四章
第四章
微睡み、実体の存在しない意識の海にたゆたい、自身を外側から知覚するその感覚。そこは冷たく、そして、寂しかった。闇の雫と光の螺旋が交じり合い溶け込んでゆく。それを感じている人間がゼノだと言う事に気が付く。
………ここは。
思考は周囲に煩雑に広がり、鳴り響いてゆく。平衡感覚と次元感覚も孕まない場所、何処においても何処が無い矛盾する有り得ない世界。時間さえ概念として存在を赦されない、閉鎖した世界、それでも、何かがゼノの視界、脳裏、心、魂にそれが溢れだした。
聞こえてくるのは喧騒、人が密集し、意思を伝え合う為に発声した結果。何処か見覚えのある街、古びた石造りの建物、家屋が並び、それでも人の息づきが残る、生きた都市。人々が独特の衣のような装いで行き交い、活気に満ちた営みを繰り広げている。ゼノの記憶とは人も文化も異なるが、その一日を誰もが暮らすという点では変わらない。泥まみれになっても、入り組んだ街を走り回り、遊戯を満面の笑みで続ける子供達、食料、物品を商う人々の連なりと、それに交渉する人々から賑わう市場、流水が駆け落ちる瀑布を背景にし、管楽器、弦楽器、打楽器が紡ぎ出す、五感を刺激する音に沿い合わせる踊り子達。それを見物する老若男女。誰もが、生きている。
………古代のヴィーズか。
それが、答えというように、視界が変化し続け、段々と行き交う人々の数が減りだし、皆、一様に生気を失った顔になっていく。建物、家屋は音を立てるように老朽し、存在を失ってゆく。
都市に流行り病の猛威が襲った。古代の進んだ技術、それでも、治療方法が見つからない。都市には親類を失う悲しみと、病に蝕まれていく恐怖、救いが無い絶望が溢れた。都市には何時しか人の数より墓地の数が多くなっていった。都市の隆盛は去り、残すのは一握りの人間。病気に抗う体力が無い子供、老人が真っ先に数を減らし、子供は一人だけになった。
ヴィーズの一族は集まり、滅亡の危機に瀕して、どうすれば助かるかを話し合った。助かる道は一つあった、初めからあった。だが、それは、一族全てを家族、大事にするヴィーズという種族にとっては、禁忌と呼ぶべき手であった。病気の治療法が見つからぬ、流行り病の初期、世界の君主たるバベリア王、超絶な技術を持つ賢者に助けを乞うた。バベリア王は代償を要求した。一人の子供を生贄に捧げよと。バベリア王が構築、創造した都市ヴィーズの中心に建造された神を咎める為の城塞。完成するには機構の核として人を使う必要があった。それも、病を患っておらず適応性の高い子供を。城塞の一部となった人間は呪われ永遠に意志を時の凍った世界に閉じ込められると。ヴィーズの一族はそれを否とした。幼いヴィーズの血を絶やし、犠牲にする位ならば運命に従い、滅ぶ覚悟だった。
やがて、一族の人間、最後の子供以外、全てが病に伏した。それは、子供、少女の母親も例外ではなかった。少女の父親は既に息を絶え、少女の家族は母一人。少女は優しい母が好きであった。それこそ、自身よりも大切な存在であった。だから、少女は自身を生贄にする代わりに、一族の病を治す事を条件にバベリア王と契約を結んだ。そして、一族の人間は命を救われ、少女は人柱として、冷たい時間の止まった世界で眠りについた。
久遠の大樹が枯れ果てる程の時が去り、少女は誰かに呼ばれるように、目を醒ました。眼前には自身が眠っている。少女は意識だけの存在として目覚めた。永遠に時間の止まった世界に身を窶す筈が、何故そうして現実に戻ったのか少女には理解できなかった。どれ程の時間が経ったのか、少女はヴィーズの時間感覚を取り込み理解し、ヴィーズの都市ごと大空に浮かび、周りは雲で覆われている事を知った。城塞の外側には見慣れた、しかし最後の記憶とは異なる風景が広がった。都市は緑に蹂躙され、建物全てが壊れ、荒んでいた。人影どころか生物ひとつ都市にはおらず、寂寞という風が都市に吹き込んでいた。かつての一族が住んでいた居住区に足を踏み入れば、そこには何もなかった。