一章
第一章
ふわりと、風が頬を撫で、その心地よいくすぐったさにゼノは目を醒ます。
「………う、うん?」
体中に僅かながら痛みを覚え、自分が仰向けに倒れているという状況にあることを肌で感じる。ゼノの瞳に映ったのは弾けんばかりの蒼空。
「空………」
まだ、いまいち脳細胞が活性化しきれていないゼノは、緩やかに身体を起こし、周りを見渡す。ゼノが横たわっていたのは広大な花畑の端の、草むら。ゼノが見たことも無い、色鮮やかな花弁が無類に咲き誇っている。薫風が花畑をそよぎ、花弁が舞い、その場に心落ち着くさざめきが満ちる。
ゼノは呆然と花畑以外を見る。円状にその花畑は作られ、ゼノはその端に立ち尽くしていた、そして、背後を振り返る。
「天国というより………天の国?」
ゼノの立ち位置からやや離れた場所に、乗ってきた飛行船が墜落した時にできた地面を抉る軌跡の最後尾にあった。そして、その先、飛行船の地面が置かれた先には地面が途切れていた。地面が途切れ、タイルで舗装されていたという訳でもなく、そこから先には空しかなかった。視界全てにあの白い霧が何処までも覆っていた。不思議なことに日が差す真上だけは白い霧雲に覆われていないことだ。
ゼノはその断崖というべき、地面が途切れた境界に足を運び、両手をつき、おそるおそる、下を覗き込む。視界にはやはり、地上ではなく、白い霧だけが見えた。
「うん、いいね、浮いてる………いや、やっぱり浮いたら駄目じゃないのかな」
ゼノは改めて廻りを大きく見渡す。ゼノの地と空の境界は延々と続き、切れ目が存在ぜず、それは左右同一。花畑の先には古びた建物が点在、それもゼノがやはり、見たこともない様式であった。ゼノが目を付けたものは見える範囲で、おそらく最も大きい建物、というより、城といって差し支えないだろう。古い文献に載っていた昔の城塞によく似ていた。この浮遊地の概形は最も大きな城を中心とした、円形の土地のようだ。
ゼノは花畑に目を落とし違和感を覚える。先程から気にはなっていた。虫、生物が一匹も見当たらない。そんな訳が無いとも思う。虫がいなければ、植物の花粉を運ぶ存在がおらず、花はすぐに絶滅してしまう。
「それに………こんなに寂しい花畑は見たことない」
植物のざわめきしか耳に入らないということは、それ以外何も存在せず、その花は誰にも見られることがなく、輪廻転生を続けていくのだろう。そもそも、ここには生きた者の気配が無い。それとも、あったというべきか。
ゼノは知る限りの知識を総動員して、今の状況を考えてみる。この事態、浮く土地、それ自体には心当りが無い、だが、浮くというものには心当りがあった。それはゼノが今まで乗っていた飛行船もそうだ。
世界には従来、瞳に映らぬ天素という方向性の無い、内在力が豊富に含まれる粒子がある。その天素を、特殊な鉱石に取り込み、任意の方向性を与えるとにより、一種の奇跡じみた極術が発生する。ゼノが乗っていた飛行船も極術を応用した代物である。ただし、極術を使うには天素が感じ取れなければ使うことができない。従って天素の欠片も見えないゼノは極術が使うことができない。へたをすれば町の一つ丸ごと並の大きさ、質量を持つこの浮遊地を浮遊させることができるか、それは不可能だとゼノは思う。そこまで、極術は万能ではないし、浮遊と飛行は全く別物だ。飛行は何かしらの機構を用いて滑空するが、浮遊のような持続的に浮くことは滑空するより難しい。というより、ゼノはそんなことができる機構を聞いたことがない。
「………ああ、夢か」
ゼノはおおよそ納得がいった。夢なら好きなことができるはずだった。そう、この土地が浮いているというなら、ゼノだって望めば浮けるはず。そして、その場で膝を屈ませ、鉛直方向へ高らかに跳躍。僅かばかりの時間、浮遊。着地。駄目だった。少し、眉間を押さえ、何が足りないのか考える。
「………つまり助走が足りないのかな」
ゼノは飛行船まで歩き、草むらの方向に向かい、全力で疾走、身体のばねを前方から上方に溜め込み、地面を蹴る。先程より高い跳躍、舞い上がる。ゼノの身体が弧を描き、草むらに接地。ゼノは着地して、屈んだまま首を傾げ、何がおかしいのか訝しむ。そして、思い当たった。
