ表情を和らげて話を切り出す。
「久々の日本、どうですか?」
「会社の近くに又大きなビルが建ってて吃驚した。あと若村が俺の部下って事になったんだけど、俺をこき使うんだよ、吃驚した」
「オイ、聞き捨てならない発言だぞ」
久し振りに目の当たりにした二人のやり取りに思わず笑いが零れた。そうだった、二人はこんな関係であたしはこの位置から二人をこうして見ていたのだ。
「果歩、やっと笑った」
修哉さんはそう指摘してから視線を逸らし、壁に貼られたメニューを見て「モツ煮食いたい」と若さんに訴える。思いがけずと言った感じで口から出た『果歩』と言う単語。一瞬だったけれど修哉さんの顔に、其れをほんの少し悔いた色が見えた。あたしだってさっき当たり前の様に彼の名を呼んだ。習慣とは怖い。あたしはからからの喉を潤す為にグラスを口に運んだ。
修哉さんがアメリカで学んだ技術を若さんに話し、若さんは面白くなさそうな顔をする割りに話に食い付いている。時折、修哉さんはあたしの仕事の内容を聞く。今回の契約も売上になったと満面の笑みを浮かべ、二杯目のウーロン茶を頼んだ。
修哉さんが余りにも普通で、あたしの中の罪悪感は小さくなりつつあった。
「ちょっと」と修哉さんが言い席を立つ。彼の背中の大きさや、しゃんと伸びた背が二年前と何ら変わりなく見えた。若さんが軽い咳払いをし、彼を目で追っていたあたしの思考を呼び戻す。
「大丈夫か」
「あ…はい、修哉さんが変わらなく接してくれるから…平気、かな」
「変わらなく、か。そう見えるか?」
ウーロンハイを煽って若さんはあたしを冷たい目で見つめてきた。
「…っ」
彼のその眼差しに呼吸が苦しくなり始めて、あたしはテーブルの上から手を引き若さんから視線を逸らす。若さんは基本あたしを妹の様に大切にしてくれてはいるが、仕事仲間で唯一無二の親友も大事にしている。
修哉さんは、気遣っていてくれているのだ。
彼を待てなかったあたしを赦そうとしているのだ。
「…虫が良過ぎますね、そんなの」
瞼の奥が熱を帯びて、吐き出してはいけないものを飲み込む為に歯を食い縛る。
「頭、下げられたんだ。どうしてもお前に会いたいからって」
どんな想いでいたのだろう。どんな二年を過ごしたのだろう。どんな再会を望んだのだろう。どんなあたしを想像していたのだろう。
「首突っ込む気はないって言ったの覚えてるよな。進むにしても何にしてもお前等二人で話す必要はあるだろ」
若さんはそう言うとテーブルの上に幾らかのお金を置き、店を出て行ってしまった。暫くして、修哉さんがテーブルに笑顔で戻ってくるのを見つめながら、あたしは泣きそうになった。若さんの不在を知った時の修哉さんの瞳が珍しく不安に揺れていたから―――――。