【10】
ワインを開けようとしたらワインオープナーが無い事に気付き、お互いに悪態を吐き合って終いには大笑いした。そして主任は言った。
「今度用意しとくから」
”今度” あたしは又主任の部屋に来て今日買ったワインを飲むのだろうか。彼のその何気ない一言にあたしの胸がじわりと熱くなるのを感じずには居られなかった。
結局は冷蔵庫に冷えていたビールで乾杯をする事にし、三人掛けのソファに少し離れて腰掛けたあたし達はビールを注いだグラスを軽く合わせた。
「これ美味しい」
家では殆ど飲む事のないあたしは缶ビールのラベルを見ようと片手で缶を回した。
「自分ビールも飲めるんや? 飲みに行くと何時もウーロンハイとか渋いのん飲んでるやん」
「ビールはお腹がいっぱいになるからあんまり飲まないだけで」
「そうなんや。じゃあドイツビールが美味い店があんねんて、今度一緒に行こうや」
あたしはサーモンの乗ったグリーンサラダに伸ばし掛けた手を止め彼を見る。彼もグラスの縁に口を付けた状態であたしを見ていた。
「主任て友達居ないんですか?」
一瞬の沈黙の後、主任がグラスをテーブルの上に置いてゲラゲラと笑い出す。そんなに笑う様な事は言ってない。寧ろ大変失礼な発言だったと思う。あたしは少し口を尖らせながら、笑い続ける彼を不愉快な気持ちで見つめた。
ようやく笑いを収めた彼が言った事はこうだ。
「何真面目くさった顔して、そんな質問してんねん!」
聞こえはしなかったが彼の顔があたしを『阿保か』と言っている気がして、あたしが抱いた不愉快な気持ちに拍車を掛けた。
「だって、幾ら素を出せるのがあたしだけだからって、他の人と引越し祝いとかドイツビールとか行ったら良いじゃないですかっ」
まさかの反撃に主任は虚を突かれた顔をした後、視線をテーブルに戻しビールの入ったグラスを手にした。そしてちょっとだけ笑う。あたしには其れが自嘲的な笑みに映った。
「そうか…他の奴とか…全然思い付かへんかったな」
勢いを付けてビールを煽り空になったグラスを覗き込む主任は、何事かを考えた後下方からあたしを見上げる。
「自分と一緒におんのが楽しいから、他の奴と何かとか何処か行くとか思い付かへんかった」
彼の台詞にあたしはカッと身体を熱くした。甘い言葉でもないのに、其れは自分を『特別』だと言われてるのに等しく思えて顔が火照る。
「迷惑? 俺と一緒におんの迷惑?」
狡いよ、主任そんな質問は。じわじわと熱が込み上げてやけに喉が渇いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
主任はグラスをテーブルに戻すと、ソファに保たれていたあたし達の一定の距離を縮めてきた。彼の体重でソファが沈み、あたしの身体が少し右側へと傾いたので余計に焦りが募る。
「俺とおんの迷惑?」
余りにも近過ぎて動悸が激しい。あたしは左側にあるアームレストぎりぎりまで身体をずらして彼との距離を作ろうとした。限られたスペースで其れは直ぐに限界となって、主任の右腕があたしの腰を支えているアームレストへと伸ばされる。左腕はソファの背凭れへと回され、あたしはしっかりと囲い込まれていたが最後の足掻きとばかりに上体を後方へと逸らせた。
「主任、ちか…」
「芳野」
「っ…」
ココで名前とか呼ぶなんて。彼の吐息があたしに掛かる程に接近し、彼の体温さえ感じ取れる程だ。恥ずかしさがピークに達したあたしは
「あの、秘書課の人! えっと…中村さんとかシバとか、他にも主任と食事とか行きたい人いっぱい居るからっ」
そんな事を叫んでいた。
「質問の答えになってへんで」
主任は顔をグッとあたしに近付け、右耳にそう囁いた。彼の声にゾクリと身体が震える。首を竦めたあたしの数センチ先に主任の長い睫毛が見えた。綺麗な肌やスッとした輪郭、鼻梁を次々に目で捉える。
主任の整った顔立ちの直視はこれ以上耐えられず、思わずぎゅっと瞑った目を両手で覆い顎を引いた。
暫くの沈黙の後ソファが揺れ、あたしの前から熱が薄れて行くのを感じた。障壁を取り去ってそっと目を開けると、主任は太腿に右肘を立て、その大きな手に顎を乗せると此方を見る。つい先程迄感じていた色香の様なものはなく、かと言って冗談を言い出しそうでもなく、少しの戸惑いが見える。
「…あかん。苛めたった」
「…」
「ビール持ってくるわ」
ふいっと逸らされた視線に、一抹の寂しさを覚えたあたしは自分でも思いがけず彼の手を掴んでいた。
「……迷惑、じゃ、ないですよ」
手を掴んだだけじゃなく、そう言っていた。
自分でも、どうして彼に手を伸ばしたのか、どうして慌ててそう口にしていたのか、よく解らない。
けれど、見上げていた主任の顔がみるみる破顔一笑して、”どうして” なんて思う必要は何処にも無くなった気がした。
「ほな行こな」
彼が嬉しそうだから、あたしも嬉しくなって、あたしがそう答えるのが必然であったかの様に思えた。
冷やしたビールは限られていて「コンビニで買ってこようか」とあたしは提案したのだが、彼はあたしを送る気でいるらしく「水でええわ」と冷蔵庫からペットボトルを出してきた。
主任はやっぱり変わってる。
マンションに来いと強引に誘い、ワインを買ってこいと横柄な態度を取る。けれどはなから飲んだあたしを送る気でいた。あたしに対する彼の対応は、くすぐったい。強引なのも我慢出来ない程のものではない。彼に振り回されつつも、その先にある彼の温かみも知ってしまった。あたしの中の『煙草臭い王子』と言うイメージは当に無くなっている。好意を、抱いている。
じゃぁ主任は? 少なからずあたしに好意を持っている?