「………僕としたことが………なんでこんな簡単なことを思いつかなかったのかな」
両手を地面につけ………逆立ちした。叫ぶ。
「この夢では上が下だ!」
ゼノはあらん限りの腕力を総動員し、不気味に跳ね上がる。いける、とゼノは思い、顔面から垂直に地面に落下。ゼノは一瞬、意識を失った。暫く、ゼノは顔面を地面に埋め込み、動かない。もぞもぞと、身体を動かせ、顔を上げる。
「………現実なんだね、やっぱり」
ゼノは現実に思考放棄を止め、現状に思考蜂起を始める。その場で逆立ちし、顔を前面に向ける。少女がいた。
「………」
「………」
少女はゼノの視点に合わせてか、それでもゼノの視点が低いが、屈んで、両手で顎を支えながら、ゼノを不思議なものでも見るかのようにしていた。
………なんという失態
ゼノは誰も見ていないと高を括り、一生分の痴態を繰りひろげた。そして、おそらくはこれから一生、ゼノはその痴態を少女に見せたことに苛まれるだろう。少女は何も言わない。なんとも気まずい雰囲気が場に立ち込める。ゼノが一生分の勇気を出して、少女に言う。逆立ちのまま。
「責任を取って僕をお婿にして下さい!」
「嫌い、近くにいるだけで吐き気がする、目に付くと眼球から涙が出る、二度と近寄らないで」
「………」
ゼノは無言で、少女に背を向け地面と空の境界まで逆歩きする。吹き荒ぶ空、というより、白に染まった視界を数秒眺める。逆さで。
「………泣いてないよ?」
ゼノは誰に言うでもなく呟いた。ゼノは先程、少女の口から発せられた言葉が単なる幻聴だと思いこませた。自分に。そして、振り向き、律儀にさっきと同じ位置で待っている、少女に近づいていく逆さのまま。先程のはいきなりすぎたのだとゼノは思う、なので、今度は軽くいこうと思った。
「僕をあなたと呼んで下さい!」
「あなたが大嫌い、近くにいなくても汚らわしい、同じ世界にいるだけで瞳に睫毛が入って痛い、この世に二度と存在しないで」
ゼノはその場で倒れこみ、顔の傍にあった一輪の花に語る。
「あれ………? あなたと呼んでくれたけど………さっきより酷くなってるし、睫毛は僕の所為じゃないよね? ………そう、そうだよね」
ゼノは逆立ちで、起き上がり、気づく。
「うん? どうして、僕は逆立ちしてるのかな?」
少女は無言でゼノの両腕を足払いならぬ、腕払いで、払う。当然、ゼノは受身もままならず地面に沈む。ゼノは暫し、沈黙、顔を上げる。少女は相変わらす目の前で屈んでいる。弱気なゼノは開口一番、文句ではなく、日常の常套句で始める。
「こ、こんにちは」
「………こんにちは」
少女は静かに、無表情で小さな口を開き、答えてくれた。ゼノは砂埃を払いながら立ち上がる。少女も屈むのを止め、ゼノと向き合う。
改めて、ゼノは少女が自分より年が低いと気が付く。そして、そんな少女に動揺していたとはいえ、求婚を迫る、ゼノは醜態の極みだと後悔せざるをえなかった。
少女はひたすらに華麗かつ可憐だった。ゼノが見たこともない、何処か古風な装束に身を包んでいる。年齢を裏切らないあどけなさを残した顔立ち、それにしても、その顔の造形は神様が整えたのではないかと疑うほどに、美しい輪郭。深雪のような白く透き通り、ふんわりと柔らかそうな頬。わざとなのか、瞼が重そうで開ききれておらず、眠たげな瞳をしており、愛嬌というより可愛らしい顔立ちをしている。綺麗な艶がある桃色の長髪は、白い刺繍のリボンで一房に纏められ、背中に垂らされている。冗談のような幻想じみた容姿からは、春の到来を草花の芽吹きと共に伝える妖精のようであるが、それは容姿だけ、絵や伝聞越しに聞けばの話だ。実際、少女を見て感じれば、誰もが精巧な氷細工で作り上げられた人形のようであると述べるだろう。北の永久凍土に存在すると言われる、この世で最も澄んだ湖の湖底に、一人、凍って眠り続けているように、そんな、儚げで、寂しい雰囲気を少女は身に纏う。
「えと………ゼノ、僕は、ゼノだよ」
なんとも、無言でゼノを見上げる少女に堪えれなくなった。少女は、重そうな瞼をばっと開くことなどせず、ただただ、ゼノを見続けるだけだった。
………あれ?
