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序章


 生きる為に、逃げる。それが何を意味し、それに何を感じるかは、百人に聞けば百人が異なる答え、異なる感覚を持つのかもしれない。当たり前だけど、逃げるということは、その逃げる原因が存在することが絶対条件だ。でも、僕は何から逃げたのか、逃亡三日目になってもわからないままだ。そもそも、今の僕は逃亡者なのか、確かに逃げてはいると思う、毎日配膳される猛毒入りの食事から、毎夜枕元に立つ暗殺者から、毎回の殺意しか含まれない教練から、毎時叔父から刺さる忌みの視線から、そして、そんな緩やかに心を削る環境に抗う心から、僕は逃げてきた。で、ここからが問題だ、生きる為に、逃げる、それは今の僕がまさに体現していることなのだろうけど、僕は生まれてこのかた生きることに執着したことはない。だから、生きる為に逃げる訳ではない、僕は彷徨っているのだ。別に僕は世界に絶望しただとか、人の生が全く意味の無いものだとは思わない。世界には目を瞑り、悲鳴を上げたくなるような出来事が五秒毎に起こっていたりするし、何処までも果ての無い乾燥した砂漠を彷彿させる戦争だって多い。だけど、世界は続いているし、人間だってまだ死に絶えることはない。おそらく、世界にはその絶望に耐える、それを帳消しにしてくれる位、宝物のような美しい存在があったり、人間には日々の辛さを噛み締め、それすらも明日への踏み台にできる、見えず、触れることができない、冷めない温かさを持った夢や、生きがいにできる仕事、自分を変えてくれた言葉があるのだろう。でも、それらの人を生かす為、生きる意味を付与してくれる大事なものが、僕には無い。もしかしたら、あったのかもしれない、僕が忘却の世界、それも二度と取り戻せない彼方に置いてきたのかもしれない。それとも、そもそも僕にはそんなものが無かったのかもしれない。どちらだったとしても、僕が今、生きることに執着できないことには変わりない。なら、僕は何故、今まで生きていたのか、それは単純だ。母と姉、その二人の別れ際にそう言われたから、ただ、それだけだ。だから、僕の逃亡劇をより的確に、理論的に表現することになれば、生きろと言われた事柄を遵守する為に、生きる為に、逃げる、ということになる。とても、ややこしい話だけど、人間誰もが簡潔に、淡白には生きていないだろう。歪み、捻りあった自分の意思と、業を絡み合わせながら、日々を、鈍重に生きているのだろう。そうして、人間はゆっくりと、ささやかな強さを手に入れ、淡々と望んだ終着点に近づいてゆくのだろう。二度目になるけれど、僕には、生への執着がない、だから僕には人に伝える意思も、人に押し付ける業もない。人がその二つを吊り合いながら生きてくことによって、手に入れる強さを僕は手に入れたことがない。はっきり言おう。生きているのに生きていなかった僕は、この世の誰よりも生物として軟弱にして脆弱、そして、順当に卑屈だ。僕は僕を疎ましく思う叔父に諂い、生きてきた。僕は確かに、母と姉に生きろといわれ、その通りにした、生きる為には何でもした。だけど、そこまで言いつけを守る必要が無いとも僕は思っていた。だから、僕は何時、叔父の策略で死ぬのか暗い予想をした。しかし、それは一年、二年と裏切られ、僕は何故か生き残ってしまった。卑屈に生きながらえる僕を叔父はとうとう薄気味がり始めた、何故死なないと。それは生き残った僕が一番疑問に思っているのだ。そして、僕が十五になり家督を譲り受ける日に、叔父が大々的に暗殺計画を企てているのを知った。生き残る為に、僕は何処かに雲隠れ、もしくは、家督なんてどうでもいいから逃げることにしたのだ。十五になる一日前の夜、僕が屋敷の五階からロープをかけて、逃げ出そうとする時、幼馴染が部屋に来た。