二章
第二章
昨夜、モニカが振舞ってくれた料理の数々はやはり、僕にとっては目新しい、珍しい食事だった。古代の人間と、現代の人間の味覚には差異が無い発見と共に、モニカは料理が上手という嬉しい発見があった。案の定、僕がそれについて、賞賛の意を、遠まわしにではなく直接伝えても、モニカは表情一つ変えずに、相槌一つ、ただそれだけだった。僕にとってはそれで十分の十倍並、それ以上はいらない。比べて悪いが、毒の入っていないまともな食事なんて五年ぶりであった。僕はそれらを美味しく舌鼓した後に、考える。彼女の料理が上手なのは当然といえば、当然だろう。ずっと一人きりだったのだから。でも、僕はそんな寂しい環境でなくても、モニカは料理上手になっていたと思う。何故かといっても僕にはわからない。家事の過程を眺めていた結果、そう思っただけだ。仮定とは全くの無意味にして無力な言葉と言わざるをえない。いくら、過去、現在、未来、あらゆる状況下を想像し、自己の推論を当てはめ、思索に必要な欠落を埋めたとしても、それは一時的に理論の抜け穴を都合したに過ぎない。仮想はできても現実には繋がらない。それでも、僕はあえて、仮定する、あの子が、モニカが至極一般的な生活を、真っ当に送れる人生を。同年代の少年、少女と話し、僕にとってはおぼろげだが、青春という、何物にも換えることが出来ない、だからこそひどく危うい、素晴らしいものを手にしていたことだろう。今より表情も明るく………あまり想像がつかないが、それは決して僕がモニカに対して暗い偏見を持っている訳ではなく、そう、本当に想像がつかないだけなのだ。それに、あの人を惹きつける、可愛らしい容姿なので、誰も放ってはおかないだろう。僕のような、全てに目を背け、逃げることしかできない人間には、本来なら一生、接点が無かったのだろう。しかし、何の因果か、僕とモニカは一生分の思い出になるような出会いをしてしまった。僕にはそれが良いことだったのか、悪かったことなのか全くもってわからない。もちろん、モニカにとっても。僕は出会ってから、一度とさえモニカの口から、寂しいという言葉が紡ぎ出された覚えがない。それは何故なのだろうと僕は考えた、寂しさに心が慣れてしまったのだろうか、それならば、それは慣れたというより、誰かに気持ちを伝える喜びが欠けてしまったといことだ。それとも、本当に初めから寂しいという事がわからないのかもしれない、聞くに物心がつく前から一族の人間は旅に出て、母が死ぬまで二人だけだったらしい。確かに上辺の数だけを念頭に置けば、二人が一人になっただけだ。寂しいという感情が無いとしてもおかしくはないが、そんなことがある訳無いと僕は断言できる。モニカは家族を、一族の人間を大切に思っている、それは、僕が不用意に触れてはいけない程に。誰かを大切に想えるモニカが誰とも過ごせない寂しさがわからない訳がないのだ。モニカの母が死んで四年、その間、モニカが絶対の孤独からどのようにして、心を守っていたのか、ゼノには知る術も無い、もしかしたら、感情を窺わせないあの表情は、寂しさをやり過ごす為の防衛手段なのかもしれない。それは、とても悲しく、不毛だ。僕とモニカは立場、事情、環境、性別、年齢、全てが異なるけど、孤独という共通点がある。僕はあの敵しかいない屋敷で、心の磨耗を耐える為に、抗う事を止め、卑屈に生き延びた。モニカは味方どころか、敵さえも存在しない、この空中都市で、寂しさを紛らす為に、感情の起伏を抑えた。それでも、彼女は感情の波を抑えるに留めた、彼女はまだ戦っているのだ、逃げた僕とは違い、一族の帰りを待っているのだ。正直言って、僕にはわからない、そこまで一族の人達が大事なのだろうか、誰かを想うことを知らない僕には一生理解できないだろう。彼女は何故、寂しいと、少しも弱音を漏らさないのだろう、僕が頼りないからだろうか。それとも他に理由があるのか、やはり、人の気持ちを感じることなど僕には生来不可能なようだ。得手不得手、僕はその言葉を次の逃げ場とした、向き合うべきだったのに。
緑を掻き分け、鬱蒼とした草むらを踏み抜き、姿勢が崩れても構わずに、走り抜ける。ゼノは肩を上下させながらも立ち止まらず、しきりに背後を気にする。
繁った森林が薙ぎ倒され、一定間隔で地面が揺れる。その合間にも、それは段々とゼノに近づいていく。
「………ああ、ここが古代遺物だってことすっかり失念していた」
木陰が消え、ゼノの目の前に影が落ちる。背後からの斜光を遮る樹木が倒されたようだ。傾いた樹木が地に着く鈍い音が辺りに広がる。ゼノはその姿を立ち止まり、見上げる。それは人型を模した鉄骨の重ね合わせを軸にし、頭頂部には甲虫の瞳を彷彿させる無機質な赤いレンズが取り付けてあり、それが、ゼノの動きを追っている。身を苔に覆われ、さらに蔓を巻いており、長い時間放置されていた物が動き出したということがわかる。左腕に取り付けられている分厚い斜断剣で、邪魔な樹木を切断している。
ゼノをレンズが捉え、右腕を持ち上げ、ゼノの方向に差し出す。人間で言うところの手の平、その中心に穴が開き、突然、黒光りする何かが発射された。それは空気を切り裂くように、ゼノの真上を通り過ぎ、轟音を立てて止まった。
ゼノが振り返ると、大人が十人程、手を繋いでやっと括れる程の大樹に、大穴が開き貫通していた。偶然、ゼノの真上に逸れたが、あと少し身長が高ければ、頭蓋ごと持っていかれただろう。正直、ゼノはぞっとしなかった。狙いを外した鉄骨の機械は、再び動き出し、ゼノに左腕を振りかぶった。ゼノは横に飛び、その勢いで転がり、すぐさま立ち上がり逃げる。つい叫びたくなったが、息がすぐ切れそうなので、止める。
時間を少し遡ると、モニカにゼノが都市の廃棄場に当る場所に案内してもらったことから始まる。その廃棄場は下層部の森林地帯にあった。都市に住まう人間が必要無くなった日用品やらで、多く積み重なって山になっていた。モニカは畑を見に行くと言って、ゼノだけを残して早足に去っていった。ゼノが手伝いを申し出たものも、修理を優先してくれた方がよいと、切って捨てられた。確かに畑仕事は、ゼノにとってわからない分野なので甘んじることにしたが、一回ぐらい手伝った方がよいのだろう。とにかく、ゼノは材料を見つける事に専念した。幸い、飛行船の破損箇所は雷に撃たれた翼だけで、取り替えるか、補強するだけで直る。燃焼機関の極圧式には問題も無かった。だから、翼の骨組みになる部分を探すことにした、廃棄場の表層部分は生活品の成れの果てばかりで、使えるものは無く、ゼノが山の下を覗き込むと、それらしい部品が埋まっていた。だが、それを取り出すには、表層の塵を撤去する必要があった。正直、ゼノにはお手上げだったので、他にないのか探していたが、廃棄場の奥、更に鬱蒼とした樹木の中、一本の大きな洞を抱える、老木があった。ゼノはその中に丁度いい骨組みで構成された古代の人型機械を発見した。枯れ木のような少年ゼノにも好奇心があり、物珍しく、その機械を撫で回し、頭頂部の付け根辺りに、土埃が被った突起があり、つい、押してしまった。そして、現在に至る。
「………どうしよう」
