【13】
朝、目覚めると隣に主任が居た。
彼はベッドに片肘を付いて、眠るあたしの顔を見下ろしていた、らしかった。
「っ!」
ぼんやりとしていた脳が覚醒されてあたしは掛け布団を引き上げ顔面を覆った。すると主任の笑い声。
「今更やん」
そうだけど、そうだけどもっ! と、あたしは心の中で一人騒ぎ立てる。
「顔見せえよ」
「い今は無理ですっ」
「さっきまで見とったから同じやろ」
「じゃあ、もう良いじゃないですかっ」
真面目に答えるあたしに対して大笑いを始める主任。笑いながらも彼は空いた手で布団を被ったあたしの身体をぽんぽんと叩く。
彼に背を向けて、息がし易いように顔を布団から覗かせた。その先に引っ越し業者の段ボールが一つ。そして其れの上に…
「ワイン…」
「あぁ赤やから常温で保存しといたらええかなと思うて、チェストとかあったら其処にでも置いてんねんけど未だ、そんなん買うてへんし…約束やったやろ今度飲むて」
あんな些細な、小さな約束を守ろうとしてくれている主任への信頼が募る、想いが又少し深くなる。
「コンビニ行って朝飯買ってくるけえ、シャワーでも浴びたらええよ」
彼がそう言って布団の中から出て行くと、一瞬涼やかな空気があたしの素肌を霞めた。クローゼットを開けたらしい音やフローリングの上を歩く音、そして玄関のドアが閉まり施錠の音。一連の音を確認してあたしは布団を剥ぎ、身体を起こした。ベランダに面したチャコールグレーのカーテンのドレープが僅かに開かれていて採光を取り入れた寝室。…寝室。
あたし…その主任と…。
昨夜の事が思い出されてあたしは布団を引っ張り、身体を再びベッドに沈め恥ずかしさに悶えた。
声とか、吐息だとか、色っぽい表情とか、落とされた言葉とか、全てを覚えてる。胸がきゅっとなり鼓動が速まった。
出逢って未だ三ヶ月足らずで、二人で会ったのだってそう多くは無い。けれど、その数少ないやり取りの中であたし達は互いに何かを感じ合った。恋心を育むなんてすっ飛ばして、主任の隣に居る事が心地良過ぎて、あたしにしては『恋情』に気付くのが早かった。そう……あたしは、落ちたのだ。紛れもなく恋に落ちたのだ。
『好きや』
昨夜、耳元で主任が囁いた。その言葉を聞いた途端、驚きと感動が綯い交ぜになり感極まって眦から涙が零れる。其れを唇で舐め取った主任は『泣くなや』ってあたしをあやした。恋をしたのが初めてではないのに、通じ合えた事が極上の幸せに思えた。
シャワーを浴び、彼が用意してくれていた彼の服を身に付ける。ロングスリーブのTシャツにダボダボのコットンパンツ。ソファに座りながらあたしは携帯を取り出し、時間を確認すると八時をちょっと過ぎた頃だった。土曜日だ、これ位の寝坊は許容範囲だろう。メールのアイコンをタップすると、シバからのメールだ。
「…シバ」
思わずそう呟いていた。
幸福感に包まれていたあたしの心に暗い影が差し、恐る恐る彼女の文章に目を通す……あたしは
「…は?」
と単語を発し、呆然と添付された写真を見た。
タイトル、彼氏が出来ました。そしてシバと、昨日の食事会に参加していた神崎、さんと言っただろうか ―― 主任の隣に座っていた男性 ―― が頬を寄せ合って写真に納まっていた。
メールの内容は酔っている時に打ったのか、デコメと文章が合っていない始末。シバのメールはこうだ。あれから二次会に流れて神崎さんと良い雰囲気になって、告白されて付き合う事になったと。凄い優しいし、話してて楽しかった。主任も王子様で素敵だったけど、あれは目の保養だね! と締め括られていた。
あたしは脱力し、幸せそうな顔をした二人を眺め小さく笑った。
「何一人で笑っとんの。めっちゃこわっ」
「わっ」
急に掛けられた声にあたしはソファの上で跳ねる程驚いた。何時の間にやら帰宅したらしい主任が、あたしの携帯を覗き込んでいた。
「あ、神崎君やん。あれ、これ昨夜の…?」
「うん…シバと神崎さん、付き合う事になったんだって」
「へぇやりよんなぁ神崎君」
主任の言い草があんまり素っ気なくて、シバが昨日の食事会の時点では主任ばかり意識していた事に彼は気付いた筈なのになと複雑な思いで彼を見上げた。あたしの視線を感じているであろうに、彼はソファにどかりと座るとビニール袋の中からサンドイッチやパン、おにぎりをローテーブルに並べる。
「今、湯沸かすわ」
「あ、それ位あたしやりますよ主任」
「…あかん」
「え、でもコーヒー位、あたしが」
「ちゃうって。”主任” はあかん言うてんの」
あたしは彼が座る方に出来る限り身体を向け、彼の言わんとする事を理解する。あぁ…名前…かな。
「和田、さん?」