使用していた日用品、家具、それら一式、全てが無かった。つまり、一族の人間はこの都市を去ったという事実、それが少女の脳裏へと悲痛に貫いた。少女は存在を忘れられ置いてかれたと思ったが、そうでは無いと必死に嫌な思考を捨てる。一族の絆、その存在を少女は信じていた。だから、何時か一族の血を持った人間がこの都市に帰ってくると信じることにした。だから、誰かが帰ってきた時の為に、人が住みよくする都市へと、自身の一部たるヴィーズの機構を用いて、食料栽培を始めた。さらには、都市内守護機構の機兵を用いて木造の住居を造らせた。都市を一望できる丘に比較的目新しい小屋を見つけ、そこに、母が住んでいた痕跡を見つけ、少女は嬉しさと共に悲しみを抱いた。母は少女の元を離れず一人残ってくたのだと。そして、やはり、母は死んだのだと。埃で古びた小屋の中、寝床は二つあった。それは、母が少女と共にあることを望んだ結果。少女は母の死に目に立ち会えなかった事を後悔する。全ては遅かった。少女は意識体として、そこを住処とした。
目覚め、幾数年が過ぎた、しかし、誰一人、一族の人間が帰ることはなかった。造らせた住居も再び綻び、緑に覆われた。少女は城塞の書庫で本を読み、時を過ごした。膨大な書物の山を読み、積み重ね、嫌な思考を誤魔化す為に書を読んだ。幾十年が経ち、最後の一冊を読み終え、少女は本を読むことを止めた。それから、少女は考えることをやめた。
幾百年が過ぎた。一族の人間どころか、誰一人この都市に踏み入る人間は現れなかった。感じることを止めた少女に残っていた、一つの感情がある日、堰を切った。そして、願ってしまった。誰かと会いたい、誰かと話したい、誰かと生きたいと。
そして、願いが叶った、叶ってしまった。ヴィーズの核機構たる人柱による感情の暴発は直接都市に影響した。その結果ヴィーズの防衛機構を抜け、奇妙な船が都市の端っこに降り落ちてきた。少女はその船の中を覗き込み、一人の少年を見つけた。少女は少年を船の中から運び出し、生きている事を知った。胸中に嵐のような感情のうねりが爆発し、少女は訳がわからなくなった。その少年は少女の歳と同じ程度だった。だからこそ、思った、少年にも家族がいるのだろうと、狂おしい程惜しかったが、少年を、ここに押し留めるはいけない事だと思った。当然、ヴィーズの意識もそれを良しとはしない。だからこそ、少女は少年に自分の世界に帰す事を推した。少年は何処か弱弱しい印象を抱かせた。それは逆に少女が放っておけなくなる程に。少女は少年と共に過ごした日々が刹那に感じた。それは、おそらく楽しくて仕方がなかったからだ。それでも、少年との別れはすぐに訪れた。少女はそれでいいと思った。少年は下の世界で、時間と共に生きるべき人間なのだから。だが、少年は少女に地上へ行かないかと提案した。ひどく嬉しかったが、少女は一族の人間を待たなければいけないのだ。
記憶が巡り、そして、ゼノという存在に回帰する。そして、意識の前に少女が現れる。
少女、モニカはすまなそうに、眉を寄せ、おずおずとゼノを見る。
「………誘ってくれたのは本当に嬉しかった」
泣きそうな顔で、モニカはゼノの意識に呼び掛ける。ゼノは堪らず、最もモニカに言ってはいけない事を言う。
………モニカさん、多分、一族の人達はもう………帰っては……。
最後までゼノには言えなかった。その一言はモニカの数百年を無にする言葉、ゼノが言えるわけもなかった。
「………いい。もう、初めからわかってた」
………なら、それなら。
「………でも、駄目。バベリアの王様に人柱の呪いをかけられて、ここから離れることはできないし、もしも、私がここから外に出たら、一族の絆を否定したことになる。それは、とてもいけないこと」
………そんな、じゃあ、モニカさんは………永遠に。
「………そう、多分、これが呪いであり、代償」
………そんなの悲しすぎるよ。
「………大丈夫、ずっと耐えてきた。だからこれからも」
………僕は、何もできないのかな………?
