【11】
あたしは参加したくなかったのだが、シバがどうしてもと譲らず名ばかりの幹事と言う事でこの食事会に同席していた。
このカジュアルなイタリアンレストランを選んだのはシバだった。シバがこの食事会に誘ったのは、彼女の同期で管財課在籍の大貫さんと言った。セルフレームの眼鏡が少し冷たそうな印象を与えていたけれど、笑うと笑窪が現れて愛らしい女性に見える。話し方も知的であたしは好印象だったが、男性陣の眼はシバに釘付けだ。シバは、ミディアムヘアに似合うヘアアクセを付け優しいピンク色のニットのアンサンブル、オフホワイトのフレアースカートと言う服装で、彼女の持つ愛らしさを存分に発揮している。テーブルを挟んだ向こうに座る男性二人は彼女が何かを喋る度にニコニコと受け答えをしていた。
シバの視線は、彼女の丁度目の前に座る和田主任ばかりを追っているのだけれど。
あたしはシャンパングラスを手にとって其れを口に運んだ。よく冷えて程良い炭酸が喉を落ちていく。味は残念ながら判らない。さっきから何を食べても無味に思えて、自分が何を食しているのかさえ解らない位だ。彼らの話も何処か上の空で聞いていた。
主任は標準語を操り、シバや大貫さんだけでなく営業部の後輩である二人の男性にも話を振り、巧みに場を盛り上げている。シバの興味が明らかに自分にある事も理解している様だ。勿論、あたしに対してのフォローも忘れていないが其れは余りにも素っ気なく、普段の彼を知っているだけに冷たくあしらわれている様にさえ思えた。そんな事を思い、何て勝手な事をと自戒する。
あたしはこの場に確実に存在している筈なのに、この場を客観視している錯覚に陥っていた。
「芳野さん?」
目の前の男性が、あたしの前に置かれていたワイングラスにボトルを傾けてそう訊ねてきた。あたしは彼の顔を見た後、このテーブルを見回した。それぞれのグラスには赤ワインが注がれ、皆の注目を集めている事にやっと気が付いた。きっと目の前の彼は何度かあたしの名を呼んだに違いない。
ワイングラスを満たす赤。主任と”今度” 飲もうと言った赤。
「あ…ごめんなさい」
あたしはそう謝って右手を伸ばしワイングラスに蓋をする様に手を翳した。
「赤、駄目なの? じゃぁ白、頼む?」
そうではない。そうではないのだ。あたしは彼の気遣いに申し訳なく思いながら小さく頭を振る。
「すみません、ワインはちょっと」
自分で何を言っているのだと、自覚は有る。”今度” など有りはしないかもしれないのに、赤を飲むのはワインを飲むのは、彼と二人が良いと望んでいるあたしが居た。
静まり返った場の空気を変えるかのようにシバが努めて明るく
「果歩、疲れてるのかな? ペリエでも貰う?」
と大貫さんを挟んだ向こうから笑顔を投げ掛けてくれる。あたしは無理に笑った顔を作り出して「そうしようかな」と言い、ボトルをテーブルに置いた目の前に座る彼には気遣いに対するお礼を言った。
主任の顔を見る事は出来なかった。
シバの独壇場の様な食事会で、隣に座る大貫さんがあたしの方を向き左手で口元を隠すと「トイレ」と小声で言った。あたしも少し息抜きをしたくなってシバに断り大貫さんの後を追う。
白を基調としたレストルームは、パウダールームも併設されていた。用を済ませた大貫さんが、鏡の前に立つあたしの姿に一瞬驚いた様子で
「芳野さんっ、お疲れ様です。シバちゃん、主任と盛り上がってるみたいで良かったですね」
と言った。
「うん…そう、だね」
あたしは鏡の中のあたしを見つめる。今週は特に仕事が忙しかった訳でもないし、今日だって定時で上がれたのに顔には疲れが滲み出ている。
「鈴江さん、芳野さんの事狙ってるんじゃないですか?」
「え? スズエさん?」
「あ、やだ目の前に座ってた男性ですよ。名前忘れちゃったんですか?」