ゼノは人型機械を観察し、身の丈を考え、自身も走り辛い樹海に入り込む。当然、背後の機械は頭頂部が引っ掛かるので、左腕で切り落としながら、ゼノを追いかけなければいけない。だが、先程の攻城級の飛び道具はどうしようもなかった。先程の一発で終わりかわからないので、ゼノは左右に身を揺らしながら走る必要があった。ゼノは死の直面に懐かしい気分になったが、改めて馴染む事はできないともわかった。
「僕は………やっぱり逃げることしかできない」
あの屋敷、叔父が呼びつけたありとあらゆる、家督を引き継ぐ為に必要だという教練。刀剣、大剣、短剣を統べる剣術、長柄に属する大刀、鉾槍術、打撃を主とする斧術、棒術、棍術、射突に属する弓術、そして銃砲火器一式、暗器に属する投擲術、身体を凶器とする武術の根源たる様々な体術、それも世界中に広がり、伝えられている流派の全て、それらの至高と言える武人を、叔父は呼び、ゼノの教練に充てた。しかし、その武人達は揃ってゼノには武術の才能が無いと言った。ゼノ自体、やる気の欠片もなく、そもそも闘志が無かった。それらは教練というよりは拷問に近いものであったことを覚えている。体中の骨は砕かれた記憶を孕みんでいる、さらに、ゼノは普段、素肌を見せないように、熱くても袖の長い服装を着込んでいた、それは、体中に裂傷の痕しかないからだ。度重なる裂傷と、それらを縫い合わせた痕、ゼノの身体は無傷な部分より、傷痕の皮膚部分が多い。大抵の人間はそれを見て驚くので、ゼノは悪いと思い、なるべく素肌を見せないようにしている。日々、重傷を負いながらも、それでも、教練は続けられた、常人、ましてや普通の子供ならば死んでいるような仕打ちも受けてきた、それでも、ゼノは死ななかった。というより、死ねなかった。ゼノは遺伝なのか体質的に頑丈で負傷も驚く速度で治る。それが禍になり教練という扱きの範囲では死ねなかった。ヴァリア家の家督を継ぐ人間は、皆、特異体質なのか、普通の人間より頑丈にできていると、ゼノは聞いた。それにはゼノも含まれた。だが、頑丈とは言っても死なない訳ではない、むしろ、厄介な事ばかり、ゼノの母親は死にずらい身体の所為か、病気を患って、長く、苦しみ死んでいった。ゼノは書庫を漁り、上手く隠蔽されていたが、ヴァリア家の当主が真っ当に死んだ事は、一度も無いことを知った。事故死、病死、あるいは他殺。まるで、呪われているかのように。ゼノにとっては正直どうでもいいことではあったが、一度だけ、ゼノは呪いについて人に語ったことがある。大抵の師は教官と呼んだが、心に深く刻み込まれた人にはそれぞれ自らだけの呼称を用いた。凶気と凶器は羅刹に、覇気と拳は豪鬼に、それぞれ印象深い教官を先生と呼び、心の中では別称で呼んだ。呪いの事を伝えたのはゼノが麒麟と呼んだ教官。その先生は極術をゼノに教え込む為、ゼノの元へ現れた。だが、ゼノは天素がまるで感じ取ることもできず、ゼノも意味が無いと思いはしたが、先生はゼノに極術の知識全てを教え込んだ。極術史、国によっての使用形態、極圧武装、極術の効果等。ゼノの頭に全てを刻み込んだ。何故、そのような事をするのかゼノにはわからなかったが、すぐにわかった。ゼノの頭に刻み込んだ知識、極術を全て身体に刻み込ませ始めたのだ。つまり、極術が使えないなら、極術から避け、逃げるしかない、なので、先生は世に溢れるありとあらゆる極術でゼノを攻撃し、ゼノにその回避方法を叩き込んだ。紅蓮の炎で肉を焼かれ、真空の無尽なる刃で骨まで裂かれ、超圧縮した水を身体に叩き込まれ骨格が歪み、空気さえも蒸発じそうな稲光を落とされ内蔵まで焼け焦げ、何百回と瀕死に追い込まれた。本気で死にそうになったとしても、先生が極術を用いて、ゼノの細胞を活性化させ、無理に負傷部分を治し、再度、瀕死に叩き返す。一番、ゼノを死に至らしめたのが先生であった。ゼノが瀕死から蘇る度に、同じ台詞をこう繰り返した、
………うわ、まだ生きてるよ、キモいなあ君。
ゼノは何処まであれが本気だったのか、考えたくはなかったが本気で自分以外の人間を虫けら以下だと言っていた気はした。ゼノは先生の去り際を知らない、何故なら、先生は、ある日、いつもの教練で、いつも通りに死にそうになった時、
………ゼノ、今君が喰らった極術が、私の持つ術の中で一番、人を死なせるに適した術だった、本来、肉体なんて残らないはずなんだけど、君は今回も生き残ってしまいそうだね。私は今日をもって君の教師を辞めさせてもらうよ、何故かはわかっているだろうね、君は逃げてばかりだったけれど、それ故に賢い子だ。武術の才能も無く、極術も使えない、故に恐ろしいよ。臆病な君は気が付いていないけど、賢しい君は気が付いている、万が一、武術の才能が開花し、極術が使えるようになった、そんな万が一の時、弱かった故に全ての強さを知っている君を、誰も止めることができないのだろうね。まあ、そんなことはありえないだろうけど、私は有り得ないその事態が怖いから、君の前から去るよ。ああ、そういえばゼノ、言い忘れた、君は才能が欠片も無いよ。
ゼノはその言葉を白濁した意識の中であったが、一言一句覚えている。鮮烈かつ苛烈、まさしくその権化だったとゼノは今でも思う。
「万が一にでも、僕が強くなるなんて事はないけどね」
溜息と共に吐き出した言葉。そもそも、ゼノは強くなるという意思も無かったし、教練自体、ゼノを殺そうと叔父が企てた道化芝居に過ぎない、もちろん、踊らされるとわかっていたゼノが道化だ。
段々と山の斜面が深くなっていることに、気が付き、ゼノは確信する。下り、重力に身を逆らわず、加速する。
「僕の健脚に恐れを為すがいい………!」
背後を振り向き、ゼノは叫び、樹木の根に引っ掛かり転ぶ。視界が急激に傾き、下りの勢い全てが力を為す。ゼノの顔面に向けて。しばし悶絶。闇に目を奪われているゼノは確かに聞いた、何かが突然の停止に追いつかず、地面と摩擦を繰り広げる音、頭上を大きな物体が通り、空気が揺れ動く。そして、摩擦に耐え切れず、何かが地面との窪みに引っ掛かり、反発し、大きく地面を蹴る音。最後に、近くから遠くへ、何かが落ち、離れる音。で、轟音、破砕音。顔を上げる。
「こ、これは、僕の剛脚に恐れを為したな!」
………って、恐れを為したのも僕で、剛脚を持て余してるのも僕だ。
ゼノは土埃を叩き落とし、緊張しながら斜面となっているそこを下りる。樹木が覆っていた所為で、ゼノは気が付かなかったが、茂みの先は崖だったようだ。蔦を掴み、身体を支えながら、恐る恐る、崖下を覗き込む。人型機械は原型を保ってはいるが、全壊に近く、脚と腕が捥げ、沈黙していた。ゼノは遠くに崖下に続く坂道を見つけ、降りてゆく。
「それにしても、あれは、防衛機構の一種かな………三千年前の機械がまだ動くとはね。モニカは知っていたのかな」
………いや、知っていたに決まってる。寒村や、交流が無い閉じた町では従来、幼子には危険な場所には、行かないように厳しく躾ける傾向があったはずだし。仲間意識が強いならなおさらだ。まあ、モニカなら悪戯で僕を崖から突き落とそうとしても………いや、それはないか。
「それに、崖から落ちたくらいじゃ、僕は死なない……と思いたい」