「………じゃあ、忘れて、全て忘れて、出会った時から全てを。私も忘れるから」
………どうして。
「………ゼノは優しいから私の事で傷ついて生きていく。そんなのは嫌だから」
………僕は優しくないよ。弱いから誰にでも都合よく振舞っているだけだよ。
「………ゼノはもう少し自分と向き合った方がいい、そうすれば、きっと……」
………でも、やっぱり、忘れることなんてできないよ。
「………ゼノ………でも、もう時間が無い。また、眠らせられる、多分、もう二度と目覚めることは無いと思う。ゼノは早く逃げて、多分、あの人はヴィーズを使ってゼノに酷い事をするから。だから、その前に逃げて。そして、全て忘れて………」
………それがモニカさんの望みなら。
声は弱まり、静寂の海が崩れていく。最後にゼノは聞いた、モニカの言葉を。
「………出会わなければよかった」
余韻として、意識の顕在が薄れる中、長く、永く、響き、消え去った。
遠くに風が流れ吹き荒れる音が、耳の周りのそよぎ、過ぎ去っていく。何か寂しいなとゼノは感じ、意識が明白なのに、視界が暗中にある事を不思議に思う。背には地面と思しき硬い感触があり、今、自分が仰向けになっていることを無意識に悟る。頭部だけは枕のように柔らかい物を下にしている。しかし、何故かほんのりと温かく、とても心地が良い。何か頬にさらさらした何かが撫でる感覚があり、むずがゆい。最後に気が付く。左目から何かが溢れ、耳の下に伝い流れて、落ちていることを。そして、理解する。真っ暗なのは、目を閉じているから、そして、流れる液体は涙というモノだと。そんなものが、まだ自分にあったのだと、ゼノは殺伐と思った。そして、思い出す。最後の言葉を、少女の望みを。目を開き、光と共に視界が開き、目に鈍痛を感じながら。ゼノは口を開く。
「忘れることなんて……一生できそうにないよ………モニカ」
眼前には、トリス、ジギー、ラングレン兵の人間がゼノを覗き込んでいた、その中、トリスは心配そうに張り詰めた表情をしていたが、ゼノが気を取り戻した事でやや、緊張をほぐした。トリスが先に口を開く。
「……気がついたみたいだね、体は……大丈夫じゃないよね……」
眼下にかかる、血で張り付いた髪をそっと手でどかせ、髪を梳くようにトリスはゼノの髪を優しく撫でた。ゼノはやっと気が付く、トリスの膝に頭を乗せていることを。そして、トリスの綺麗な金髪がゼノの頬に垂れ、くすぐっていることを。ゼノはなんとなく姉を思い出す。遠い何時か、取り戻せない、その時間、姉もゼノの髪を優しく撫でてくれた。ゼノはトリスの髪が顔についた血で汚れると思い、弱弱しく首を曲げた。
「くすぐったい……?」
「………いえ、折角、綺麗なのに汚れてしまうから……」
血まみれの瀕死、満身創痍、涙を流し、今にも命が途絶えてしまそうなか細い少年の言葉にその場にいる全員が違和感を覚える。トリスは悲しげに無言でゼノの頬に触れる。
「………そんなことはいいの。君は自分の体のことを……」
そっと、ゼノの左目の周辺をさする。その手ははっきりと震えていた。ゼノは気が付く。左側の視界が存在しないことを。何か布で左目に巻かれていることを知る。トリスは泣きそうな顔をする。
「………ごめんね。助けてあげれなくて」
続いて、ジギーも片膝を衝き、ゼノに頭を下げる。
「………悪い」
ジギーは見てただけの自身が赦せないのか、拳を地面に叩きつけ、憤りを見せる。だが、ゼノにはわからない。どうして、彼等が詫びているのかを。
「………どうして謝るんです、僕は何も言っていない………」
ジギーは呆気に取られる。
トリスも驚き、ゼノをじっと見つめる。耳を傍立てて聞く兵士達も顔を見合わせている。ゼノは今更ながら、自分がおかしいのだと理解した。やはり、普通はそういうものだと。だが、普通と異なる、そんなものはどうでもよかった。
ゼノは緩慢と身を起こす。頭部には鈍痛が残り、全身の骨が軋み、悲鳴を上げ、腹部に刺さるような激痛が起こり、身を折り、痛みに顔が歪み、溜まっていた血が喉を伝い、咳と一緒に吐き出す。
「動いたら駄目! 内臓が傷ついて危ないのよ!」