ゼノは少女と、向き合う結果、気になる部分があった。
「君………その………」
「………モニカ」
「え?」
「………私の名前」
「あ、ああ、君の名前か」
「………あなたはゼノ」
「うん、そうだけど」
「…………………あなたはゼノ」
どうやら、名前を復唱して、覚える作業という訳でないことはゼノにもわかった。そして、同時に少女の瞳に攻撃色が映りだし、僅かに怒りを見せている。少女、それも年下とはいえ、ゼノは誰かの感情に関して、答えることが苦手で、いつも誤魔化しながら生きてきた。弱いからだ。しかし、ゼノはここで逃げる訳にもいかず、必死に考える。
「……………………………あなたはゼノ」
「君は………モニカ………?」
微かに少女の瞼が動いた。それをゼノは見逃した。
「………もう一度」
「え?」
「もう一度」
ゼノはなんとなく、それが彼女にとって切実なことだと感じた。だから、ゼノは壊れ物を扱うように、慎重に、丁寧に、大事に、大切に、少女の名前を口にした。
「君は………モニカ」
「………ん」
モニカは僅かに顎を引き頷き、何処か思うところがあったのか瞳を閉じ、押し黙る。ゼノとしては、モニカの邪魔をしたくはなかったが、現状を説明してほしかったので、無粋とはいえ、促すことにした。
「あのさ、君がよければ、ここが何か教えてくれないかな? え、いや、ごめん睨まないで、邪魔する気は僕にもなかったんだよ、でもさ理解不能な事態に直面すると人間、必死になるという説が………」
ゼノの横入れに気分を害したのか、瞳を開き、ゼノを睨みつける、そうゼノには思えた、実際はただ、瞼を開いただけで、ゼノが弱気から挙動不審に陥ったに過ぎない。
「………ところで、君、幾つ? 僕は十五だけど」
「………十四」
………十四、僕はそんな年の少女にさえ眼力で勝負にもならないのか………。
そもそも、年下といってもゼノも三日前は十四であった。少女は無表情で小首を傾げ、葛藤の坩堝に入り込んでいるゼノを訝しげに見る。目線はゼノの顔から、上方に上がっていった。
「………ゼノ、あなた真っ白」
「………ああ、真っ白だね」
ゼノは同じ年齢の少年達よりは僅かに小柄で、色白で線も細い。物腰が柔らかいというよりは、年のわりに異常な程に低い。他人の言葉に否を唱えることができない、意志薄弱なのだ。顔つきは柔和で、喩えれば人畜無害な人物像を彷彿させる。そして、最も特筆すべき点は生命力の薄さを物語るような、真っ白な、髪の毛だ。
ゼノは僅かに暗い表情を落としながらも、すぐ、苦笑いで誤魔化す。
「僕の白髪は珍しい?」
モニカは後ろに垂らした髪を左右に揺らせながら、首を振る。
「ゼノが珍しい」
「僕が珍獣だと言いたいのかい!?」
「違う、人が珍しい。人と話すの、四年ぶりだから」
ことも何気に、放つその言葉にゼノは呆然、後に驚愕。
「え、だって君………四年ぶりって、今は十四なんだよね?」
モニカは僅かに眉をひそめ、変わらぬ抑揚でゼノを非難する。
「君じゃない………モニカ」
「ああ、ごめん、えと、モニカさん………?」
「………さん………?」
モニカは代名詞で呼ばれる事に難色を示すようで、ゼノはその圧迫感からつい年下に尊敬の呼称を取ってしまった。モニカは敬称については許容範囲なのか、沈黙している。
「いや、僕、知り合ったばかりの人を呼び捨てとかできないからさ………」
「………モニカさんでいい」
「良かった。で、モニカさんは四年前からってことは十歳から?」
「………そう、お母さんが死んで、そのまま」
「他には誰もいないの?」
ゼノはモニカの母親の死には何も感じることはなく、軽く流し思う。世界の大局が揺れ動く時世、天涯孤独の人間など腐る程に存在する。両親が幼子の時分に失ったとしても、それは得ていた者にとっての、孤独な喪失に過ぎない。だが、ゼノは特段、喪失というものが勝手な自己憐憫だと罵る気は無い。環境によっては異なるので、一括りで語るのは憚れるが、親類を失えば大抵の人間は悲哀を抱く、それは倫理、道徳、それらの社会的、心理的学問で表記されることが多く、確かに納得せざるをえない程に、悲しみへ至る過程を綴っている。しかし、それらは所詮、理性と理論を地盤とした、いわば冷たい答え。理性と理論で悲しみを負う人間はいない。感情は理解できない心の最奥に帰結するのだから、もし、心の深淵を理解した人間がいたとしたら、感情は理性の中で完結してしまい、酷く機会的な人間になる。そして、何時しか感情と理性が混ざり合い、心が劣化し壊れてしまう。人は無意識にそれを知っている、だから人は心の奥深くを探る事はしない。