壊れきった人型機械、頭頂部のレンズには皹が入り、部品と思われる螺子や、歯車、鉄骨、雑多に散乱している。ゼノは胴体部分を傍にあった枝切れで、突いてみる。何も反応が無い、ゼノは機械の腹部に脚を付け、乗っかり、丁度よい部品を探る。中を見てもやはり複雑な機構をしており、幾つものケーブルが入り乱れ、絡み合い、人の心臓に属する部分に繋がっていた。心臓の部分には極術に使われる鉱石が設置されており、ゼノはそれが動力装置として、使われていたと予見し、念のために取り出した。改めて、ゼノは人型機械を見て戦慄する。
「現代で言う極圧武装式、力場形成術の変種、それも自律型、先生に言ったら驚かれるだろうな」
………危険極まりないね。こんなものが地上に流出したら大量殺戮兵器の出来上がりじゃないか。
ゼノは使えそうな部品をまず、広い集め、落ちている木の枝や、生えている蔓を、機械の左腕に取り付けられていた、刃で切り、簡易的な籠を作り、それに部品を入れていく。工具として使えそうなので、刃も持っていくことにした。最後に背負い、ゼノはその場を離れる。ゼノは暗澹とし、機械の残骸を見据える。
「ごめん………君はもうこの世にいない方がいい。作った人間の勝手な都合で必要とされたり、邪険にされる君を、僕は憐れむよ。だから、僕は君を作り出した人間の変わりに謝るよ」
答えを返さぬ鉄の塊にゼノは言葉を残し、淡々とした足取りで降りてきた坂を上る。都市の中央付近にそり立つ、尖塔を見上げる。尖塔を囲むようにして城塞が築かれ、その外側が居住区だ。モニカには城塞に近づいてはいけないと堅く禁じられているゼノ、言われなくとも既に身をもって教訓を得た後、探究心に駆られる事はしない。
………多分、尖塔にあるのは、この都市の核だ。
どんな仕組みで動いているのか、興味はあったが、必要が無いと思い、モニカの家に一端、帰ることにした。
ゼノは僅かな、ほんの些細な息苦しさを覚える。考えてみれば当たり前で、ここは空中都市である。地上と比べて、遥か高くに聳え立ち、気圧が低い。つまり、空気が薄いのだ。吸い込む空気に含まれる酸素量が少なく、当然、ヘモグロビンに酸素が入り込まず、血管を通って体中に酸素が行き届きづらくなり、疲労が溜まりやすくなる。従来で言われる高山病がこれに近い。
………モニカは生来からだから関係が無いのだろうね。
そんな、どうでもいいことに思考を巡らせ、雑草を踏み分けながら、坂を上がり、眼前に見えてくるのは、
「………落とし穴かな」
林道、その中央に、円形に草木が置かれ、地面の表層を隠している。わざわざ、中央の左右に小さな石ころが散りばめられ、さも歩き辛いから、真ん中を通れと言わんばかりに。ゼノが足を止め、林道の端の生垣に近い草むらの奥、目を凝らすと、盛り土が積まれていた。ゼノが首を捻り、考える。
………これは落とし穴というより、唯の穴では?
穴を隠しているというよりは、穴がここにある事を掲示しているような、杜撰さであった。だが、更にゼノは思考を深めた。
………というか、モニカの仕業だよね? 何がやりたいんだろうか。
ゼノは穴に近づき、草木を退けようとと思い、腰を屈め手を伸ばそうとしたが、せず、後ろに飛び跳ねた。ゼノは間合いを取り、かいてもいない冷や汗をぬぐる動作をする。
………危ないところだった。僕はなんて勘違いをしていたのだろう。全ては偽りだったんだ。なんて狡猾なんだモニカさんは。
ゼノの考えは以下の通り、わざと道の真ん中に、それも落とし穴と看破しやすいようにと、様々な証拠を残す。そう、落とし穴と、ほのめかされ、もとい誘導されたゼノが、落とし穴だと、思い、落とし穴を避けつつ道を通る様、もしくは、どれ程の穴かを見ようとする様を、モニカが何処かで見ていると導き出した。
再び、ゼノが推定落とし穴に近づき、屈み、草木を掴み、退かす。
「つまり………これは、落とし穴に偽装した、平らな地面だ!」
穴が開いていた。
ゼノは暫し、沈黙。すっと立ち上がり、両手で顔を塞ぎこみ、棒立ちのまま数分。
………穴があったら入りたい………で、入った。
再び沈黙。穴の中で尻餅を付き、両膝を抱えるようにして時を過ごす。日差しだけがゼノの白髪を照らす。
………な、なんというぴったり感! もしかして、僕はこの穴の中で生きる為に生まれてきたのでは!?
そして、蝉土竜の一生に対して慎ましやかに想像をはべらし、時を過ごす。
「………あ、危ない、蚯蚓に憧れるところだった!」
今度こそ冷や汗をかき、穴から身を乗り出す。収集品を背負いなおし、穴を見下ろす。
「っていうか、この穴、僕に誂えて掘ってあるしさ」
ゼノはそのまま、同じような落とし穴を三つほど見つけた。益体も無く設置されている落とし穴にゼノはいい加減、辟易していたが、疑問も残る。
………モニカがこんな下らないことするだろうか?
そもそも、穴を掘るという、肉体を行使する様が想像できない。
………あの細い身体の何処に力があるのだろうか、いや、もしかして、モニカ以外に誰かいるのだろうか。
そうに違いないとゼノは確信する、そもそも、少女が無表情で一心に穴を掘り続ける様は精神衛生上、あまり好ましくない絵である。
………そうさ、あのモニカがこんなお茶目な事をするわけが無い。
で、これでもかと、穴を掘っている桃髪の少女がいた。無表情で、一生懸命もとい一心不乱に。そんな様を見て、ついゼノは瞳を擦り、幻で無い事を認識させられる。
………うわあ、ざっくざっくだよ。
ゼノは直ぐさま木陰に身を寄せ、モニカの視線上から逸れた。モニカは周りを見渡し、また掘り進める。掘り終わったようで、モニカはなにやら木の先端を異常なまでに尖らした、大きな棘を取り出し、それを何本か穴底に設置しているようだ。やがて、それも終わり、余った棘の先端におそるおそる触れ、身を震わせ棘を手落とす。かなり痛かったようで、屈んで、小刻みに震えながら我慢しているようだ。モニカは穴の中と、地に落ちた棘を交互に見て、やや思案顔で首を傾げる。確かにゼノは聞いた。
「………少し死ぬだけ」
「………いや、少し死ぬも、多く死ぬも同じだからねモニカさん!?」
「………!」
「何に驚いたのか知りたいよ僕は!」
モニカは慌てふためくことを忘れたように、瞳を瞠り、立ちすくむが、直ぐに眠たげな瞼に戻り、視線を細め、ゼノを睨む。
「え、僕が悪い流れ!? あ、謝らないよ僕は、ごめんなさい………あれ!?」
ゼノはモニカの視線に耐え切れず狼狽する。理論ではなく感情で押し切られてしまう少年、何も悪くないのに、悪いと感じてしまう悪癖を持つゼノ。
「………ゼノは何も見なかった………復唱」
「う、うん、僕は何も見なかったよ」
ゼノは言われた通り、言葉を繰り返す。モニカは素早く穴の上に草木を隠し、落とし穴の横に回りこむ。そして、何か期待するかのように無言でゼノを見つめる。
「ごめんモニカさん、やりたいことはわかったけど、ここを踏んでしまったら僕の尊厳が失われるっていうか、モニカさんて結構間抜けだよね」
………言った! 言ってしまったよ僕! というか、僕は元々、女の子、それも年下に舐められる事が耐えれるような人間じゃないのさ、ここらで、僕とモニカの立場っていうものをはっきりしなきゃね。
「………………………………………………………………………………………………ゼノ」
土下座しているゼノとそれを見下ろすモニカ。
………あれ!? 立場はっきりしてないこれ!?