忘れたと言うか、頭の片隅にも残っていなかった。曖昧に笑うあたしを、大貫さんは「お疲れですね」と眉を下げ心配をしてくれる。
「この後シバちゃんはきっと主任誘って次行くだろうし。あたしの前に座った神崎さんなんかシバちゃん目当てだったから可哀想だけど引き下がるだろうし、鈴江さんには悪いけど、芳野さんはもう帰っても大丈夫じゃないですか?」
「大貫さんは?」
「適当に帰りますよ。あたし結構要領良いので」
ハキハキとした受け答えをする彼女がとても、頼もしく思えた。
「じゃぁ…申し訳ないんだけど帰ろうかな」
「どうぞどうぞ。けど意外でした、芳野さんてもっと男慣れしてる人かと思ってました」
「え?」
突拍子のない事を言われ、あたしは口を開けた状態のまま彼女を凝視した。すると彼女は慌てて手を振る。
「変な意味じゃないです。芳野さん、綺麗でしょ、でパソコンとか簡単に弄れちゃうし恰好良いでしょ。モテるから、男の人への対応とかも慣れてるのかなって」
「モテない、ですよ、あたし」
謙遜ではない。大学が情報処理に居たから周囲は男性ばかりだったが、彼らからするとマシンを弄る女は可愛くないのだとか。
「シバちゃんが芳野さん、あぁ見えて奥手なのって言ってたのが解りました。鈴江さんなんか、そのギャップに参っちゃったって感じなのかな?」
彼女はそう一人納得してクスクスと笑いレストルームの扉を押し開く。あたしは彼女の妄想に首を傾げながら、後に続いた。
テーブルに戻ると大貫さんが、シバや主任に事情を話しあたしは先に帰らせて貰う事になった。申し訳ないと思ったが、この居心地の悪さを打破する事を思えば気は安らぐ。
「芳野さん、俺送っていくよ」
そう言ったのは、先程あたしにワインを勧めていた彼だ。スズエさん、なのだろう。
「駅、直ぐ近くなので大丈夫です」
あたしは、主任だけなるべく視界に入れない様にと器用な事をやってのけて、頭を下げるとレストランを後にした。
「はぁ」
出たのは大きな溜め息だった。
良い人ぶってシバと主任を引き合わせておいて、そうした事を苦痛に感じるなんて…良い歳して何やってるのかな、あたし。
駅に向かう迄はそう長い距離ではない。酔っていた訳ではないのだが、梅雨入りをした割に湿度は低く夜風が心地良くてあたしは其れを楽しむかの様にゆっくりと歩を進めた。
「なぁ!」
突然掴まれた左肩にあたしは思わず身を縮め声のした後方を振り返る。
「…しゅ…に……」
其処に居たのは和田主任で、どうして此処に居るのかと疑問符を浮かべあたしは彼を見上げた。
「手、出しいよ」
又この人は何を突然…そんな風に思っていたら彼はその時間さえも勿体無いと言った体で、あたしの右手首を掴み掌を上に向かせるとその上に何かを落とした。あたしは其れが何であるのかを確かめようと視線を落としたのだが彼はあたしの指をぎゅっと折り曲げ、其れを包んでしまう。
「俺んとこ行って待っとって、俺も直ぐ帰りよる」
「…え?」
「ええか、俺んちやぞ? それ一本しか無いねんからな? 自分が開けへんと俺、野宿すんねんかんな?」
「は?」
「ええな!」
主任は勝手に念を押すだけ押して、踵を返すとあっという間にあたしの目の前から居なくなっていた。あたしの脳内では思考力がバグを起こしている。主任の大きな手で折り曲げられたあたしの指。主任の言い草から、この中身が何であるかの予想は付いた。
「…主任」
あたしは其れを確証へと変える為に、その形を確かめる様に一度握り締めた後指を解く。
其れは、鍵で―――――。
もう一度鍵を包み込むように握り、胸に押し当てる。
「良い…訳、ないじゃない」
期待をしてしまう。コレが『特別』じゃなかったら、何だと言うの?
彼のテリトリーに囲われる事を嬉しく想う。
彼の笑顔に鼓動が速くなる。想う度に胸が苦しくなる。
コレが『恋』でなければ何だと、言うの?