口を押さえ、真っ赤に染まった手の平をぼんやりと見て、トリスの静止を無視して無理に立ち上がろうとするが、両足が震えて、膝を衝く。ジギーは倒れこみそうになったゼノの前に屈み、肩を支える。
「おい、俺の見立てじゃあ本気でやばいぜお前………」
トリスも何か悲鳴のような声で屍のようにふらつくゼノに言葉をかけている。だが、その言葉はゼノの思考に響くことはなかった。ぼんやりと、ゼノは考える。
「………モニカ、僕は……君を救うことなんて……できないみたいだ」
おぼつかない足取りで、ゼノは周りを見渡す、空中都市の端、地形から見て、花畑の反対側のようだ。ゼノの飛行機も移転させてある。
「僕は……君の望みを…叶えることはできないね……だって……僕は……君のこと……忘れることなんて……絶対に…できない」
意識は朦朧とし、片足を引きずりながらも、ゼノは歩みを止めない。ジギーは肩を掴み、手を伸ばしかけるが止める。
「……だから……せめて……君の望みどおりに……君から離れるよ……何処までも……君から遠ざかるよ」
僅かに地面から覗かせた小石に躓き、ゼノは地に倒れこむ。トリス、ジギー、兵士達、全員が動けず、目が離せなかった。それ程までに今のゼノは弱弱しく、触れ難かった。ゼノは立ち上がらず、芋虫のように地面を這い進む。砂利が擦れる音がとてもはっきり聞こえた。
「………はは」
ゼノは顔を上げ、笑った。自身への侮蔑、憤怒、現実に対しての憐憫、絶望、それらがその弱弱しくとも濃く滲んでいた。やがて、肺に負担がかかり咳き込み、血霧を吹きいて両腕で身を抱え、跳ね悶える。呼吸が落ち着くと、嗚咽が漏れ出した。心底情けなかった。心底許せなかった。己が身勝手に抱いたモニカに対しての寂寥感、初めて抱いた欲望に付随した意思、それら全てが最低な結果を招いた。モニカの一族に対しての絆、それらを無視することは、つまり、モニカの存在理由を否定すること。そんなことはできない。だから、できることを塵のように何処までもモニカから離れること。
「……なんだ、結局、僕は……また逃げるんだ」
笑う。初めから何も変わっていなかった、何も変わるはずがなかった。何事からも背を向け、蔑まれ、疎まれ、生きていく。それがゼノだった。
右目からは透明な雫が、左目からは布を通して血涙が垂れ、頬を伝わり土に塗れる。伸ばした腕先、地面に爪を立て、握り締める。
「………僕なんて……いなくなってしまえ……」
震える声で、ゼノは呪いの声を上げた。それは嘘偽り無いゼノが抱いた二つ目の意思。しかし、それでも、ゼノには死ねない。死ぬ事はモニカの望みではない。だから、ゼノは生きなければいけない。一生、救えなかった悔恨を抱き、怨嗟を生に積み重ね、倦み疲れ、それでも生を繋ぎとめて時を過ごさねばならない。それはまるで、
「………地獄だ」
ゼノは思い出す。ヴァリア家の人間は真っ当に死ねないと。そして、可笑しくなる。
「………とっくに呪われてたんだ……僕は」
どうして、気が付かなかったのだろうと、ゼノは愚かしい自身に殺意を抱く。つまり、モニカは呪われた自分がいたから、傷ついた。呪われた自分と出会わなければ。
「………出会わなければよかった」
悲痛な言葉にゼノは奇しくもモニカが最後に放った言葉だと気が付き、再び、涙が溢れ出す。顔をジャケットの裾で拭い、這う事を止め、痛みに顔を顰めながら立ち上がる。幽鬼のような足取りで、ゼノは修理した飛行機に手を付け、身体を支える。何処に行こうかと、ゼノが胡乱に思考を巡らし、座席に乗り込もうとする。しかし感覚がぼやける足を踏み外し、肩を飛行機の片翼にぶつける。
「………っ」
偶然か必然か、修理していた翼の箇所に当り、衝撃で骨組みが曲がり、突き出てしまった。ゼノは肺に激痛を感じながらも無理に溜息をつく。いっそ、身のまま飛び降りるかと本気で逡巡し、ふと、何か翼の部分、外装を突き出た骨組みの重なりから、白い何か、紙のような物がちらついた。
ゼノは腕を伸ばし、その紙らしいものに手をかける。鉄骨の隙間に挟まっているようで、破れないよう慎重に取り出す。黄ばみ、黒く変色した紙、紐で丸く纏められていた。ゼノは紙が挟まっていた鉄骨の部分を覗くと、それは、ゼノを追いかけ、壊れた人型機械の部品であった。どうやら、修理している時は気が付かずに取り付けてしまったようだ。ゼノは紐の結びを丁寧に解き、紙を広げる。すると、横書きにくすんだ文字の羅列が連なっていた。ゼノは古代の言語と判断する。屋敷で読み荒らした古代文献を思い出し、知識の海と言語の境界を知恵で結ぶ。そして、初めの一行を読み込む。