喪失、それは酷く単純に迎えるとしたら痛みなのだ、痛みを受ける、痛い、だからこそ、人は生存本能的に従い、抗い、痛みから立ち直り、心に城砦を築き、強くなっていく。ゼノは思い出す、母との決別を。あの息を引き取った瞬間、確かにゼノは心から何かが抜け落ちた気がした、そして、琴線がはち切れたかのように悲しみが堰を切ったことを。だが、今になっても思えば、それも白々しいとさえ思えてくる。生きていなかった自分が痛みなど、悲しみなど持っていた訳は無い、全てが偽りの儀式だったのかもしれない、ゼノは思い出そうとも思わない。
モニカは花畑を進み歩き、ゼノもそれに続く。
「………皆、旅に出た」
「皆って君の家族かな、それに旅って?」
「一族の皆、四年前、旅に出てそれきり」
モニカは花畑の中心にまで歩を進める。
「………お母さん、病気で、私だけ残った」
「一族の人達は、何故、旅へ?」
「お母さんの病気を治す為にその方法を探しに、皆旅に出た。でも一人も帰ってこない」
モニカは空と地上の境に立ち、腕を上げ、手の平を白い霧に向ける。まるで、そこに見えない壁があり、地上と隔てられているように。慟哭のように、霧の合間から風が吹きあふれ、花弁が散り堕ちてゆく。
「………一族の帰りを待ち続けているんだね」
モニカは振り返らず、唯一つ呟く。
「………ずっと」
ゼノは手を差し伸べ、あまりにも華奢で、寂しい背中に触れそうになったが、すぐに力を失ったかのように、腕をだらりと下ろす。ゼノは今、自分が何をしようとしたのかもわからなかった。誰かと触れ、誰かを考えることなど、弱くて、逃げてきた自分にはできない、その権利さえ無いというのに。
「モニカさんは………一族の人間を探しにいったりはしないのかな」
そもそも、モニカにここを出る手段が無かったのだとしたらと、穂のかに、乗ってきた飛行船の事を考える。
「私がここにいなければ、帰ってきた人が困る」
「そうだよね………」
ゼノはこれ以上モニカに余計な詮索することを止め、実質的な現状を問うことにした。
「ここは、一体、何なの?」
モニカは振り返り、唯一の蒼空を見上げ、無機質な声で語る。
「………天空都市ヴィーズ………永劫に過去と閉ざされた、未来が開かない世界。今は私以外、誰もいない」
抑揚の無い声に、ゼノは絶対の諦念を初めて肌に感じた。そして、それが年端もいかない少女の口から出ることに、ゼノは絶句する。
同情、そんなものは押し付けの善意でしかない、そして、ある一定の条件を超えてしまえば、善意も悪意という残酷な仕打ちでしかない。モニカは救い等、求めていない、ゼノにはそう感じた、そう感じてしまった。弱いから、誰かの救いに答えることなど、永遠に不可能だと思っていたから。だから、思ってしまう。ここに来たのが、他の誰かであれば、モニカに何かしてあげれたのかもしれない。そう。
「僕以外だったらよかったのにね………」
あまりにも卑屈な言葉、声に出す気は無かったが、我慢しきれずに、微かに吐露した。
「………はやく、ゼノも帰ったほうがいい、ここには何も無いから」
モニカは突き放すように言う。
「いや、でも、見ての通り、あの飛行船を直さないと、帰ることもできないし」
帰る場所もないとはゼノも言わない。何処かに帰る気はないし、何処にも行けない人間に帰る場所を探しているなど、ゼノには言えない。
モニカはゼノの飛行船を見て、大きな、長い溜息し、肩を下ろす。モニカがどのような気概を抱き、その荷を降ろしたのか、ゼノにはわからない。
「………直るまで、仕方無いからいてもいい」
「ああ、ごめん、助かるよ」
ゼノはモニカが出会い頭のように、棘のあるだけの少女でないことを理解した。
「………でも、近寄らないで」
「棘に毒まで塗ってあったよ!?」
モニカはゼノを無視して、都市の中心、尖塔に向かう。やはり歩きながらも、ゼノとは意識的に距離を開けていることがわかった。ゼノは誰かと話すことも、知り合いになることも好きではなかった、できれば全てに無関係でありたいという消極的な願望を持つ、しかし、年下の少女にまで嫌われるのは、そこはかとなく悲しい気はした。
「ねえ、モニカさん、最初からずっと聞きたかったけど、どうしてここは浮いてるの? 極術を使ってるのかな」
