燠の部屋
【燠】
赤くおこった炭火。おきび。
(広辞苑第七版)
「えぇ、えぇ。大変申し訳ございませんが、患者さん皆さんにそのように対応しておりまして……はい。では、そういうことで、よろしくお願い致します。はい、失礼します」
あかりが電話を切ると、クリニックの自動ドアが開き、一人の若い女性がパタパタとサンダルの音を響かせながら猛然と受付へ向かって来た。
「穂村先生、まだ良くならないんですかぁ?」
頭頂部から数センチ黒く、その先がオレンジ色に染められたボサボサ頭を振り乱しながら、カウンターから身を乗り出して、受付に座るあかりに食ってかかってきた。
「はい。そのように伺っております」
あかりは表情ひとつ変えず、そう答えた。患者に詰められることはそう珍しいことでもない。
「もうさぁ、先生いないと耐えられないんですけどぉ」
そう文句を垂れると彼女は受付カウンターに両肘で頬づえをついた。ヨレヨレのジャージーの袖口から覗く左手首には、生々しい直線が無数についている。
「患者さま皆さんに、他のクリニックへの受診をお願いしております」
あかりの対応は相変わらず冷静だった。
「そんなこと言ったってさぁ、今、精神科どっこもいっぱいなんだよ。探すのも大変なんですけどぉ」
「はい。それは大変心苦しく思います。近隣のクリニックへは事情を説明しておりまして、当院の名前を出していただきますと、優先して診ていただけるようお願いしておりますので、ご理解の程、よろしくお願いいたします」
そう説明すると、あかりは深々と頭を下げた。
「マジで? チョーめんどくさいんですけどぉ。ねぇ、お姉さん、適当に病院選んで予約取っといてよ」
「大変申し訳ございませんが、そういったことは、致しかねます」
あかりの対応は一貫して丁寧でありながらもどこか無機質だ。その温度の低さから、これ以上問答をしても時間の無駄であることを悟った女性は、ふんっと鼻で笑って踵を返し、クリニックを後にした。
「太田さんの言い分も、無理もないわよねぇ」
奥で事務処理をしていた先輩看護師の田辺が受付までやって来て、そう切り出した。
「えぇ、全く。先生、どこ行っちゃったんだろう」
クリニックの院長・穂村医師の体調不良による長期休診、というのは口実で、実のところ彼は一週間ほど前から行方が分からなくなっており、警察に捜索願が出されていた。
「でも、ちょっと前にあんな大きな水槽用意しといて、自分からいなくなるって、あるかしらね?」
「そうですよね。先生、かなり気に入ってましたしね」
二人して待合室の壁際に置かれた水槽に目をやった。横幅2mはあろうかという巨大水槽に、色とりどりの熱帯魚たちが数匹、主がいなくなったことにも気づかず、悠然と泳いでいた。
「どうします、あの子たち」
「水槽は大きくて無理だけど、中の魚はそれ程大きくないし、数もしれてるから私たちで分けっこしようか?」
「そうですね」
「まぁ、このまま、先生が見つからなかったら、の話だけど」
「えぇ。きっと、帰って来ますよ」
「そうね……あらやだ、もうこんな時間!」
壁掛け時計の針が6時を指すのを見てそう叫ぶと、田辺は子どものお迎えの時間だから、と帰り支度を始めた。
「後の片付けはやっておくんで、大丈夫ですよ」
「ごめんねー、助かる。その代わり、明日は早めに来て対応するから」
「ありがとうございます」
田辺がいなくなり、あかりは火が消えたように静まり返ったクリニックの閉め作業を始めた。
――このまま先生が見つからなかったら、自分たちはどうなるのだろう。そろそろ新しい就職先を探し始めなければいけないのかもしれない。それは少々億劫だ。
そう思いながら書類の片付けをしていると、ふいに電話のベルが鳴った。
「お電話ありがとうございます。穂村こころのクリニックでございます」
「あ、もしもし。私、近藤医院の近藤ですが」
「近藤先生! いつもお世話になっております」
「この度は大変なことになりましたね」
「えぇ」
「えっと、穂村くんに貸してる本があって。ちょっと論文に使いたいんで、返して貰いたいんだけど……」
「わかりました。確認してまいります。書名を教えていただけますか?」
近藤の口から発せられたのは外国語だった。あかりには意味はおろか何語なのかすら見当もつかない。彼女がその旨伝えると、近藤はクリニックのパソコン宛てにメールで書名を送ってくれた。
「あ、届いてます。お手数お掛けしました。では、少々お待ちください」
そう言って電話を保留に設定し、パソコン画面に映し出された洋書の名前をスマートフォンで撮影すると、あかりは穂村医師の診察室兼仕事部屋へと向かった。
鍵を開け、スライドドアを引く。主を失った部屋はカーテンが閉められたままで薄暗く、ひっそりと息を潜めているようだ。
電気をつけ中に入ると、あかりは書棚へと向かった。
そこには医学書や専門書が名前順に几帳面に収められていた。本のラベルを指でなぞりながら、教えられた書名と書棚の背表紙とを照らし合わせるも、一向に見当たらない。
