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Call me  作者: 壬生一葉
第1章
12/45

【12】


ドアハンドルを押して手前へと引き扉を開く。今日の此れはパンドラの箱なのかもしれない。開けてはならないパンドラの箱、あらゆる悪を閉じ込めた黄金の箱。…もし主任にそんな事を言ったら『誰が悪やねん』って笑って突っ込んできそうだ。けど最後に残ったのが『希望』なのなら、あたしも其れを持って良いと言う事なのか。


灯りの点らない室内は暗く、冷蔵庫の動作音だけが聞こえてきた。記憶を頼りに電気を点けると、この前と同じ様にソファとローテーブルが見える。主の居ないこの部屋で、彼の匂いを感じ取った。フレグランスとは違う、彼が放つ匂い。解っていて主任の部屋に来た癖に、急にリアルさを帯びて来たこの現状。


どうしよう…主任も直ぐ帰るなんて言ってたけど、彼が帰ってきたらどうしよう…。あぁ何で部屋に入っちゃったんだろう。鍵は一本しかないって主任は言ったけど、マンションのエントランスにある集合ポストに鍵を落とせば良かったのでは? あぁどうしよう。


妙にそわそわとし始めたあたしは通勤バッグを手にしたまま、ソファの周りを一周していた。テレビでもあれば徐に其れを頼る所だが、相変わらずテレビもないからどうして良いか判らない。そうだ、取り敢えずお水でも貰おうかな。それからポストに鍵を…。


キッチンへと行き伏せられたグラスを起こした後「失礼します」と言って冷蔵庫を開く。ペットボトルを見つけて引っ張り出そうとした時、見覚えのあるボトルが目に入った。引越し祝いであたしが買った白ワインだ。冷蔵庫の中に何も入っていないせいか、触れずとも適温に冷やされている事が一目瞭然だ。其れを見つめたままペットボトルを取り上げドアを閉める。赤ワインはどうしたのだろう…飲んだのだろうか…。

こぽっと音を立てミネラルウォーターはグラスに半分ほど収まった。

此れを飲んだら帰ろう。もしかして主任はあれから二次会へ行ったのかもしれないのだし…。

あたしはキッチンカウンターを背にし、グラスを口に運ぶ。

「…冷たい」

ちょっとずつちょっとずつ、水を喉に流した。冷たいから、一気に飲むと身体が冷えてしまうから。飲み終わったら、帰るのだ。


あたしは余り減らないグラスの中を覗き込み、苦い笑いを零す。


この程度の水を飲み干すのに一体あたしはどれ程の時間を費やす気なのだろう。早く帰って来て欲しいと思い、帰って来た主任と何を話せば良いのかと悩み、ワインの行方を問い詰めてしまいそうな自分が怖い。様々な思いを巡らせた後あたしは意を決してグラスを一気に空にした。

今日は帰ろう。

自覚したばかりの気持ちのコントロールは難しい。


グラスを水洗いして元在った場所へ伏せると、あたしはジャケットのポケットからハンカチを取り出して手を拭いた。バッグを手にしリビングに戻ると、ローテーブルに置いておいたこの部屋の鍵を複雑な思いで取り上げる。電気を消して壁伝いに歩き、辿り着いた玄関。パンプスに足を入れドアに手を掛けようとしたその瞬間―――――其方側へと、ドアが開きあたしの右手が空を切る。

「あ?」

部屋の主、和田主任が息を切らし其処に立っていた。





「直ぐ帰りよるて言うたやんけ、何帰ろうとしてんねん」

半ば無理に座らされたソファの背凭れに主任が脱いだジャケットが投げつけられる。主任は光沢のあるブルーのネクタイを片手で緩めながら、切れた息を整える様に口を開け呼吸を続けていた。袖口のボタンを外すと一捲りし、汗に濡れた髪を掻き上げる。何時もは見える事のない額が現れ、又主任の違う一面を目にした事にあたしは慌てて顔を俯けた。

「人が走って帰って来たっちゅうのに」

主任がキッチンへと移動し冷蔵庫を開けたのを背中越しで感じた。其れはあたしもさっきやった事。こぽっと、液体が音を立てた。

「…食事会とか、もう誘うなや? 嫌やねん、ああゆうの」

「…うん…」

あたしも嫌だったの。あたしの知らない主任を見る事に耐えられなかったの、と言えたらどんなに良いか。

「待っとって着替えてくる、それからタクシー呼ぶけ」

「…え?」

「知っとるやろうけど車無いし送れへんから、タクシーで自分とこまで送ってくわ」

「え、ちょっと待って、何で送るって」

あたしはソファーの背に片腕を乗せ、キッチンに立つ彼を振り返る。彼はシャツをスラックスから引き出すと片手で器用にシャツのボタンを外していた。あたしが座るソファの横を素通りし、寝室の扉を開けた。開けっぱなしの扉の向こうから彼の声が返ってくる。