僕は平静を装い、幼馴染と話した。叔父の一人娘であり、僕のいとこの少女は、僕の人生で唯一の救いだった。叔父の暴行から常に僕を庇ってくれた。だから、僕は彼女に別れを言うべきだったのだろう。だが、都合よく彼女は僕にお茶とケーキを持ってきてくれたのだ。僕は彼女と話しこみ、ケーキを食べながら気が付いた。毒だと。そして、僕の分しかケーキはなかった。僕は彼女の静止の声を振り切り、五階からロープを伝い、庭へ着地。そして、敷地内の飛空場から、前日用意しておいた小型飛行船に乗り、逃げた。僕はあても無く、飛んだ。幸い、路銀には不自由せず、何度か町に降り、燃料の火陽石を補充し、空へと。そして、逃亡劇三日目、母国レイガスを飛び立ち、おそらく今はラングレンとの国境を越える辺り。お前は矮小な存在だと言わんばかりの、蒼い水晶が一面に広がった大空に、僕は見飽きていた。あの屋敷にいる時は休まる暇も無く、暗殺や毒物への対策をいつ何時も忘れることができなかった。だから、今、この変わる事の無い大空に向かって単調に飛ぶのは、せわしない僕にとっては苦痛になってきた。だから、僕は言ってしまったのだ。大空に向かって傲慢に。嵐でも起こしてみろと。で、嵐が起こった。見る間に、巨大な雲海が僕に視界を塗りつぶし、飲み込んだ。いくらなんでも、この雲の大きさは異常だった。僕は巨人の住居ではないかと疑える白い団塊に飲み込まれ、異常な程の突風、及び、豪雨、雷鳴の轟き、視界の劣悪状況により、まともに飛行することが不可能に近かった。僕が悪い訳ではない、普段、僕は卑屈に生き、自分という人間が如何に矮小か知っている、しかるに、僕は誰かを挑発するように叫んだことはない、だから悪いのは僕ではなく、僕を高らかに解放した雄大な空なのだ。だから、僕は雲海の中で理性の破綻を感じながらも叫んだ。悪いのはお前だ、謝れ、謝る気があるなら、雷で撃ち落としてみろと。で、謝られた。視界が光に覆われたと思えば、途端、耳の鼓膜が裂けるような烈音、飛行船の片翼に大穴が開き、燃え盛っていた。多分、僕は雄大なこの大空に有史以来、初めて侘びを入れさせた人間ということになるのだろう。残念なことに僕はこれを誰かに語り武勇伝にするつもりもない、そして、語る暇は永劫に訪れないだろう。………ああ、落ちてる。プロペラの回転軸が風圧で曲がりそうになり、機体全体が軋む音が体を通して聞こえる。僕は体に有り得ない位の浮遊感、厳しく言えば圧迫を感じながら思う。これで、終わり。それはいい。ただ、思い残すことは、僕の十五年の人生を振り返ってみても、なんら有益、かつ建設的なものは無かった、まさしく不毛だったといえる。何故、僕に母と姉は生きろなどと無意味な命令を下したのだろうか、それが、疑問だ。さて、母と姉は天国と言う大多数の人間が、死ねば行けるという、夢想的な思いを抱く場所に収容されているのだろうか、だったら、僕はおそらくそこには行かないだろう、生きているのに生きていなかった僕、それはつまり概念で捉えることができる死さえないということだ。死の無い僕が何処にいくのか、決まっている。何処にも行かないだ。落下しているのだが、何故か一向に雲を突き抜ける気配が無い。もしかしたら、この雲は地上にまで続いているのかもしれない。そして、初めて気が付く。これは雲というより、霧に近いのではと。僕も雲と霧が同じく水蒸気の塊だということは予備知識として所持している。しかし、この薄さは雲よりは、霧に近い。まあ、僕が悩むことでもない。僕は瞳を瞑り、時を待った。

ゼノ・ユルト・ヴァリア、僕、ゼノは、何から逃げていた、何故、彷徨い生きてきた。その答えはこの雲、もしくは霧の向こうに繋がる、時間の止まった世界で、ずっと大切に僕を待ち続けてくれていた。


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