尋常ではない凍るようなモニカの視線による金縛りに、ゼノは恭順の意を体現する。。
「………一度目は無い」
「情状酌量の余地も無し!? ………っていうか一度目じゃもう僕、終わりだよ!」
「………人は後悔無しには生きられないもの」
「尤もらしいけど後が無い人はどうすればいいの!?」
モニカは答えず、歩き出す。無視されたゼノは慌ててモニカに付いていく。
「ね、ねえ、モニカさん、無視は良くないと僕は思わなくもないような………」
モニカは諂うゼノに見向きもしない。ゼノは大いにへこむ。
「もしかして、さっき僕が間抜けと罵倒した事にまだ腹を立ててるのかな………だったら、言い換えるよ、モニカさんは間抜けではなく………そう、頭が抜けている! え、なにモニカさん、まるでその馬鹿を見るような目は」
「………馬鹿にしてない、馬鹿げた位、馬鹿な馬鹿がいると思っただけ」
「今、何回も、馬鹿って言ったよね!?」
「………何回?」
「え? ええと、馬鹿げた位、馬鹿な馬鹿が馬鹿なことをしたから、さらに馬鹿になって馬鹿にされたと………だから………七回!」
「………本当にゼノは馬鹿」
モニカはゼノを横目に、ゼノが持つ刃付きの左腕を目にし、
「………物騒」
「ああ、これ? いや、いい感じに切れそうだったから」
「………ゼノの首が?」
「モニカさん、実は根に持つ人でしょ!?」
モニカは早足で、ゼノを置いて遠ざかる。
………かなりお冠みたいだ。そもそも、罵倒されたことなんてないのかも。
ゼノは早足にモニカを追いかけると、小屋の前でモニカが立ち止まり、振り返る。
「………おかえりなさい」
「………あ、ああ、ただいま?」
モニカはゼノの言葉を聞き取り、小屋の中に入っていく。扉が閉まる音を聞きゼノは呆然と立ち尽くす。モニカの行動は不透明だったが、ゼノは一つの推測を立てた。
………もしかして、あれを言う為に僕を足止めしたかったのかな?
ゼノは流石にそれは無いだろうと思いはしたが、モニカは何処か抜けている気はするが、賢い子であり、無意味な事などしないとゼノは考えている。
「………まあ、義理に厚いのか………それとも、まさかね」
ゼノは自分にとって良い可能性は全て捨てることにしている、常日頃、裏切られる悲しさを回避する為の防衛手段として。
兎にも角にも、ゼノは小屋に入ることにした。モニカには事の真偽を聞く気はゼノには無かった。無粋な気がしたからだ。
空中都市ヴィーズ、その周りには常に侵入者を遮る、霧雲状の古代結界が常備されている。雲霧の表面には物理障壁が張られ、突破を試みたとしても、防衛反応として轟雷に襲われることになる。更この霧雲は天素を多く含んでいるのか、船体の操縦機器を全て狂わせる。肉眼で確認しようとも視界は白一色であり、脱出するには、重力に従い落下するしかない。雲霧の前に船影が一つ。
月影の国ラングレン、君主制度を取り、現在、防衛を主とする国家である。それは二十年前程に勃発した太陽の国サロアルとの戦争において、疲労した結果ともいえる。それでも、バベリア十国の一つで、着実に力を蓄えているというのが各国の読みである。
ラングレン国家直属秘匿研究組織レイトーラ所属研究員、トリス・ベゼット。二十歳前という素直に麗しい女性と賞賛するには少しばかり早い年齢だが、それでも、彼女の知的かつ柔和な雰囲気には誰もが惹かれるだろう。長い金髪は腰にまで垂らされ、絹糸のような滑らかさを持つ事が人目でわかる。少女の持つあどけなさを微かに残す、ひたすらに美麗な女性。凛とした雰囲気の中に独自の清涼感を漂わせ、それがおっとりした感じをもたらす。つまるところ、美人特有の誰も寄り付かせない空気ではなく、人当たりが良いということだ。そして、実際に慕われる事が多い。服装は軍服に近いが、一線を画する独特の白い戦闘服だ。それでも、彼女が着ると無骨さは無くなってしまうのが不思議ではある。
レイトーラ保有、雲雀級航空型戦艦メリッサの艦内、操舵室。極術を利用し、熱機関を動かしプロペラを回転させ、推進力を生み出し、風を圧搾し送風することにより船体の吊り合いを維持しながら飛行する。レイトーラ局員、数十人が各々の役割を理解し、確実に職務を全うする。トリスは眼前に広がる、巨大な雲霧との対峙にいい加減辟易していた。
「艦長、風嶺石と火陽石の備蓄はどの程度ありますか?」
座席に大きく座り、髭を弄る仕草が堂に入っている痩躯の老人はその問いに答える。
「………そうさなあ、あと四日程は補給無しでいけるが………その間にこれをどうにかするのは無理って話ではないかねえ、トリスちゃん?」
「………トリスちゃんって………私、十九ですよ? さすがに恥ずかしいです」
トリスは呆れるが、その様を艦長はむしろ楽しそうに囃し立てる。
「ワシは知っておるぞ、トリスちゃんが未だに頭を洗うときに目を瞑りながらでないと洗えないということを!」
操舵室の全員が耳を傾けており、艦長の言葉と共に操舵室の人員全てが振り返る。創舵手までもが。トリスは狼狽して艦長の襟首を持って詰め寄る。
「………な、なんでジェミルお爺ちゃんが………そんなことを知っているの? それに、もう私は目を瞑れないで頭洗えます!」
「嘘じゃ! レミーお嬢からワシは聞いたぞい!」
「………レミーのお馬鹿」
トリスは操舵室を見渡し、全員に聞かれたことを悟る。トリスは引き攣った笑顔で精一杯に乞う。
「………皆、秘密ですよ」
局員の全てが顔を見合わせ、一様に頷く。トリスはほっと息を吐くが、通信員の一人が艦内放送の機器に電源を入れる。
『………全乗組み員に告ぐ! 非常事態発生、非常事態発生、緊急時の為に、各員作業を中断し傾聴せよ』
「え、な、何やってるの?」
トリスは局員の行動に困惑するのみ。構わず、通信員は息を吸い込み、叫ぶ。
『………トリスさんはお風呂で目を瞑らないと頭が洗えないんだってさあああああああああああああああ! やっべえ! 俺、興奮しすぎて変な汁が耳から出てきたんだけど!?』
艦内に放送が響く。一拍艦内に静寂が置かれ、瞬間、雄叫びが戦艦に溢れる。操舵室でも全員が、やべ、俺、耳から白い汁が! 俺なんてもう顔面が真っ白だ! おい! 誰か修正入れろ、このままじゃ公共の場に出せないぞ、何? 意味がわからないだと、俺もわからない! などなど、やや、奇矯な会話が入り乱れている。トリスは狼狽し、顔を上気させ、混乱している。
「ちょっ!? 放送中止して! 何してるんですか!」
間髪入れずにジェミルお爺ちゃんと呼ばれた艦長が付け加える。
「トリスちゃんは密かに十五まで、箒を股に挟んで飛べると思って毎夜練習してたりして、いつも股の間をもじもじさせておったぞ!」
「………な、なんで知ってるんですか!? ………いえ、そ、それは誤解で………!」
「じゃあ、毎夜、箒を股に挟んで、唸っていたのは何故じゃ?」
「そ、それは………そう! 実は股で物を挟む力を強化する為の練習! あ、あれ?」
戦艦内どころか、世界までもが息を止めた。
「………トリスちゃん、さすがにお爺ちゃんも弁護できんわそれ」
艦長の目線に仄めかされ、艦長席の機器、その一つの電源が入っていることに気が付く。そこには小さな紙が張られている、艦長艦内通達音声と。トリスは青ざめる。艦長は帽子を深く被り視線を落とす。
「………お爺ちゃん悲しいわい」
通信員が再び、電源を入れ、音声入力端末に向かい、息を吸い込む。
『………聞いたかよお前等は! トリスさんは十五まで箒で飛べると思っていたってさ! 可愛いいいいいいいいいいい! で、なんと、実は素股でその、ものを、挟み込む練習してたんだぜ! もじもじだぜ!? 俺、なんで箒に生まれなかったんだ!?』
今度は雄叫びではなく奇声が艦内に満ちていった。
お、俺を挟んでくれ! おい! お前、耳から液体が垂れて、床がねちょねちょするぞ! うわ! 操舵主が白目剥いてるぞ! 耳に糊でも流しとけ!