彼はずっこけた様な仕草をし、顔を歪めて「もっとあかんやろ」と言った。…一度だって口にした事はないが彼の名前が『幸成』だとは知っている。けれど今迄、役職名でしか呼んだ事が無い。それが急に一夜明けて「幸成さん」はハードルが高すぎると言うものだ。恥ずかしくて口籠っていると、主任はソファの上に乗せた左膝を抱えて焦れた表情をする。
「はよ言えや、名前位。まさか知らんとか言わんやろな自分」
「…主任だって、あたしの事”自分自分” って言うじゃないですか。芳野って呼んでくれた事だって数える程ですよ?!」
思わず思っていた事を吐き出し、彼を下から見上げる様にめねつけると
「果歩」
と、主任はあっさりあたしの名を呼んだ。そうも簡単に名を呼ばれ、あたしは照れ臭くて主任の視線から逃れる様に前を向き直し頭を下げる。
「かーほ」
その後もずっと彼はあたしの名前を呼び続ける。何度も何度も、イントネーションを変えたり声のトーンを変えたり……何だかドキドキしていたのも薄れて、もういい加減に止めて欲しくてやけくそに
「幸成さん!」
と口走っていた。
彼の手が此方へと伸びてきて濡れた髪をそっと耳に掛けた。きっとあたしの顔も耳も真っ赤だろう。
「果歩こっち向き」
優しい声色で彼があたしを誘う。子供みたいなやり取りに恥ずかしさを覚えながら唇を食み、ゆっくりと彼の方へと首を動かす。
彼の顔が「幸せ」だと雄弁に語り、何時か見たあのふわりとした笑顔に又会えた。
そうだ、あたしは彼のこの笑顔にやられたのだ。
「幸成、さん」
「うん、ええな、其れ」
彼の笑顔はあたしを幸せにしてくれる。
◇
敢えて公言はしないものの、会社で会えば立ち止まり仕事に支障が無い程度の立ち話をし、休日のデートも変装はしないし、会社帰りに待ち合わせをして食事もする。だから彼とあたしの関係が噂されるのは当然の事と言えた。彼と付き合えば、彼を想う女性の嫉妬を買うのだろうと言う懸念は勿論有った。社内で受ける不躾な視線をやり過ごす。社員食堂では事情を知ったシバがその可愛い顔で周りの女性を威嚇した。
「二人がお似合いだからって僻んでるだけなんだからね?」
「大丈夫よ、彼女達だって大人だもの。何処かの裏とかに呼び出したりはしないでしょ?」
あたしは塩分控えめのお味噌汁を啜りながら、シバを横目に見る。
「…何かさ、基樹君曰く和田主任って本当に王子みたいなエレガントな人なんだって? その王子とさ、我が社きってのクールビューティが付き合うってどんな感じなの? 基樹君と想像出来ないって何時もネタにさせて貰ってるんだけど」
そう訴えるシバの顔は真剣そのものだ。あたしのクールビューティと言う形容詞は如何なものかと常々思う。あたしは仕事柄、行動範囲も狭くデスクに座り頭を使ってる事が多いから、あたしがリラックスしている姿を見掛ける人が少ないだけだ。が、ユキさん ―― 結局この呼び方に落ち着いた ―― の王子は…。
あたしは日曜日のたこ焼きパーティの記憶が蘇って吹き出した。彼がたこ焼きを食べたいと言うから、大阪では一家に一台と噂のたこ焼き器を電化店で購入し作る事になったのだが、食材の買い出し時点で口煩い。タコがああだ、粉がああだ、あんなに熱くたこ焼きを作る人は見た事が無い。
「あー何笑ってるのぉ?」
「ふふ、内緒。ほらシバ、早く食べないと」
「あっホント!」
王子に憧れていたシバとは相変わらず仲が良い。
あの食事会の後、あたしはユキさんと付き合う事になったと告白をした。彼の素を知った事が始まりだったとは言わず、一緒に仕事をする機会が増えてと都合の良いようには話したけれど。その話を聞いたシバは驚いていたが「やっぱり」と言った。
「主任、ちらちら果歩の事見てたし。果歩が帰った後、電話とか言ってレストラン出たの。でも戻ってきたら息切らしてるし、電話しに何処まで行ったのよって思ったもん」
そんな嬉しい事をシバは教えてくれた。あの時あたしが気付かなかっただけで、彼はあたしの事を随分と気にしていてくれたのだと心が温かくなった。勿論、あたしがこの事実を知った事を彼に言う気はない。言わぬが花というものだ。
社食を出てエレベーターを待つあたし達の背後から、まるで周りに聞かせる様に女性の声がはっきりと聞こえた。
「良いわよね、ちょっとパソコンが出来る位で」
その声に振り返る人も居たが、あたしは沈黙しエレベーターの到着を待つ。妬みの声に心が痛まない訳じゃない。でも、彼のあの笑顔を思い浮かべるだけであたしはこんなにも幸福感に包まれる。陳腐な言い草かもしれないが、胸がふわっと温かくなるのだ。
そしてあたしは、想いのある指で触れられる喜びを感じている。
あたしは彼を、知っている。