「自分、体調悪いんやろ?」


食事会の間、彼はあたしを気にも留めていない様子だった。共有の秘密があるだけで、其れ以上は無いのだと思い知らされてちくちくと胸が痛んだ。体調不良ではあるのかもしれないが、メンタルの弱さが大部分を占めていて彼にこんなに気遣わせる程じゃない。


「電車で帰れない程じゃないから…あ、あのあたし帰りますね。未だ間に合うと思うし」

あたしはバッグを勢いよく掴み上げソファを立ち上がった。

「ちょぉ待てやっ…いってっ」

大きな音がし、あたしは彼を振り返る。すると彼は腕だけ通したカットソーを首に掛けたままの状態で、右足を不自然に上げながらあたしを追ってきた。主任がトップスの裾をあるべき位置へと下げるまでの間、美しいと言える身体のラインと程良い筋肉を目に留めてしまい、あたしはパッと顔を逸らした。


「っ、小指角ぶつけてしもたやないけっ…送ってくちゅうとんのに何逃げ帰ろうとしとんの自分」

「逃げ帰るなんて…今、帰りますって言ったじゃないですか」

「せやから体調悪いねんから一人で帰せるかっちゅうに」

彼はあたしをソファへと座らせようと左手に持ったバッグを取り上げ、左腕を掴んだ。指先から伝わる体温に、あたしの頭の中では彼が先程見せた肉体とリンクしてしまい、羞恥の極みだ。思わず彼の腕を振り払うように左腕を自分の身体へと強く引き寄せる。

「頼んでない、あた、あたしは一人で帰れますっ」

そう言った次の瞬間、主任は傷ついた顔をした。そんな表情をさせてしまった事を後悔しても、後の祭りだ。一分とてこの場所には居られないと、あたしは彼の手からバッグを取り戻し玄関に向かって駆け出した。


何をしに此処にやって来たの、何を期待したの、あたしは自分を嘲りながらパンプスを履こうとした。気が動転し過ぎていてパンプスは上手く足に納まらず、其処に大きな足音が聞こえたのであたしは更に慌てた。

「芳野っ」

「やっ」

やっと履く事の出来たパンプスで一歩踏み出してドアのハンドルに手を掛けた。が、そのドアを開け放つ事は出来なかった。

あたしの上半身が主任の両腕に囲まれ捕まった。グッと後方へ身体が引かれる。あたしの背中に彼の身体が押し当てられるのと同時に、右頬に彼の頬が触れた。

「っ!」

抱き締められているのだと理解すると、抗うよりも衝撃的過ぎて身体が強張ったあたしは息だけを呑む。


「無理、限界や」


そんな言葉と共に更に身体を強く抱き締められた。


 ―――何がどうしてこうなったの?



「俺にしろ」

あたしの頭は混乱していて彼の言わんとする事を理解出来ずに、ただ身体を固くし聞いていた。そんなあたしに痺れを切らしたのか彼は、あたしの身体を反転させると壁に押し付けた。掴まれた両腕だけやけにリアルに痛くて、それでも「痛い」の一言も言えず彼の目を窺うように見上げる。

今迄見た事のない真剣な彼の表情に、あたしはまるで熱に浮かされた様に言葉を失くした。



「断ったらあかんで」



彼は右手をあたしの左頬に添えて、ほんの少し上向かせるとその端正な顔をあたしへと近付けてくる。この先にあるものが何であるかは解ってる。

あたしの唇の数センチ先で主任は、近付いた身体を静止させた。あたしは主任のその口元に視線を落とし、その先を ―――待った。


頬に触れていた主任の手が耳へと移動し大きな手で首筋をくっと掴まれた後、唇を掬われた。



キスはどんどん熱を帯びて、角度を変え何度も何度も交わされる。その内それじゃ物足りなくて、どちらからともなく舌を絡ませ貪欲に求め合った。


「…っん…ふ…」


名残惜しむ様に距離を取った主任が醸し出す雰囲気は扇情的で、あたしは目が離せず赤く艶めいた唇に震える指先で触れてみる。

確かに触れた体温が、あたしの末端から流れ込んでじわりじわりと身体が熱くなった。





あたしは、この人が好きなのだ。







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