トリスは耳を塞ぎながら、放送をやめさせることにした。
「ちょっと、通信員! 怒りまちゅっ………怒りますよ!」
………噛んだ。何でこんなときに噛むの!?
『………! 総員、トリスさんが怒りまちゅってさ!』
「「「雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄――!」」」
………どうしてここは変な人しかいないの!?
操舵室の全員が一様にトリスへ怒ってくだちゃいと、幼児語で迫ってくる。トリスは少々、後ずさりしたが、一度、顔を伏せ、無表情に面を上げ、尋ねる。
「………艦長、少しばかりオイタが過ぎる人には、躾が必要ですよね?」」
空気が破裂しそうな程に、張り詰める。局員は全員、冷や汗をかきだす。普段、冷静で凛とするトリスが慌てていたので、つい羽目を外してしまったと、皆一様に後悔する。トリスの指輪に嵌められている黄金色の宝石に僅かな光が灯る。そして、乾いた葉っぱが破れる微弱な音が響く。ついで、奇声を上げて、局員たちが身を震わせる。
「動けるはずですから、さっさと働いてください、もう!」
各自、ぞろぞろと屍のように座席に戻る。最後にトリスは艦長と向き合い、付け加える。
「艦長は帰還してからレミーと一緒に話し合いをさせて頂きます」
「うわあ、トリスちゃん敬老精神の欠片も無い非行娘になっちまって、まあ」
「死にますか? 生きませんか?」
「それ、どっちも死んどるよトリスちゃん………」
トリスは無視して初めの問題に思考を巡らす。トリス達がこの空域を巡航し始めたのは一日前、ラングレンとレイガスの国境配備隊が突然、ありえない天素の塊を発見した。兵士の話を統合すると、午後、いつも通りに、隣国の極圧戦略兵器に対する天素感知図を見張っていたら、突然に警報が鳴り出し、見れば、探索範囲いっぱいに天素の反応が出ていた、しかし、それは一定の間隔で消えたりした。故障だと思い、肉眼で上空を望遠鏡で見ると、やはり青空しか無かった、しかし、それから突然巨大な雲霧が眼いっぱいに広がった。目を凝らすとそれは警報の音と同時に消えたり現れたりを繰り返していた。そして、ラングレン本部に連絡が入り、他国の新型極圧兵器かと声が行き交った。そこで、それに思い当たりがあるレイトーラの長が声を上げ、調査にトリスが派遣された。それが事の顛末である。
座席に腰を落ち着かせ、トリスは雲霧の正体に思いを馳せる。それは、トリスがレイトーラに入ってから長年、捜し求めていた力。本部は早急に事態を解決しろとは言うが、雲霧に遮られ突入はおろか目標を視認することも叶わない。
………目の前にあるのに手が出せないなんて。
トリスは知らず知らず、正面硝子の向こう側に佇む雲海に手を伸ばし、何も無い宙を掴む。それは欲望でもなく、願望でもなく、切望だった。
ジェミル艦長は横目でトリスを盗み見て、誰にも聞こえぬようにひっそりと溜息を吐いた。
トリスが搭乗しているレイトーラの戦艦と雲海を挟んで、丁度その反対側に一機の小型飛行船が、雲海に遮られ周りを飛びまわっている。度々、積まれた機銃を雲霧に向かって放っているが、直ぐに不可視の壁面に当り、弾かれる。やがて、高空で烈風が吹き乱れる中、ハッチが開く。一人の男がやおら座席の上に立ち上がり、手に余りそうな程に大きく無骨な銃砲を構える。銃側面に赤い宝石がはめ込まれ、輝き出し、銃口から赤い光が煙のように漏れ出す。
男は銃把を握り締め、雲霧に向かって引き金を引く。空気を震わす轟音。銃口から紅の光を伴わせた銃弾が放たれ、紅い帯を引きながら雲海の障壁を突き抜ける。一瞬、雲海が晴れたが、銃弾が纏っていた光が途絶え、雲海の最深部にまで辿り着く事はなかった。
「おいおい! どれだけだよ………」
男は乱暴に座席に座り込み、ハッチを閉じる。ゴーグルを外し取り、男の素顔が露になる。初めに野性的という印象を受けるのはその眼光の鋭さからだ。くすんだ赤髪を逆立て、如何にもならず者と言わんばかりだが、実際、生傷の耐えない横顔から彷彿させるのは精悍な青年のそれだ。だが、青臭さは微塵も無く、垢抜けた雰囲気を持ち、独特の強かさを持つ事が伺える。つまるところ、性根は悪くなりきれない人間ということだ。
ジギー・ジャンド、それが彼の名だ。無法者、ならず者、財宝探求者、どれもが彼には当てはまる。狭い搭乗席で頭を抱え、これからの事を模索している。
「ちくしょー………こりゃ情報もガセじゃねえな、本物を引き当てちまったみてえだ。そうするとこのデカブツは本当に………」
ジギーは昨夜、馴染みの財宝屋から耳につく情報を聞き入れた。ラングレン国境に異常な雲海が発生し、隣国の新型戦略兵器との情報が軍内部で交錯していると、それはラングレンのみではなく、ラングレンに近い各国にまで伝播していると。ジギーはその巨大な雲海について見当がつき、そこにある財宝を想像した。だが、何故、今、突然に姿を現したのか、理由がわからないので、唯の偽情報とも思いはしたが、放置していいような情報でもなかったので、実際に見に来た。そして、案の定、障壁が張られ、身動きができない状態にある。
「やばいな………早く中に入らないと、ラングレン軍が来ちまうな。それに、これがここにあるって知ったら、あいつらが来ない訳がねえ、ああ、もう、どうすっかな」
言葉にすればする程、手詰まりだと思い知らされ、ジギーは愚痴を止める。飛行可能時間は三日程、一端、地上で機体を休める必要もあり、なんとも気が滅入るとジギーは嫌気が差した。
「つうか………なんで成行き不明に出て来やがったんだよこいつ」
得ていた知識において、天素探索、光学歪曲、不可視障壁など、外敵を寄せ付けない様々な能力を持ち合わせたこれは、ほぼ半永久的に姿を現す事はしないと、ジギーは認識していた。だが意に反しそれが現在簡易的な天素探索に引っ掛かり、肉眼でも視認可能というように、隠密機能を失いその姿を露にしている。ジギー自体、伝説、御伽噺、その程度だと思い、大して信じてはいなかったが、実物を目の前にして、そうは言えない。
………何千年も姿を現さない奴が、今更、現れたってことはだ………。
船体を大きく雲海から離し、距離を取る。
「あの中で異常事態が発生した………更に言えば、肉眼で見えるってことは、力が弱まって防壁機能しか残せていないってことだ、もしかしたら、何処かに雲の薄い場所があるはずだな」
ジギーは大きく船体を揺らしながら、雲を一回りする事にした。小型飛行船に備わっている天素探索機能には本来ならば光点として、他の船体が液晶面に映るが、今は特殊な雲霧の所為で画面一杯に反応があふれ出し、あてにならない。肉眼で確認するしか無い
事態である。ジギーとしてラングレン軍との遭遇を忌避したいが、選択肢の無さから賭けに出た。ジギーとしては死線を渡る事は常だった、そうでなければ、何も手に入らないと知っているからだ。
日が翳り、静寂を持て余す程の夜を迎えようとする頃、地上では世を嘆くように鳴く虫達の多重奏が満ち、帰巣本能に従い家路に着く鳥類の遠い鳴き声を聞いているだろう。
滅多に波紋の起こる事が無い、水鏡のように澄み切った湖の水を、ゼノは桶に柄杓で汲み取る。ふと、自身の顔を映した水面に目線を落とす。