持っている、としたら、どうなの? あたしは恋をするの? 何時か冷めてしまうかもしれない恋を、又するの?
修哉さんがあたしの前から立ち去っていく姿を思い返さずには居られなかった。
◇
「果歩、聞いたわよ!」
朝、出勤しエントランスを歩いているとシバに珍しく出会う。彼女は大抵、あたしよりも早くに出勤し幾つもの新聞に目を通したりと忙しいのだ。
「和田主任と一緒に仕事するんだって?」
彼の名前が出ただけなのに緊張が走り、あたしは動揺を悟られまいと簡単にソフトの発注に関して関わりを持っている旨を話した。シバは羨望の眼差しを此方に向けた後、手を合わせあたしを拝んでくる。
「食事会とか、お願いっ!」
シバが当初より和田主任の事を気に留めていたのをあたしは知っていたが、色恋等あたしには関係のない事と決めつけていた。けれど情勢は変わってしまった。はっきりと言えるのは、あたしは彼女に対して、主任とあたしが二人っきりで出掛けたり、飲んだりする仲だと告白しておらずフェアではないと言う事だ。
「シバ…」
シバが何時までもあたしに頭を下げる光景を社員達がチラチラと見ている。後ろめたい気持ちも手伝ってあたしは「言ってみるよ」と答えてしまったのだ。
終業後デスクに座っていたあたしは、携帯を取り上げてメール作成画面を立ち上げていた。ただ食事に誘うだけの事なのに気が進まない。
「芳野さん、眉間の皺凄いっスよ?」
帰り支度を整えた牧野があたしを見下ろしてそんな事を言った。それでもあたしはその表情を崩すことなく「お疲れ様」と彼を見送って、辺りを見回した。情報には既に人は居ないがパーテーションの向こうの総務部の面々が未だ残業中らしい。あたしは逡巡した後、IDカードを首に掛けフロアを出た。
非常階段へ繋がるドアを開け、其処に体を滑り込ませる。空調のない階段は冷やりとし、その寒さが弥が上にも緊張感を高まらせた。携帯の電話帳を開き彼の名前を呼び出すと、思い切ってタップする。
ツーコールで相手の彼は電話口に出た。
『電話なんて、どないしてん?』
からかい気味の関西弁。電話の向こうでは電車が通過する音が聞こえ、彼が外に居る事にあたしは胸を撫で下ろす。
「お疲れ様です。今話しても大丈夫ですか?」
『ええで? 今、社に戻るとこやねんけど、自分何処におるん?』
「…会社、です」
『ふーん、そうなんや、で何?』
今度、何人かで一緒にご飯とかどうですか? とあたしは主任に訊ねていた。たったそれだけを言うのに、あたしは訳も無く壁に手を触れたり、上階を見上げたりと落ち着いて居られなかった。
『…断ったらあかんの?』
そんな風に返されるなんて思いもしなかったからあたしは焦る。「無理だ」と彼にはっきり言われてしまえば、そのままシバに其れを伝えるだけで良かった。なのに彼はあたしに決断を委ねている。彼は恐らくあたしの言うがままの返事を返すだろう。
今朝の頭を下げたシバの姿が脳裏に浮かんだ。そして…胸に秘めるこの想いの存在を否定し切れない癖に、その想いが色付く事なく薄れていく方が賢明なのではないかと言う思いも抱いている。
あたしは壁に触れていた指先にぐっと力を入れて深く息を吐き出した後、極力軽い雰囲気で彼に答える。
「秘書課の子と食事ですよ? 声掛けたら幾らでも男性社員来ちゃうんじゃないですかね?」
『…解った。何人集めたらええの?』
そう答えてくれて喜んで良い筈なのに、あたしは冷たい壁に額を押し当て唇をきつく結んでいた。