モニカは振り返り、小首を傾げる。ゼノはその様が小動物を彷彿させることに気が付く。しかし、言わない。予感的にモニカの気に障りそうだったから。
「………さあ?」
「いや、さあって」
「………気の持ちよう?」
「一理有りそうで、一番無いよ!」
「………知らない。最初から浮いてた」
ゼノはもっと知りたいことがあったが、モニカは口をつぐみ、話しかけるなといってるようで、強気に出ることを知らないゼノにはそれ以上の追及は不可能であった。尖塔の中心に歩き出し、目に入ったのは、民家だったと思われる風化しきった建造物、並びからいって町なのだろうとゼノは思った。塗装が剥がれたように、石造りの家屋は色褪せ、本来の機能を失い、所々崩れて斜光が差し込んでいる。いずれの建物もやはり、ゼノが見たこともない建築様式、それでも、誰かが住んでいたことは確かで、家屋の隙間から生活に用いられた木製の調理器具などが覗かせる。今にもその家屋に焼きついた人間の記憶が蘇り、賑わいの声まで聞こえてきそうだった。聞こえたとしてもそれは、悲しいまでに過去に縛られた幻聴に過ぎないが。目に付くのはそれが全てではなく、その町はほぼ緑に飲み込まれ、時間の経過を物語っていた。砂塵と共に風が泳ぎ、むせるほどの緑の香りがゼノの鼻腔を刺激する。家屋の間を緑の蔓が梯子し、日陰には苔が鬱蒼とこびり付き、もちろん、地面には下界に生えている芝に近い種の植物が、雑草と共に覆っていた。
やがて、緩やかな勾配に道は様変わりし始め、ゼノは淡々と歩を進めるモニカの横に並んだ。慣れているのか、生い茂った雑草に足元をすくわれることもなく、あいかわらず眠たげに前だけを見ている。
「あのさ、僕らは何処に向かってるのかな?」
モニカはゼノ目を向け、歩を止め、小首を傾げる。
「………誰?」
「さんざん、人に名前を呼ばせておいて、自分は忘れるのかい!?」
「………冗談、覚えてる。ポッチャンおじさん?」
「誰!? むしろ会ってみたいよ! それに覚えてる癖、疑問符を付けたよね!」
「………ゼノ、煩い」
モニカは文字通り、煩わそうにゼノを諌める。ゼノは条件反射的に頭を下げる、四十五度を保ち。年下の可愛らしい少女に向けて。
「ごめんなさいモニカ様………あれ、卑屈度が上がってる!?」
ゼノの一人芝居に興味もなさそうに、再び歩き出す。
「………家に行く」
「ああ、まあ確かに立ち話は疲れるしね」
「………ゼノは家の外に行く」
「入れてくれないの!? それに家の外はここじゃないの!?」
「………序、冗談」
「序ってことはまだ続くのかい!? お願いだから無視しないでよモニカさん!」
どうやら、都市の中心に向かうには、緩やかな坂を廻りながら向かわなければいけないらしく、やや、面倒な構造だと言える。坂道の所々、下層部から続いてきたと思われる接続箇所が見受けられ、枝道が増加する一方であった。少しづつだが、ゼノにはこの都市の全景が浮かんできた。やはり、この都市は円形で、その周りを全て巨大な雲と霧で覆われているのだ、上方を除いて。それは当たり前でもある、日光無くして人間の生活循環は完成し得ない。人が住む都市だったならなおさらである。
坂道を登りきり、都市の上層部の丘に辿り着く。ゼノは大分歩いた気がしたが、モニカは疲れの色を一切見せない。丘からは下層部の全景が見え、白昼夢かと思う程、幻想的な風景であった。戦争で破壊、炎上された土地とも違い、何者にも侵されず、ただ、時間に身を委ね、緩慢に滅びを待つ都市、何よりも美しく、何よりも悲しい場所。
「これ、私の家」
モニカが指差した先には石造りの様式とは異なり、全てが木製であった。家屋の隣には水車があり。廻っている。水路が導かれ、奥の山間から清水が噴出し小さな滝の軌跡が描かれている。周りに生えている樹木がその家を護っているかのように並び立つ。木製だけあって石造りの建築物よりは劣化が早いのか、所々継ぎ接ぎが見える。無機質な石造りにはなく、周りに調和した木の温もりを持った家に、ゼノは落ち着いた気分になる。モニカとが先に入り込み、ゼノは僅かに緊張しながら入る。
「お邪魔し………」
「邪魔」
「先に言われた!?」
モニカは冷たくゼノに言い放つ。ゼノは他人の家に訪問することがあまり無い。それは、家柄もあり、自由が許されることはなかったからだ。ゼノはどうしていいかわからず、玄関口で右往左往する。
「モ、モニカさん………僕は邪魔なのかな?」
「………邪魔だけど、そこにいられるともっと邪魔」
