個性
個性
私は個性的と称されることがある。自身でも常々感じる点もあり甘受しているが、これは個性的ではないとの証明ではないだろうか。
個性とは無意識であってこそ成立するものだ。意識することは没個性へと変身させることとなる。というのは、人間というものは本来的に依存性を持つ生物であるからだ。特に日本が典型的なのだが、依存とは他人との協調性・コミュニケーションという好印象の名へと姿を変えて社会に蔓延・基盤として人々の生活に馴染む。その悪点の影響にイジメなどの差別がある。これは、依存に基づいた、集団意識・集合意思・団体行動といったものを形成する、主に学校教育に始まる。個性とは突き詰めれば他者との「違い」である。それは依存に基づいた人間社会の要求である「同一性」と対立するものであり、淘汰対象・差別の的となるものである。異質や理解できないものに似通い、人は個性を嫌い、疎み、過剰対処として排除を強行する場合もある。それがイジメであり差別だ。また、この意思は集団で働き、集合体として行動するから、人は孤立する。人間は脆い。だから、孤立を恐れ、依存本能が動き、原因である個性を抑制しようとする。人は常に強くあることはできないのだ。だから個性を潰してまでも集団へ混じろうとする。だからこそ、個性というのは無意識下で表現されるものなのだ。
個性尊重の時代である現在でも、割らずに存在し、「共生」という名の統一を志す。だが、統一として個性を抑制し続けることは無理な話だ。個々として、存在が異なるのだから、皆を平らにすることは出来ない。感知できないほどに小さいとしても、多少なりとも道にも凸凹が存在する。それを潔癖なまでに潰そうとしていたのは戦時中だった。そこは軍登用に個性は必要ないとしながらも、平等性は皆無とされた矛盾の時代だった。相も変わらず、人格形成時期を過ごす学校を筆頭として集団の形成と没個性の育み、突出の修正と既形への当てはめがなされている。また、己の出すことの出来ない身の内の個性への執着がイジメとなって行動に表される。
現在、続いてきたその意識は少しずつ変わろうとしている。認可される個性というのは、許容範囲内にあるものだけであり、それは突出とはいえない。ただの「優れた」能力でしかなく、または抑制してきた個性の本の一部を見の振りよく表現したからだ。だが、それというのはどんぐりの背比べのように代わり映えのない、拮抗時の勝者に当たる。模索すべきは上手い表現の仕方である。突出と平凡の不明確な線引きの上を行ったりきたりすることで社会に適応していかなければならない。だが、メディア社会は伝播しやすい。一人が変われば周囲に影響が出て、波状に広まっていく。少しずつ、だが確実に世界は個性を受け入れていく。遠からず、個性は誰もが表現することが出来るようになり、無意識下に限定されることもなくなるだろう。