もんもんぐんぐん
「要救助者発見!」
遭難から数えて十一日目。県警のヘリが尾根の岩陰にうずくまる人影を捉えた。救助隊が降下したとき、隊員の誰もが一瞬、人違いを疑った。
届けられていた写真の男は黒々とした髪をしていたのだが、目の前の男は、頭から眉まで、雪のように白い。
「聞こえますか。名前は言えますか」
隊員の呼びかけに、男はうっすらと目を開けた。焦点は合っていない。唇が乾いてひび割れ、軽い低体温症の兆候が見られた。だが命に別状はなさそうだった。
救助隊員が安心づけようとその肩に手を当てると、男は猛烈に震えだした。
※
いつも通り、計画通りの下山ルートを進んでいた。
日暮れ前に沢筋へ抜けられると踏んで斜面を下り始めたところで、天候が崩れ、つかの間視界が失われた。
天候が回復し、安堵に胸を撫で下ろす。そこで、聞き慣れない音が響いた。
『もん』
その音のした方を向くと、ルートから外れた所を歩く男の後ろ姿が見えた。そのまま行くのは危ない。俺は声をかけ、その後を追ったが、男はぐんぐん遠ざかっていく。
これ以上の深追いは俺自身の遭難を招く。あの男については、下山してから報告しておこう、そう判断して踵を返した。だが、正確に来た道を戻ったはずなのにルートに出ない。
当然、スマホは圏外。確認するたびに、方位磁石が指す方角はばらばらだった。何かがおかしい。焦りだけが募っていく。
突如、背後から『もん、もん、ぐん、ぐん』という音が響いてきた。
振り返ってはいけない。俺はなぜかそう思った。
音は少しずつこちらに近づいてくる。俺は無我夢中でその場を離れた。
その夜は一睡も出来なかった。眠っている間にあの音が、傍まで来そうな気がしてならなかった。
もう、火を熾す気力もなく、手持ちのチョコレートバーを半分だけ齧り、木の根元にうずくまって膝を抱えた。
目を閉じると、瞼の裏にまで音が入り込んでくるようで、辺りを警戒しているうちに朝を迎えていた。
あんな妙な男、追いかけるんじゃなかった。後悔は常に先に立たない。
妙といえば、寒さをほとんど感じなかったことだ。秋の山の夜は冷え込むはずだったが、俺の身体はそれとは別の理由で震えている。
夜が明けても、景色は変わらなかった。同じ木、同じ岩。歩いても歩いても、位置が動いている実感がなかった。
日中は歩き続けた。方角も分からないまま、ただ足を止めなかった。止まれば、また音が追いついてくる気がした。
二晩目、ついに音は来た。『もん、もん、ぐん、ぐん』一定のリズムで鳴り続ける。だが、もう逃げる体力は残っていなかった。
俺は動かず、息を殺して木の陰にうずくまる。音は近づき、すぐそばを通り過ぎ、また遠ざかっていった。それを覗き込む勇気は俺にはなかった。
三晩目、木々の隙間に人影を見た。
後ろを向いて、じっと立ったまま動かない。
あの時の男だ。自然と俺の足は早まった。
声をかけてみるが、その男は振り返らない。
『もん、もん、ぐん、ぐん』
その男のすぐ前方辺りから、あの音が聞こえてくる。案外なんともないのかもしれない。俺はなんだか怖がっていたのが恥ずかしくなった。
近づくたびに、音は大きくなっていく。
服装に見覚えがある気がする。着古したチェックのジャケット――自分が今着ているのと、同じ柄だった。
「おい」
その肩に手をかけた。
振り返ったのは、俺自身だった。
驚愕している自分と目が合う。それなら、いま肩に手をかけている俺は誰なのか。この目で見ているのは、誰なのか。
振り返った自分はこちらを見たまま、凍りついたように動かなかった。
『もん、もん、ぐん、ぐん』
気がつけば、俺の口からその音が漏れ出していた。
※
「大丈夫ですよ、もう安全です」
担架に乗せられながら、男はぼんやりと天を見上げていた。毛布にくるまれた唇が、小さく、途切れることなく動き続けている。
付き添っていた若い隊員がふと耳を寄せた。震えているだけではない。一定のリズムで何かを呟いている。
『もん、もん、ぐん、ぐん』
『もん、もん、ぐん、ぐん』
隊員は、それが同じ四音の繰り返しであることに気づいた。意味のある単語ではない。ただの音の羅列が、壊れた時計の針のように、規則正しく男の口からこぼれ続けている。隊員は思わず耳を離した。これ以上聞いていてはいけない、と本能が告げていた。
担架で運ばれていく男は、自分が何を呟いているのか、最後まで理解することはなかった。