つまり、入室許可と判断し、ゼノは扉を閉める。ふわりと、果実のような甘い香りが空気に満ちていた、それも、強すぎず、弱すぎず、適度に緊張がほぐせるような、自然と落ち着けてくれる度合いだった。使い込まれたテーブルに椅子が二つ付き、奥にはベッドが二つ。あまり調度品が置いてなかった。そして最後に箪笥が目に入る、あくまで偶然、ゼノには全くの他意は無い。しかし、ゼノの視線を敏感に感じ取ったモニカはすかさずゼノを諌める。
「………じろじろ不躾」
モニカは部屋の中を見回すゼノに冷たい視線を送る。ゼノは気が付かないが微妙に声に起伏が含まれている。
「ご、ごめん」
色々ありすぎて忘れていたが、モニカは十四と幼くとも女の子で、自分を招くこと事態、あまり気分が良くないのだろうと、不用意な自分をゼノは叱咤する。モニカはゼノの気の落ち様を判断してか、息をつく。
「………いい、座って」
モニカは椅子の一脚に目を寄越し、ゼノは言われたまま座る。モニカはゼノに背を向け、鉄器のポットを掴み、水瓶から柄杓で水をそれに注ぐ。それを奇妙な黒い直角な石の上に置き、円形の突起を押す。すると、石の上部の穴から火が出始め、ポットを熱し始める。暫く、火が小さく唸る音が部屋に満ちる。
「………」
ささやかな静寂の中、ゼノはモニカの小さな後姿を見て、なんとなく、理由はわからないけど、心が落ち着いてゆく。年の割には大分、大人びていて、その分、口もやや尖り、棘もあり、毒もあるが、
「………言い忘れた。座っていいけど、触れちゃ駄目」
「つまり空気椅子!? 僕の足腰をどこまで鍛えちゃうつもりなんだい!?」
毒もあり、猛毒もあり、刺激もあるが、
「嘘、楽にしていい」
難しい優しさもある、そんな少女。それがモニカに対するゼノの評価。ゼノはふと思う、モニカはどうなのだろうと。だが、首を振り、くだらないと、自分を切って捨てる。人について何を思うのも、思われるのも嫌なのが自分だとゼノは思う。決めたのだ、全てに等しく無関心で、つまらなく生きているふりをすると。それでも、ゼノは気のせいに違いないと決め付けたが、モニカの姿はどことなく楽しげに見えた。ゼノは自分の頬が僅かに緩むのを感じる。モニカは背中に目でもついているのか、何処か不機嫌そうに、ゼノを振り返る。
「………なに?」
「いや、ただ、働き者なんだなって」
「………別に、普通」
「そっか」
モニカがそう言うのならば、そういうものだとゼノは思う。ゼノはそれに加えて、普通の家庭、一般的にはこの状況も普通の家庭とは言わないが、常識の中での家庭を知らない。目の前で誰かが調理場に立って何かをする情景を知らない。だからこそ、ゼノには今、この状況が新鮮だった。
「二つ目言い忘れた、泥水と空気、どっちがいい? 私はお茶」
「色々言いたいから、色々言うけど、どうして、この状況下で選択肢が泥水と空気なの!? それと選択肢に現れなかったお茶を密かに言うのは、僕に対するあてつけかい!?」
「………で、どっち?」
「空気でお願いします!」
モニカが僅かに眉を潜め、不機嫌を露にしたので、ゼノは即答した。
「………どうぞ」
モニカは促し、ゼノは空気を吸った、吸って、吸って、肺に空気が満ち溢れた。ゼノは思う。
………空気って、空気って、こんなに新鮮で、こんなに爽やかな気分になって、そして………………やっぱり味が無いよ。
ゼノは肺に溜まった空気を大きく出し、急激な呼吸で若干、心臓が動悸しているので、胸を押さえる。
「ご馳走様でした………」
「………おかわり自由」
「むしろ制限されていたら吃驚だよ僕は!?」
「………じゃあ」
モニカは空の容器を持ち、扉の取っ手を掴み、外に出ようとする。
「モニカさん、モニカさん、流石にそっちは僕も美味しく頂ける自信がありませんから!」
「………弐、冗談」
「モニカさん! 既に発音的限界だよ、だからその前振りは後が続かないって思ったんだ!」
モニカは何事も無かったかのように、調理場に戻り、丁度よく湯が沸き立ち、二つ用意されていた陶器に注ぎ、蒸気と共に、お茶の香りが起ち込む。お盆にその二つを載せ、テーブルに運び、モニカも椅子に腰を下ろす。やはり、なんとなくではあるが、椅子をゼノから遠ざけて座った。
「………召し上がれ」
「えと………ああ、いただきます? でよかったかな」
「………? 合ってる」
「そう、それは良かった、久しぶりだから、ついわからなくなったよ」
モニカはお茶に息を吹きかけ、冷ましながら、ゼノの言葉に疑問を抱く。