………二日目か、明日からは部品も揃ったことだし、本格的に修理に入るかな。多分、翼の部分だけだから、そう時間はかからないかな。
ゼノは白髪を揺らし、水面に映った表情が残念そうにしているのに気が付く。どうしてだろうと思う自分に、わかりきっているという自分がいることにゼノは気が付いていた。
………僕はここにいたいと思っているのだろうか。
ゼノは久しく忘れていた、その感覚を。自分という人間に向き合うということを。
………確かにここには僕にとっての敵はいない、そして、人はモニカしかいない。そう、僕にとって、モニカは敵でなく、一緒にいて居心地がいい。
湖の遠方に続く清流の源たる滝が落ち、水面を荒らし、砕く音、ゼノの耳には全く聞こえなかった。
………だけど、僕がここに長く滞在することに、モニカは良い顔はしない、むしろ、煙たがっているとさえ………感じる。
一陣の疾風が森林を揺らし、枝葉が大きく靡き、互いに擦りあい、乾いた音を奏でる。
………僕自身、それ程人との交流、出会いは少なかった。僕にとって敵ではなく、傍にいて平気だった人は母、姉、幼馴染の三人。でも二人は死んで、一人は僕に毒を盛った。
橙に染まった夕陽が一帯を照らし、陰が一刻一刻、薄く身を伸ばし、ゼノ自身の影は水面に沈む。
………モニカは一族の帰る場所であり、故郷であるここを、僕が踏み荒らす事を望まない。
遠くの空で星々が我先にと言わんばかりに、一点の曇りなく煌き輝く。
………結局、ここも僕の居場所ではなく、まだ彷徨い続けているんだな僕は。
風が不吉を告げるように木々をざわめかせ、それは、ゼノから最も近く、遠い場所から忽然と現れた。
「ぐっ………!」
………奪え、奪え、奪え、全てをその手の中に。人格も財産も地位も権力も精神も肉体も過去も未来も現在も怠惰も欲望も嫉妬も矜持も懊悩も快楽も悲哀も憤怒も希望も絶望も慟哭も、奪い、貪り尽くせ。
ゼノは体の内側から食い破られるようなおぞましい痛みに倒れこみ、四つん這いになる。頭ではなく、心、さらに言えば、魂に直接、鈍痛のように響く、誰かの声。この声をゼノは誰よりも知っているが覚えていない。
………何を躊躇う、何を怖がる、何を驚く、全てはお前という存在が望む事、お前にはそれしかない。何も持たない故に、お前は略奪、簒奪の輩、全てを望みながら、お前は未だ何も満たしていない。
ゼノは片方の瞼を苦悶を我慢しながら見開き、そして瞠る。水面に映るゼノの姿、それが口を開く。
………お前は、私だ。それは輪廻の果てから定められている。さあ、喰らえ、全てに逆らい、己が運命だけに従い、そう、まずは………あの娘から………。
瞬間、ゼノは水面に映る姿に向かい、本能的に拳を叩きつける。飛沫が上がり、水面が揺れ動き、波紋が広がる。ゼノは呼吸を荒げ、暫し、その体制で佇む。もう、声は聞こえない。
「………逢魔が時の悪い夢だ」
気が付けば、すっかり暗く、足元さえ覚束ない程であった。ゼノは汗を拭い、夢だったのだろうかと疑う。
「………でも、何か忘れている、僕は」
ゼノは立ち上がり、桶を持ち上げ、踵を返す。未だ頭が重く、身体の芯から倦怠感が付きまとう。落ち葉を踏みしめる音が妙に不愉快で、なるべく避けて歩いていた。
小屋の前にまで辿り着き、換気の煙突から、煙が立っている。薄暗い闇の中、ここにいると言う様に小窓から光明が漏れ出し、ゼノを導いてくれる。ゼノはなんとなく、扉の前で立ち尽くす。
………僕はここに帰るべきではないのかもしれない。
モニカがゼノの帰りを望んでいないとしたら、度々、裏切られてきた自身がそれを予兆し、先程の悪夢を見せたのかもしれないとゼノは想像する。
………僕は。
取っ手に手を掛け、逡巡する。だが、ゼノが開けるでもなく、扉は開かれた。
「………遅い」
モニカが扉を内側から押し開き、ゼノを見る。ゼノは何も言わず呆然とモニカを見つめる。そんな様子をおかしく思い、モニカは首を傾げる。
「………ゼノ? どうかしたの?」
「あ、いや、その、僕はここに帰って来ていいのかなと、思って………」
「………? ゼノはここじゃなくて、野宿でもするの?」
「そうじゃなくて、モニカさんが嫌々、僕を泊めているなら、僕は………野宿でいいかなと、思って」
ゼノは俯き、最後の言葉を自分でも信じられない位、苦々しく肺から搾り出す。モニカはその言葉を聞き、ゼノが言う大体の意味を捉え、今までに無い位、目を細め、ゼノを睨みつける。
「………私は、嫌なことなんて絶対にしない。それとも、ゼノは私が、そこまで情け知らずだと思ってる? それなら、私はとっても不愉快」
「そんなこと思ってないし、それはありえないよ」
ゼノは迷い無く即座に答えを返す。モニカはゼノの言葉を聞き、満足したのか、いつも通り眠たげな瞳に戻っている。
「………なら、おかえり」
モニカそれだけ言い、ゼノが汲んできた水桶を受け取り、調理に戻る。ゼノは呆けたように再び立ち尽くす。それは信じられなかったからだ。モニカの言葉を聞いた瞬間に、身体に降掛かっていた倦怠感、暗く濁った鬱屈した気持ちが嘘のように消失し、じわりと心の奥底から温かい何かが溢れ、ゼノを満たしてくれた。
………都合がいいなあ僕は。
なら、やる事は一つとゼノは思い、モニカの後を追い、慣れない言葉をモニカの後ろ姿にかける。
「ただいま」
その酷く不器用な声にモニカは、誰も気が付かない程度に、表情を和らげた。だが、直ぐにいつも通りの感情を見せない顔に戻し、振り返る。
「………座ってて」
ゼノは従い、腰を楽にする。小屋には材料を切る為に包丁が子気味良く音を立て、ゼノは頬杖を突きながらつい聞き入る。夕餉の準備に勤しむモニカ、その後姿を見ていると、ゼノは段々と何も考えられなくなり、瞼が重くなっていくのを感じた。やがて、うつらうつらと自然と脱力、テーブルに腕を付け枕代わりにし、身体を預ける。まどろみの中ゼノは今が現なのか夢なのかわからなくなる。
………なんだろう、どうして、こんなに、安らぐんだろうか………。
やがて、小さな寝息を立て、ゼノは安楽の中、休息をつく。
背後の気配を敏感に感じ取ったのかモニカは調理の手を休め、振り向く。
「………ゼノ、寝てる………?」
モニカはゼノが起きていない事を確認すると、椅子を引き腰掛け、テーブルに突っ伏す、ゼノの寝顔を見つめる。決してゼノには見せない、険の無い、やや穏やかな表情で。
「………疲れてた? さっきは顔色悪かったし、今はそうでもないけど」
モニカはおそる、おそる、無意識にゼノに向かい手を伸ばす。指先は震え、まるで怯えているように。それはゼノの白髪に触れそうで、触れない微妙な所で止まる。
「………ゼノは、私とは違う。でも、少しぐらい………」
戒める自身に、それを否定し、葛藤する。ゼノは片方の腕を枕に、もう片方はテーブルに伸ばしている。その手の甲にモニカは手を重ねようとする。
「………ん」
「………!」
ゼノが僅かに身じろぎ、モニカは慌てて重ねようとしたそれを後ろでに隠す。モニカは平常心を保ち、ゼノが瞼を開けるか、見ていた。覚醒の気配が感じられない事を悟り、モニカはそっと息を吐く。そして、ゼノの袖が僅かに捲れた部分から傷跡が覗く。
「………?」