『私の最愛の娘、モニカへ。もしくは、この手紙を読んでいる誰か………』
指先が震え、心臓が跳ね、振動が肋骨を伝った。手紙、おそらく、間違い無く、モニカの母から。残った右目で字を追う。
『モニカ、もしもあなたが目覚め、この手紙を手に取っているのなら、私は既にこの世を去っているはずです。初めに謝らなければいけません。ごめんね、モニカ。あなたが生贄になったことで、一族は滅亡を免れました。でも、あなただけ救われていない。私達は平穏な日々を生きて、あなただけに、そんな冷たい場所で寂しい思いをさせて。あなたがいない日々は私にとっては苦痛でした。私はバベリア王に幾度となく、あなたと私を代えて欲しいと乞いました。でも叶わなかった。ごめんなさい不甲斐ない母親で。だから、せめて私は誰よりもあたなの傍で、あなたが目覚めるのを待ち続けます。一族の皆はあなたを解放する方法を探しに旅に出ました。もしも、あなたが目覚め、誰もいなくても、それはあなたを想った結果です。優しいあなたは、一族の皆が帰ってくる事を信じるでしょう。それでも、もしも、人柱の呪いが解けたなら、あなたは誰かを待つ必要はないのです。誰もがあなたに自由に生きる事を望んだのですから。あなたは小さな頃から、物静かで、あまり感情を表に出さない、甘えることをしない子でした。それでも、私は知っています、あなたが、いつも私や先に逝ったあの人に迷惑をかけないように我慢していたことを。あなたは強い子です。だけど、時には我慢せずに、誰かに甘えていいのです。そして、幸せに生きてください、私の可愛い娘、モニカ』
ゼノは天蓋を見上げる。母が想い半ばで娘に託した手紙、この世界で一番綺麗で悲しい手紙。遠い昔がゼノの中で蘇った気がした。
………ヴィーズの一族はモニカを見捨てたんじゃない。誰もがモニカの幸いを願った。そして、あの機兵にこの手紙を託したんだ。
ゼノはモニカにこれを見せるべきと思うが、それでも、これ以上、呪われた自分が会ってはいけないと、逡巡する。まだ手紙には続きがあった。
『この手紙を読んだ、見知らぬ誰かへ。この浮かんだ都市はヴィーズ、バベリア王の秘儀によって創造された天を咎める城塞です。私達ヴィーズの一族にもこの都市の詳しい事はわかりません。この都市の核といわれる尖塔に私の娘が人柱として捧げられています。不躾かつ無遠慮な願いとは思いますが、どうか、私の娘を、あそこから解放して下さい。無茶な願いだとわかっています。それでも、どうか、その方法があるならばどうか、あの子を救ってください。そして、できるならば、あの子の傍にいてあげて下さい。あの子は、モニカは、本当は………』
読み終え、左目を深く閉じ、呼吸を止め、身じろぎせず、生体活動全てを脳に回す。追記された最後の言葉を、何千回、何万回も、頭の中で反芻し巡らす。全ての思考が嵐のように乱れ、静寂の水面と収束する。瞳を開き無意識に涙は溢れ出す。
「………モニカ」
初めに出会い、それから数日を共にし、モニカは一言も言わなかった。その一言をゼノは一度と聞かなかった。
「………聞きにいくよ、モニカ。僕は君に会って聞くよ」
最後に記された言葉、それは、
『あの子は、モニカは、本当は………………とても寂しがりやなんです』
ゼノの中で何かが熱く、激しく、揺り動き、脈動した。心の臓が熱く、煮え沸き立つ血液が全身を巡り、焦げつくように身体が火照る。指先から間接、肘、肩、体中の骨、筋肉組織、果ては極小たる細胞が喚起の声を上げ、力が漲る。それは喜悦、存在して初めて、主たるゼノの意思が肉体に伝わり、活動の命令に打ち震える、目覚めの咆哮。傷ついた身体は来るべき反逆の時を期すべく活性化する。内臓は潜在する再生因子によって傷を塞ぎ、軋み折れた骨は筋肉組織に指令を出し、正しい接合部分へと骨を動かし、身体中の接合細胞により繋ぎ止められる。濃く霧が圧し掛かった思考は、熱風に吹き飛ばされ、何処までも冴え渡り始め、世界が見えてくる。