「久しぶり? 下の人は普通、言わないの?」
「いや、普通はそうなんだろうけど、僕はいつも一人で食事していたからさ」
それに、わざわざ毒入りの食事を有りがたく頂く気にもならなかったと、ゼノは暗く、モニカに聞こえないように呟いた。
「………誰もいなかった?」
「いや、僕が覚えている限り父親は初めからいなかったけど、母親は六年前に病気で死んだし、姉は五年前に事故で死んだから、まあ、姉がいた時までは食事の挨拶はしてたかな」
極めて、ゼノは陽気に、まるで、過去が書物に綴られており、それを嘲るかのように音読した。
「………他人行儀にゼノは話す、家族を大切にしないと駄目。何時か………後悔する」
モニカの言葉にゼノは困ったような顔をする。
「モニカさんが言うのなら、そうなんだろうね。僕は、正直、家族といてそれなりに楽しかった覚えはあるけど、それは、記憶というより記録だと思う。どうしても、大切だとか、実感が持てないんだ」
「………けど、それはゼノが記憶の海に、想いだけを残して汲み取ったから、優しさから乖離した記録になっているだけ、ちゃんと、思い出してあげなきゃ駄目」
「………かもしれない、だけど、本当に思い出して、何も無かった時、それが僕は怖い。だから、もう、思い出すことはしないよ」
モニカは僅かに俯く。心なしか、陶器を持つ手に力が入っているようだ。ゼノはそのモニカの様子に落ち着かなくなり、手を引っ込めたり、差し出したりしている。
「………ゼノは寂しい人」
「そ、そうかな、初めて言われたよ、そんなこと」
モニカの言葉を反芻し、確かに寂しい人間なのかもしれないとゼノは思う、普段のゼノならば、寂しいなんて、個人の主観によって幾らでも異なる見解を持つと、言い聞かせ誤魔化していただろう。だが、どうにも、モニカの言葉にはゼノが無視できず、脆弱な心の奥底を引っ搔いて、ざわつかせる力がある。なんとなく、ゼノはモニカに言わないといけないと思った。
「………あのさ、下界にはレイガスっていう農耕を主とするそれは平和な国があってね、その国の中でも一番の力を持った名家ヴァリア、僕はそこの次期当主だったんだ」
ゼノは一息、お茶を口に含み、モニカを見る。モニカは無表情だが、ゼノを見て、話に耳を傾けてくれている。
「………まあ、僕の母親が当主だったわけなんだけど、さっきの通り、死んでしまって、姉が継いだのだけど、一年後に事故死。つまり僕に家督が廻ってきたんだ。だけど、当時、僕は十歳、レイガスの法律では家督を受け継げる年齢は十五からなんだ。だから、それまでは、僕の保護責任者になった叔父が家督を一時的に預かることになった」
ゼノはここで、また話を区切った。ここからは血生臭い話になり、この少女に話したくはない話題ではあるのだ。だが、モニカはゼノの心情を悟ったように、ゼノを促す。
「………ゼノが嫌なら、私は聞かない」
「モニカさんは聡いね」
ゼノは素直にそう思う、しかし、ゼノ自身、十五の年で老成している方だと自覚はあったが、モニカは老成というよりは感情が磨耗している。下界でモニカと同い年の少女を見ていても、ここまで、人との距離感を捉えることができる子はいなかった。だからこそ、モニカが如何に月日を過ごしてきたのか、思い知らされ、ゼノは知らず知らずにテーブルの下で拳を握りこむ。
「まあ、柔らかめに話すと、叔父は家督が正式に欲しかった、だから僕は邪魔者だったんだ。色々、僕をいなくさせる努力をしてくれたよ、でも、思惑通りにはいかなかった。それで、僕が十五を迎える日に、僕を本格的に消そうと計画を立てたんだ。だから、僕は飛行船に乗って逃げてきたんだ、そして、ここに」
既に冷えたお茶を、ゼノは飲み干す。木を構成する繊維の軋みまで、聞こえそうな静寂が横たわった。モニカは何も言わない。ゼノには破裂しそうな静寂に我慢できず、つい言葉を漏らした。
「でさ、だから僕は、誰も信じられなくて、できれば一生、誰にも会いたくないと思ってたんだ。だから、その………ごめん、何が言いたいのかわからないね」
言ってから後悔する。やはり、話すべきではなかったのかもしれないが、誰にも会いたくなくてこの場所にきているということが、ゼノにはとても後ろめたいことだった。それでも、それはゼノの身勝手な都合、打ち明ける事により、ゼノは自身を守った。代わりにモニカを傷つけるとわかっていたのに。
「………ゼノは、誰も信じられないの? ………私も?」
「いや、それは、うん。モニカさんは信じられるよ」