再び、ゼノが何かを掴むように腕を彷徨わせ、ジャケットの袖が大きく捲れ、肘までが露になる。モニカは息を呑む。
「………これ、傷………ひどい」
爪、指先、手の甲、平、肘までの腕部分まで、裂傷、火傷、打撲跡、様々な傷跡が、多重に重なり、無傷の部分がほぼ無い。モニカは驚き、ゼノの顔を見る。常に苦笑やら、陽気な表情が浮かぶ顔、改めて注意深く、見る。やはり傷跡だらけ、額には上手く隠れているが大きな傷跡が前頭部までに続き、目新しくは無いが、細かな傷跡が刻まれている。ゼノが首をもたげていることで、首筋の襟部分が撓み、腕と同じように複雑な傷跡が覗かせる。ふと、ゼノが上着を目の前で脱いだりした事が無いのに、モニカは気が付いた。モニカは眉を寄せ、痛ましげにゼノに語りかける。
「………変わった人。下界は、皆、同じなの? どうして、こんなにされて、笑えるの………」
出会ってからしか、ゼノについてモニカは何も知らない。それでも、苦笑の中に陰が潜んでいたことに気が付いた。
「………ゼノも、我慢してたんだ」
モニカは聞いた、誰も信じられなくなり、誰にも会いたくないから、逃げてきたと。モニカに、まるで、罪の独白のように、まるで、断罪を乞うように。朴訥で、気の弱い少年、けれど、か細いが確かな良心を持ち合わせる、少年。だからこそ、モニカは出会わなければ良かったと思う。望んだ事なのに。
「………ゼノ、どうしてここに来たの? どうしてここに来れたの? 時さえも尽き果てる、永劫の理に逆らったバベリアの庭へ」
モニカの心に微かな希望が生まれた、しかし、有り得ないと、心の奥底へと無意識にそれは仕舞われた。
俯き、己に言い聞かせるよう、呟く。
「………願っては駄目、縋っては………駄目」
悲痛さを帯びた少女自身を戒める言葉、それは嘆きに酷似していた。
「………う、うん?」
同じ体制に凝りが溜まり、身体をずらしたことで、ゼノはうっすらと瞼を開き、目の前にいるモニカを視界に入れ、袖が捲くれている事に気が付き、慌てて元に戻す。苦笑しながらモニカに失態の是非を尋ねる。
「ご、ごめん、つい眠くなって………僕、何か変な寝言でも?」
「………いやらしい」
モニカは何気なく口に出した。ゼノは見る間に、落ち着きを無くし、狼狽を隠せないでいる。
「ええ!? ぼ、ぼぼぼ僕にやましい所なんて、すすすす少しも………」
「……………………どうしてそんなに慌てるの?」
モニカは声が何故か低くなるのを感じながら思う、やはり、ゼノは変だと。
夕餉を平らげた後、ゼノは小屋の隣に創られている、四方を板で囲まれた小部屋のような湯浴み場で、余りある木々で沸かしたお湯を、石造りの湯船に張ったものに浸かり(もちろんモニカが先であった)、就寝を残すのみだった。
ゼノは基本的に男女の関係に無頓着ではあったが、それでも若すぎる、それも出会ったばかりの少女と少年が同室で就寝を共にするのには、いささか道徳上は健全では無いと思った。ゼノは野宿など教練の関係で慣れているので、どのような劣悪な環境でも寝れる自信があった。それを、モニカに提唱したが、あっさりと否定された。モニカ曰く、ゼノは信じれる以前にそういう事が出来る人ではないと断言された。どうして、警戒して距離を取る事を止めないのに、とゼノは不思議に思いはしたが、やはり、人間という種は同じでも男女は別の生物だと考えるのが妥当と判断し、女の子はわからないとゼノは深く思う。
夜中、小屋にはベッドが二つ、毛布に包まう膨らみは二つ。ゼノとモニカ、ゼノは暗い闇の中、明りは窓から差し込む柔らかな星光のみなので、ジャケットを脱ぎ、薄着一枚のみ。モニカは母が誂えてくれたらしい、刺繍入りの寝間着、ゼノの見立てでは、モニカの母はよく娘を見ていたようで、とても、モニカの姿にそれは馴染んでいた。お互いの息遣いまではわからないが、それでも、寝返りの毛布を擦る音はよく耳に入る。ゼノはどうにも、横になって眠る事に慣れる事はできそうになかった。毎夜、暗殺者の襲撃に怯える日々が、必ず何時でも逃げれるように、椅子に座って寝る習慣を覚えさせた。ふと、ゼノは横目にモニカを見れば、毛布を頭にまで掛け、ベッドの中に潜りこんでいる、どうやら、それがモニカの眠り方のようだと、ゼノは安易に決め付ける。モニカとしてはゼノに無防備な寝顔を見せたくない一心なだけではある。ゼノはここの寝床は己には安全過ぎて落ち着かないと思い、身を静かに起こしジャケットを羽織り、忍び足で小屋から出る。
夜、都市ヴィーズ、その成れの果て。現在、ゼノとモニカ以外、生物は存在せず、当然、人為的な光明が焚かれることは無く濃密な闇が溢れ、昼間より更に寂しそうに夜風が都市に吹きつける。
小屋の傍にそびえる丘に立ち、ゼノはこの都市で唯一雲を纏わぬ空、天蓋を見上げる。
「………」
空気が澄んでいる所為か、地上で見る夜空よりとても近く、月と星達が大きく眼前に広がる。淡く煌く星もあれば、泰然と輝く恒星もあり、ただ一つ月だけは揺るず地上を見詰めている。下界から遠く離れた天上、人が最も恋焦がれた彼方、神々の座、決して辿り着けぬそこに最も近い場所、今、ゼノはそこに立っているのだと感慨深げに思い立つ。
「………この空を見れば、少しは………ご先祖様の気持ちがわかるかな………」
ふと、都市の中央に聳え立つ尖塔が目に付く。まるで、天に居回す神を傲岸不遜にも咎めんと刃を向けているようだとゼノは思う。
「やっぱり、ここは………それに、そんなところに神はいない」
………もうこの世に神なんていない。いるのは神の遺骸に執心する残留意思だけだ。
嘲笑、あるいは自虐的な陰がゼノの顔に覗かせた。
「ゼノ?」
背後から突然、声を掛けられ、ゼノは慌てふため、振り返る。
「モニカさん………」
モニカは薄いストールを羽織り、身体を両腕で抱きしめるように近づいてくる。普段一つに括っている髪は無造作に解かれ、ゼノは雰囲気が変わるものだと驚嘆した。若干距離を取り、ゼノの顔を覗き込むように問う。
「………眠れない?」
「うん。だから、少し、夜風に当たろうかと思って」
「………そう、なら私も当る」
そして、息遣いを感じさせぬ都市を一望できるその場に膝を抱え座り込む。肌寒い夜風はモニカにとっては毒だと思い、ゼノはモニカの気遣いを心に留めるだけで、戻るように仄めかす。
「風邪ひくよ?」
「………平気、私、頑丈」
………いや、それは嘘でしょ。
とても、頑丈には見えない、むしろ霞みのように儚げでさえあるモニカの肢体、柔らかそうで、今にも壊れてしまいそうモニカの華奢な姿を見て、ゼノはそう思った。ゼノはモニカが意固地とわかる場面を少なからず見てきた、今回も無理だと思い、同じく青芝が繁るそこに腰を下ろす。
「正直、こんなに穏やかな気分で星空を見上げたことは初めてかも」
「………これから、もっと見ればいい。ゼノには時間がある」
「それはそうだけど、やっぱり、僕にとっては下界で見る星空と、ここで見る星空は違うからさ」
「………どうして?」
「僕に限らず、世界中の皆人は心が荒んでいるんだ。戦争が絶えない国がほとんど、僕のいた国は戦争には直接巻き込まれなかったけど、皆、それぞれ何かと戦っていた。だから、何時しか人は、倦み疲れ、空を見上げなくなる。たとえ、一時、夜空を見上げたとしても、余裕を持てない人にとっては胸に響く事はないだろうね」