――借りている本だから、書棚にはないのかもしれない。
あかりはそう思い至り、今度はデスクの上を確認することにした。
すると思った通り、デスクトップのキーボード手前側に近藤医師が示したタイトルの本が置かれていた。
「あったあった」
そう呟いて本を取り上げると、その下にA4大の大学ノートを発見した。表紙には筆記体で『Diary』と書かれている。
あかりは自分の胸がどくどくどくと波打つのを感じた。
この中に、穂村医師失踪の手掛かりが書かれているかもしれない。
あかりは恐る恐るノートに手を伸ばし、持ち上げた。
中身を読もうと表紙に指をかけたまま、しばらく瞬きもせず固まった。
――いくら目的が正当なものであったとしても、他人の日記など盗み見てよいのだろうか……。先生には無事に帰ってきて欲しい。その一助になれば……。いや、そんな崇高な理由は後付けで、本当は単なる好奇心からなのかもしれない。
本人にも判然としない何かに突き動かされ、ついに彼女は表紙をめくった。
10月1日(水)
今日は朝から雨だった。
そのせいか、普段は比較的明るい性格の患者も鬱々とした雰囲気を纏っていた。
午後からは休診のため、久しぶりにジムで汗を流した。運動終わりの一杯は、何物にも代えがたい。
10月2日(木)
田辺さんに「タバコ臭い」と注意される。
禁煙を勧められるが、しばらくはできそうもない。
喫煙者は肩身が狭い。
10月3日(金)
今日、初診に訪れた患者・山田さんの症状が不可解だった。
「外出時や就寝後、コンロの火が点いていないか不安で、何度も確認してしまう」
最初は強迫神経症だと思っていた。
ところが、引っ越して来てこの方、一度もコンロを使ったことがない、という。
使っていないコンロの火を気にするとは、一体どういうことなのか?
聞けば引っ越し直後から急に火を使うのが怖くなった、とのこと。特段、火にまつわるトラウマもないのだそうだ。
10月4日(土)
診療受付が終了した直後、昨日から診察を始めた火恐怖症の山田さんが駆け込んで来た。
「火が怖いんです! 助けてください!」
と取り乱す。
予約は来週なので改めて、と説明しても埒が開かない。
うわ言のように
「僕の前に住んでた人、火野さんって言うらしくて……」
「よく考えたら、僕があの部屋に越したの……火曜日なんですよ……」
と繰り返しつぶやき、挙句、
「火が纏わりついてくる……」
そう言って気を失った。
しばらく応接室のソファに寝かせると、30分程で目を覚ました。まだ怯えた様子だったので、ひとまずホットミルクを飲ませた。すると幾分落ち着いたようだった。
本当は話を聞いてあげたかったが、一線を引くべきと心を鬼にして返した。
10月5日(日)
昼過ぎまで爆睡。怠惰を尽くす。
10月6日(月)
昨日寝過ぎたせいか、寝覚めがすこぶる悪かった。
喉が痛く目もしょぼしょぼする。
季節の変わり目、気をつけねば。
10月7日(火)
マチアプで知り合った人と初めて会うも写真と印象が違ってガッカリ。挙句の果てに、振られた。
10月8日(水)
太田さんに薬の量を増やしてくれと懇願される。
よく見ると、リストカット跡がまた一つ増えていた。
10月9日(木)
あの山田さんの診察日だった。
「土曜日は詳しくお話を伺えず、すみません。よく頑張りましたね」
「やっぱり、事故物件なんて借りるんじゃなかった……」
「事故物件?」
山田さんによると、彼が入居する以前の住人が3人、立て続けに亡くなっている、と言うことだった。
――なるほど、その中に火災による事故死が含まれていることを知り、火が怖くなったのか。
そう思って山田さんに聞き返したが、答えは否、だった。いずれも自殺か病死、とのこと。
「火が怖くなったきっかけがその部屋に越してきたことにあるのなら、いっそ引っ越されては?」
私の言葉を聞いて、山田さんの顔は光が射したかのように明るくなった。
「そうですよね! あぁ、なんでそんな単純なことに気づかなかったんだろう! 財布は厳しいけど……何とかしてみます!」
彼がそう言い終わるやいなやのところで、けたたましいベルの音が鳴った。
火災報知器だ。
津田くんが急いで確認しに行くと、どうやら誤作動だったらしい。
山田さんの表情が再び曇った。
ただの偶然だと励ますも、力なく「えぇ」と返すばかりだった。
帰宅後、気になって山田さんの住む部屋『サンハイツ山城503号室』を事故物件公示サイトで調べた。
その結果、実際に病死、自殺、事故死が立て続けに起きていることが判明した。
住所だけでは気づかなかったが、地図上で見ると実家と割と近い立地だということもわかった。
10月10日(金)
診察室でタバコを吸っただろうと、田辺さんに詰められる。
否定したものの、
「部屋に入ると、前が見えない程の煙が充満していたんですから!」
と、すごまれる。
そもそも、タバコを吸っただけでそんな状態になるはずがない、と指摘しても全く聞く耳を持ってくれなかった。
それはさておき、診察室に充満していたと言う煙の正体は、一体何だったのだろうか?