「………そう、私はあなたを信じてないけど」
「ええ!? 何処かに怪しい部分があったかい?」
「一人で、叫びながら飛んだり跳ねたりしてた」
「………否定できない!?」
「………あと、五体倒置で痙攣してた」
「医者を呼ぼうよ! それに、僕、そんなことしてないよ!?」
「………嘘、わりとゼノは信じられる………馬鹿そうだから」
「語尾に罵倒が聞こえたよ!?」
はあ、とゼノは溜息を吐く。久しぶりに声を上げた所為か、ゼノはやや話し疲れた。それでも、身体全体に新鮮な空気を流したような、心地よい疲れだった。
「ところでさ、モニカさんの一族は、結局、ここで何をしていたのかな、正直、ここは僕にとって、謎だらけなんだけど」
「………あまり私も知らない。私の一族は、黎明戦期から、戦争に巻き込まれるのを忌避し、ここに閉じ篭って、下界から隠遁する生活を選んだらしい、お母さんからそう聞いた」
ゼノは黎明戦記と聞いて、少しばかり頭を捻り、あまり聞き覚えが無い単語を、屋敷の奥底、地下書庫を読み尽くした事により得た、並外れた知識の奔流から探す。
「黎明………ああ、永劫戦争の事か………って、三千年前の、苔が何十回も生え変わりそうな時代からここにいるのか」
黎明戦記、恐らくはゼノや、余程の見識を持つ史学者でなければ、そこから太陽戦争と結びつくことはなかっただろう。ゼノが知る限り、黎明戦記とは遥か昔、当時の呼ばれ方で、幾多の変遷を帯びて永劫戦争と呼ばれることになった。
御伽噺の時代、蒼空さえも朱に染まる程に、世界は血と戦乱に満ちていた。無秩序の仲、人が集まれば、その群の中で一つ突き抜けた頭となる人間が出てくる。その頭に従い、その群れは異なる群れを従えようとする、爆発的にその争いは伝播し、混沌が始まった。人は病的な狂気と凶気にあてられ、全てが負の集合意識に堕ちていった。魚が死に絶える程にまで、海が血に溢れ、戦乱が続き、世界は疲弊し、人は憔悴しきっていた。そんな世に現れたのは、天から舞い降りたといわれる、初代バベリアの君主、天王。バベリア王は神に与えられたという久遠の叡智から、ありとあらゆる兵器を作り出し、その力をもって世界を覇したという。バベリアの繁栄によって世界は浄化され、賢者に等しいバベリア王を誰もが崇拝していた。それでも、盛者必衰は永劫に変わりえないこの世の性だった。バベリア王は、天に座す神を咎めんと、刃を向けた。その結果、世界は一度、神の怒りに触れ、崩壊したという。
今、問題になるのは、黎明戦記という呼び名をモニカが知っているといことで、改めてこの浮遊都市がその時代から、現世に隠れて存在していたということだ。だとすれば、この都市は恐らく、バベリアの遺物、それならば頷ける。現世の極術や機構技術で可能に出来ない事象が、バベリアの遺物を用いれば容易く可能になる。現世は未だ古代に追いついていない、それが純然たる事実。ある国の学者は未来永劫追いつくことはないと。確かに、ゼノも実物を目の当たりにして、その主張は正しいと思う。一つ不可解な出来事があった。それはゼノの存在だった。
「誰もここに辿り着いたことはなかったの?」
「………誰も」
ゼノの推論では、おそらくこの都市を覆っている雲と霧は外部の敵を排除する為の防壁、同時に、世界中の国が常駐させている極術の探査網には引っかからないようにできているはずだ。でなければ、昔に国同士の取り合いの標的になっていたのだろう。
「………ゼノ、どうしたの?」
「ああ、いや、飛行船、直さなきゃと思ってね」
「………そう。早く直してくれた方がいい。明日、修理に使えそうな部品が捨ててある場所に案内してあげる」
「ごめんね、できれば早く済ますつもりだから、それまで厄介になってもいいかな」
「………迷惑だけど、暇だから、いい」
それだけ言い、モニカは窓の外へと視線を移してしまう。ゼノはモニカの横顔から、視線の先を見た。気が付けば、窓の外は既に、夜の帳を迎える一歩前、雲と霧が遠くの夕陽を映し、ひどく切ないまでに、幻想的な情景を描いている。閉鎖された世界、それでも、朝が来れば夜も来る。時間の流れは確かにそこにあった、それでも、モニカにとってはどうなのだろう、何十回、何百回と見た光景、それは時間の経過を概念として欠落させ、絵本の冊子を捲っているに過ぎず、まさしく、モニカにとってここは、時間の止まった世界なのではと、ゼノはモニカが過ごして来た日々を垣間見た気がした。