ゼノは涙を拭き取り、手紙を大事に懐へしまう。そして、ジャケットを大きく翻し、踵を返す。
………そう、モニカは、会ってから、一言さえも、寂しいと漏らさなかった。
表情は決意を旨に立ち上がった揺ぎ無い少年の顔。その何処にも先程までの弱弱しい雰囲気は無かった。
「………だから、モニカ、僕は君に会いにいくよ。君の声を聞きに行くよ」
都市の中心、城塞な真ん中に聳える尖塔をゼノは見据える。さらに遠くの空にサロアルの戦艦が浮いている。視線を下ろし、城塞までの道を確認する。樹海を通り抜け、切り立った山を辿ることになる。
豹変したゼノの様に呆然としているトリスやジギー、兵士達。その間をまるで見えていないように過ぎ去ろうとするゼノ。だが、ジギーがその前にすかさず立ち塞がる。
「おい……何処行くんだよお前、もしも、あの嬢ちゃんが気になってるんなら………やめとけよ。ていうかお前、動けるような傷じゃあねえって」
ゼノは構わずジギーの横を通り抜けようとするが、ジギーが華奢な肩を掴み、阻まれる。ゼノは自分でもわからない程に冷静だった。
「………離してください」
「そういう訳にもいかないでしょう、君には聞きたいことも。私達が保護します………」
トリスとジギーにゼノは挟まれる形になる。
「………離せという言葉がわからないのか。アレヴィルの負け犬騎士は本当に畜生以下のようだね」
「な………! お前、なんで俺がアレヴィルの騎士だって知ってる?」
ゼノは深く溜息をつく。
「………本当に畜生以下だね。何故だって? 知ってるからに決まってるじゃないか。あなたのそれは装甲騎士大剣可変極圧武装式ヴェリトだろ、騎士の国アレヴィルの剣聖騎士団ロークの騎士だけが王から下賜される秘宝の一振りだ。そんな大層な物を僕が見間違える訳が無い」
ゼノは言葉の終わりに、するりとジギーの腕を払う。ジギーはその動作が何時行われたのか知覚できなかった。
「お前………どうしてロークを知っていやがる! あれはアレヴィルの中でも王族だけの秘奥部隊だ。手前みたいなガキが知ってる訳が……」
「それこそ知ったことじゃない」
ゼノは吐き捨てるように答える。一方、トリスはゼノが平然と放った言葉に目を瞠った。
「……アレヴィルは六年前に………」
ゼノは言葉を引き継ぐ。
「そう、サロアルに滅ぼされた。それもたった一晩で。つまるところ、あなたはあの負け犬騎士団の生き残りなんでしょうね、母国が無くなって行き場も無く彷徨っている。無法傭兵じゃなくて亡霊騎士とでも改名すれば箔が付くんじゃないですか」
ジギーは頭に血が上るのを感じ、同時に冷静な部分が目の前にいる、細身の少年に怯えを持ち始める。その嫌な感覚を振り払う為、怒りに身を任せ、つい拳を振り上げる。
「手前………!」
そこに驚愕から覚めたトリスや傍観していたラングレン兵の数人が割って入る。
「止めて………! この子は怪我しているんですよ!?」
「離しやがれ!」
ジギーは数人がかりで押さえつけられ、身動きを止める。
「君も悪戯に挑発なんかしないで、安静に………」
「そういえば………」
言葉の途中、トリスは何を口にすべきかを忘れた。それは、誰もが同じだった。そして、先程とは別の意味でゼノから目を離すことができない。ジギーも暴れる事を止める。それは、捕食者に見つかった獲物の行動と似通っていた。共通して瞳に称えるのは恐怖、そして理由のわからない若干の畏怖。
「………あなた達もヴィーズの力を手に入れようとでも?」
感情を押し殺すでも、抑揚の欠いた声でもない、純粋な問い。ゼノの表情からは何も探れない。だが、兵士の誰かが悲鳴を押し殺したように、小さく声を漏らす。
「それなら………敵だ」
特段、何か挙動を取ったわけでもなく、身動き一つしていない。だが、その一言に兵士の一人が尻餅をつく。ゼノの黒色のジャケットが横風に大きく翻っては靡く。
トリスは得物たる雷槍を自然と手にしている事に気が付き、同時にその掴む手は小刻みに震えていた。目の前にいる少年は何だと、トリスは必死に理性に呼び掛ける。しかし、本能が理解を阻み、身体を動かすことさえも赦してはくれない。息も絶え絶えにしていた少年、絶望の色を濃く滲ませていた少年、少女と見紛う程に華奢な体躯の少年………だった。そして、恐怖の対象としてはこの世で一番遠い存在だったはず。不吉とも不気味とも違う、畏怖たる感情がざわめき渦巻く。