「………ゼノも戦っているの?」
ゼノは曖昧に濁すか迷ったが、答えを望むモニカの瞳を見て、素直に語ることにした。
「僕は、一度も戦ったことはないよ。僕は弱いから、逃げる事しかできなかったんだ。だから、僕はここにいる」
「………臆病者」
モニカは冷たく言い放つ。ゼノは、そうだねと、いつもどおり曖昧な態度を取ろうとしたが、できない。モニカは言葉を続ける。
「………でも、逃げているなら、ゼノはまだ負けてない、何時か振り返って、勝てばいい」
「………だけど、勝てないよ」
………僕はどうして、こんなに弱くなってしまったのだろう。どうして、僕は抗う事をやめたのだろう。
「………本当に臆病者」
ゼノは今度こそ苦笑することに成功する。モニカはゼノの痛々しい笑みに、深い溜息を吐き、両膝に顔をつけ、そっと呟く。
「………でも、だから………」
「………? どうしたのモニカさん」
顔を上げ、モニカは不機嫌な顔をゼノに見せる。
「………思い出した。ゼノには大事な人がいる?」
「………は? どうしたの藪から棒に」
「………お母さんが言ってた、大事な人がいれば、その人は心も身体も強くなれるって、だから………」
ゼノはモニカの言葉を真摯に受け止め、心に浮かぶ人が誰もいない事に今更ながら、己が如何に、生きているふりをした、屍のような人生を綴っていたと自嘲する。
「誰もいないや、だから、僕は弱いのかな?」
モニカはその言葉に何か言いたげに口を開くが、それを引っ込め、目を伏せる。その態度にゼノはどうにも何か悪いことをしてしまったと、苛まれる。
「え、いや、ほら、別に僕は大事な人がいなくたって生きていけるから、今までそうだったし、モニカさんが折角教えてくれたけど、やっぱり、僕はね………」
ゼノは言葉を切り、後が続かない。
「………いないなら、探せばいい。だから、ゼノは早く下界に降りて、探してあげないと駄目、大事に想える人のことを」
酷く重みのある言の葉にゼノはふと、疑問が浮かぶ。
「あれ、じゃあ、モニカさんの大事な人は?」
しばし、モニカは逡巡し、至った結論を述べる。
「………多分、一族の人達、皆だと思う」
「そっか、じゃあ、一日でも早く、帰ってくるといいね」
「………だといい」
ゼノは心の底から、初めて誰かの幸せを願った。それが、己にとって何を意味していたのかも考えずに。
………大事な人か、僕には関係無い話だろうな。
ゼノは貴重な考え方を反芻し、それでも、やはり、思考は暗の淵に辿り着いてしまう。唐突に、本当に突然、モニカが立ち上がる。そして、ゼノの耳が、一つの旋律を聞き取る。少女の澄んだ、それ故に星空にさえ遠く響く、凛とした歌声。
………
届いていますか、私の声が
覚えていますか、私の夢を
たとえ、一万の夜を越えても
たとえ、一万の世界が終わりを迎えても
この身に刻んでいます、あなたの姿を
この心が抱いています、あなたの夢を
忘却の檻にあなたが囚われても
私があなたを覚えています
………
ゼノは呼吸すら無粋と本能が感じ、息を飲み込んだ。それは、遠くにいる人を想い
続ける待ち人の調べ。何時になっても帰らぬ、その人を純粋に慈しみ、残された自身を慰める、悲嘆の歌。技巧を含まない音の連なり、だからこそ、歌い手の寂寞の念が肌に染み入ってゆく。
………
寂しいと想わなかった月日は一日とありません
悲しいと嘆かなかった過日は一日とありません
時にはあなたを恨みました
時にはあなたを妬みました
それでも私はあなたを忘れません
それでも私はあなたを待ちます
あなたが私と同じ空の下にいるのならば
あなたがこの大地の続きにいるならば
それを想うだけで、私はあなたを待ち続けることができます
………
行方の知れない想い人、安否を気遣いながらも、その人が生きて帰還する言を幾許の揺らぎ無く信じている歌。たしかに、音楽を生業に生きる人間にとっては技量の一面で、たどたどしい一遍もあると批評を下すだろうが、それと同時に嫉妬せざるを得ないだろう。モニカの持つ歌声の純粋さに。歌い手が己の想いを乗せ、万人その気持ちを伝える。それが歌い手にとっての極限、極致、それを少女は、自然とやってのけた。
粛々と青白い月光がモニカを照らし出す、まるで独唱会の舞台を作り出すように。草木のざわめき、虚無の廃墟となった都市、漆黒に染まった夜空の中、色取り取りに煌く星々、桃色の柔髪を靡かせる夜風、全てがモニカの為に存在するかのような錯覚に陥るほどであり、モニカの姿はいっそ神々しくすらあった。そして、ゼノはモニカの凛とした、どこか穏やかな歌声を全身で聞き入り、身じろぎ一つせず、瞬き一つしない。まるで、その瞬間を刻むように。
………
独唱が終わり、桜色の唇から白い吐息が漏れ、モニカの頬は僅かながら上気している。おそらく、それは歌い疲れたことからだけではないだろう、しきりに、ゼノを窺っている。ゼノはぼんやりと、未だ余韻に陶酔している。
「………その、下手………?」
モニカは沈黙に耐えかねて不安げにゼノに問う。ゼノはまさしく言葉に言い表せない程に感銘を受け、何から言葉にすればいいのか、非常に困った。
「………えと、すごく、上手だった、それに綺麗な声をしているよねモニカさんは」
「………わからない、初めて誰かに聞かせたから」
対するモニカも、ゼノの賞賛に上手く答える事はできなかった。むしろ、モニカとしては珍しく困惑している程だった。
「その歌って名前とかあるの?」
「………多分、無い。お母さんが、よく歌って聞かせてくれたから、その、子守唄みたいに」
「ああ、成程。でも、なんだか、凄すぎて逆に眠気が覚めたような」
むしろ、既に夢の中にいるような幻想的な独唱会だったとゼノは思わずにはいられない。
「………私も少しだけ、ほんの少しだけ緊張したから、ちょっと眠れそうにない」
「そっか、じゃあ、まだここにいる?」
「………いる」
ゼノは願ってしまった、こんな気持ちは初めてだった。誰かに聞かれれば浅ましく、醜いと蔑まれると、頭で理解していても、心の奥底、本能を越す魂から願ってしまったのだ。モニカの声帯から紡ぎ出される一言一句、その連なりで構成される、あの歌、その神々しさに。その惹き寄せ止まない篝火のような歌へ、光明に集る羽虫が集る如く。あの素晴らしい歌を、歌声を自分以外の誰にも聞かせたくはないと、自分だけのものにしたいと、ゼノ自身赦せない程の独占欲、わかっていても願わずにはいられなかったのだ、モニカの歌唱はゼノの心理を壊してしまう程に。同時にゼノはそれが叶う事が無いとも知っていた。だから、せめてもの悲願、ささやかな、極小の願いを口に出した。
「………何時かさ、何時か、僕がここに遊びに来るような事があったら、また、その歌を聞かせてもらっていい………かな」
心の中で何度も躊躇い、葛藤し、それでもゼノは音にした、声にした。モニカは虚を突かれたような、無防備な表情を作り、ゼノの言葉をゆっくりと理解し、悲しげに目を伏せる。
「………いい。次、会えたら………」
「………絶対に聞くよ」
ゼノとモニカ、少年と少女は夜空の下で叶わぬ約束を結んだ。