ジギーもまた髪を逆立て、冷や汗を僅かにかいている。その右手には騎士大剣を千切れんばかりに握りしめていた。
横風が収束し、ゼノが一歩、ただ一歩、足を踏み出す。だが、その一歩は理性を飛ばし二つの感情を爆発させるには十分過ぎた。
「「………!」」
ジギーは一瞬で腰椎に負荷をかけ、反発の撃力により大剣を一挙動で振り下ろす。
トリスは雷槍の石衝きを地面に衝き立て、反動に従い先端を横に薙ぐ。
「「………!」」
瞬きの中、恐怖の発露は驚愕へと収束、そして強く二つの金属が噛み合う音。
ジギーとトリスは目をしばたたかせる。ジギーが振り下ろした大剣とトリスが薙いだ槍の先端が衝撃と共に交わった。目の前には誰もいない。
そして、気が付く、ジギーとトリスの真横、二人の間に佇むゼノを。その背後に呆気にとられていた兵士達は見ていた、それは不思議な光景だった。ゼノが一歩を踏み込みんだ矢先、弾かれるように踏み込んだジギーとトリスの左右の狭襲にゼノは目を向けず、ただ平然と二人の間を歩み、何も存在しない虚空にトリスとジギーが得物を振りかぶった。
「………え?」
トリスとジギーは一拍置き、ゼノが両手を左右に伸ばし指先をそれぞれの首の根付に軽く触れていることに気が付く。たったそれだけだが、微動することさえ赦さない。
「………問おう。無法傭兵、金色夜叉、敵か?」
乾いた声が二人の耳に入り、指先に僅かな力が込められる。だが、二人供に首先へと死神な鎌が据えられているようで、迂闊に答えることはできなかった。
「一応………敵になるつもりはねえ。だが、目的もある」
ジギーが緊張を含みながらも言葉を選ぶ。
「………私はラングレンの古代秘蹟調査部に所属しています。禁断推定秘蹟の保護に来ました」
ゼノは数秒の思考を置き、両手を下ろす。緊張から解き放たれたトリスは膝がつきそうになるのを堪える。ゼノは残された右目でジギーと向き合う。
「無法傭兵………願いを聞こう」
「は………?」
ジギーは真っ向かゼノに瞳を見つめられ、困惑する。
「お前の願いを聞こう」
「………なに言ってんだ、お前………」
奥底を射抜かれるような視線に言葉が途切れる。何かが訴えた。それは受け継がれた根源たる血のざわめき。目の前の少年に対する頭の奥底が全ての解放を促す。そしてゼノの襟首を掴み吼える。
「俺の、俺の願いは………国を滅ぼしたサロアルをぶっ壊す事だ! その為にはヴィーズの力が必要なんだよ! そんで、姫様を救い出して、アレヴィルを再建することだ馬鹿野郎! なんか文句あるか!」
誰にも話すこと無く、心の奥底に埃を被っていた願望、叶うはずの無い馬鹿げた願い、燻っていた夢が煮え滾り、炎を吹いた。人に聞かれれば呆れられるか、嘲笑される、そんな夢に、ゼノは平然と答える。
「雇ってやる無法傭兵、対価としてその願い僕が全て叶えてやる」
「………な! 手前、いい加減なこと言うんじゃねえぞ!」
ジギーは目を剥いて、更に力を込め、ゼノの首ごと身体を持ち上げる。ジギーの激昂にゼノは更なる怒号で返した。
「………ふざけるなよ、いい加減な事を言っているのはお前だ! お前の願いは死に物狂いで叶える必要も無い程に軽いのか? 違うだろ! たとえその希望が虚偽であっても、何度でも喰らいついて、叶えるのが夢なんだろ! 失望させるなよ無法傭兵!」
ゼノは言葉の終わりに額を眼前のジギーに額にぶつける。
「可愛い顔してでかい事ほざくじゃねえか!」
ジギーも額を合わせ押し返す。
「お前は粋がった顔して根暗な人間だな!」
「そこまで言うならお前がヴィーズの変わりにサロアルを滅ぼす力を見せてみやがれ! そうしたら一生、手前の後を追って仕えてやらあ!」
ゼノはそこで初めて笑みを浮かべる。その言葉をまるで待っていたかのように。
「………いいだろう。なら付いて来い。眼に焼き付けさせてやる」
「上等だ」
ジギーも口の端を吊り上げ獰猛に笑う。
「ところで………」
「あ………?」
ジギーは何かと思えば、ゼノがなんとも困ったような顔をする。
「そろそろ………下ろしてもらえません? さすがにそろそろ苦しいです」
「………あ、ああ」
言われるがままにジギーは襟首を離し、ゼノは地面の感触を確かめるように地を何度か踏む。先程までの威圧感は何処かに消え失せ、今は何処にでもいそうな唯の年頃の少年だ。ゼノはコートの端で手を拭き、それをジギーに差し出す。ジギーは訝げにその手を見る。ゼノは弱弱しい笑みで、頬を掻く。
「………握手です。とりあえず、よろしくお願いします………ええと、ジギーさんでよかったんですよね?」
ジギーは拍子抜けし、肩を大きく落とす。そして、思い切り手を掴み、握る。なんとなくジギーは手錠を掛けられた気分になった。
「お前………本当に訳わからねえよ。名前は?」
「僕はゼノです」
「ゼノね………」
お互い手を離す。
「とりあえず、僕といた女の子に会いに行きます。その道中、多分、防御機構と遭遇しますから、それから僕を守るのがジギーさんの役目です」
「おい、まだお前に雇われるなんて一言も………」
「それは確かにそうですけど、まさか僕みたいな子供を見捨てる訳にはいかないでしょう?」
「………ああ、わかったよ。本当に変な奴だなお前。つうか、卑怯な奴だな」
「………すいません。僕だけじゃ、あそこには辿り着けないので」
ジギーは諦めたように、疲れた声を出す。しかし、心なしか表情は明るかった。
そこで、話に置き去りにされたトリスがようやく発言の機会を得る。
「………待って、ゼノ? 君はあのモニカっていう子と、この都市の事をどれだけ知っているの? どれ程に危険だって………」
ゼノはトリスが純粋に身を案じていることを悟り、微笑する。
「………多分、誰よりも知っています。モニカの事も、この城塞のことも。だからこそ、行かないといけないんです」
城塞の中心、尖塔を見据え、放つ言葉、その表情は誰かを想う少年の横顔だった。トリスは何故か無性に、ゼノを抱きしめたい衝動に駆られるが、意思の力でそれを止める。
「私は………バベリアの秘蹟を悪用する輩が赦せないの、だから、私も一緒にね?」
暫し、トリスは笑みを浮かべ、見つめる。ゼノは困ったようにジギーに目を向けるが、ゼノに任すと首肯する。トリスは首を傾げ、片目を閉じて両手を合わせお願いする。
「ね?」
「え……でも、やっぱり、危ないような……」
ゼノは慌てふためくき困惑するが、やがて女神の微笑を抱いたトリスの表情にたじろぎ観念する。
「えと、トリスさんですよね? さっきは御免なさい、生意気なことをしてしまって。ああしないと本音を聞けなかったので。あと………介抱して下さってありがとう姉さん………あ、間違え……」
最後にはにかんだ無防備な笑顔でトリスの理性は消し飛んだ。ゼノをつい抱きしめてしまった。抱きしめた後、凍りついたように動かないゼノの身体を堪能する。男の子のわりに本当に華奢で、やはり女の子ではないかと疑い直す。多分、今の自分の顔は緩み切っているのだなと。どうしてこんな子に恐怖を抱いたのか、人間は不思議だと思い、数秒間を置く。理性が帰り、弾かれるように離れる。
「ご、ごめんね。つい………苦しかった?」
抱擁から解かれたゼノは恍惚に近い呆然とした顔をしていた。
「えと………なんというかいい匂いがして、とても柔らかく見事な………ど、どうして僕は感想を述べているんですか!?」
「………お前、結構馬鹿だろ?」
ジギーが呆れてゼノに言葉を向ける中、ラングレンの兵士達が背後で涙を流して銃をゼノに向け始めた。トリスが慌ててそれを止めさせる。一息つき、ラングレン兵達は先に飛空挺で待避して、母艦に戻り状況を説明して応援を呼ぶようにトリスが命令する。そして、ゼノを先頭にジギーとトリスは尖塔に向かい走り出す。ジギーはゼノが走る後姿に違和感を覚えトリスに声をかける。
「なあ、あいつ、どうしてあんなに動けるんだ? 肋骨も折れて立ってるのもやばかっただろさっきまで」
トリスも言われて、その異常性に気が付く。
「そういえば………細胞活性の極石も使っていないのに」
トリスとジギーが抱いたものは二つ。一つは有り得ない事が起こっている違和感。後者は訳も無い期待。
ゼノはただ一心に走る。
「モニカ………弱い僕が会いに行くよ」
その呟きは風にまみれ、飛んでいった。