10月11日(土)
午前診終わりに津田くんをランチに誘う。
津田くんは「田辺さんも」と言ったが、何とか二人で行けて良かった。
今度はディナーに行きたい。
マチアプは解約した。
10月12日(日)
母親から電話。
近いんだから、たまには顔を見せろ、とのこと。
面倒くさい。
10月13日(月・祝)
久しぶりに同期の近藤くんと会食。
話の流れで症例集を借りることに。
帰りに電車で痴漢を目撃。被害女性は恐怖で身体が硬直していたので、加害者の手を掴んで次の駅で下車。駅長室まで連行した。
本来守るべき女性を襲う卑劣な犯罪は許し難い。
力になれればと被害女性に名刺を渡したが、宣伝行為と思われはしなかっただろうか……反省。
10月14日(火)
今日が初診のスマホ恐怖症の患者・田中さん。
スマホ恐怖症の患者は最近多い。だが、彼は少し違っていた。
「充電中、熱くなる時があるでしょう?燃え出さないか怖くて、持ち歩けないんですよ」
「燃え出さないか、怖い?」
「あの部屋の掃除をしてから、おかしいんすよ、自分……」
そういうと、田中さんは頭を抱えて泣き出した。
聞けば、特殊清掃員とのことで、ある部屋の掃除に入った直後から自身のスマートフォンが発火して火に飲み込まれる妄想が頭から離れなくなってしまったのだ、という。
そのきっかけとなった部屋は何もかもが異様だったのだそうだ。
まず間取りが不自然だった、とのこと。
玄関の先が廊下になっており、左にぐるぐると何回か折れると、なんと部屋のど真ん中がキッチンでその真後ろが寝室、という何とも不可思議な具合だったのだそうだ。
しかし、異様なのはその間取りだけではなかった。
「どこもかしこも水だらけで……」
「それは水浸しだった、という意味?」
「いいえ……。部屋中の壁という壁に海やら川やら、とにかく水にちなんだ絵がびっしりと隙間なく張り巡らされてたんです。それに……」
田中さん曰く、コンロの五徳の上には
『火廼要慎』
と書かれたお札がベタベタと貼られ、まるで何かを封印しているかのようだったのだそうだ。
「大家が、聞いてもないのにそこの住人の遺体発見時の様子を、嬉々として喋るもんで……」
――家賃の振込が数日遅れててよぉ。前にも似たようなこと何回もあったし、嫌な予感がしてな、見に来たんだよ。したら案の定、インターホン鳴らしても返事がねぇ。合鍵使って中に入ったらよぉ……。
「布団の上で、仰向けで、顔が真紫にパンッパンに腫れ上がって、目玉が飛び出んばかりにひんむかれて、手は喉を必死で掻きむしったままの形で、口は顎が外れるほどぱっくりと開いて、中には……」
大量のお守りが詰め込まれていたのだという。
――警察の話だとよぉ、全部火伏せ守りだったんだと。それが喉の方にまで詰まってて、窒息死だってことらしいけどよぉ、気持ちわりぃよなぁ!
そこまで言うと、大家は前歯のない口を大きく開けガラガラと嗄れた不快な声を上げて笑ったのだそうだ。
私は田中さんに
「いびつな空間に長時間いた挙句、異様な亡くなり方をした人の発見時の詳細を聞いてしまったせいで精神的に参ってしまったのでしょう」
と諭した。
そうは言ったものの、私は聞かずにはいられなかった。
「あなたが清掃した部屋って……」
「サンハイツ山城503号室です」
その名を聞いた時、私は脊髄にグブグブと冷や水を流し込まれたような不快感に襲われた。
10月15日(水)
患者に対し声を荒らげてしまった。
精神科医として、あるまじきこと。
疲れが溜まっているのだろうか?
すぐに謝罪し、事なきを得たが、本当に申し訳ないことをしてしまった。
10月16日(木)
山田さん3回目の診察。とても晴れやかな表情。
聞けば、まだ引っ越しはできていないものの、一時的に実家に戻っているのだ、という。
以来、火に対する恐怖心が綺麗さっぱり無くなった模様。
確認のため、ライターや線香花火、焚き火の映像を順に見てもらったが、全く恐怖心を示さなかった。
10月19日(日)
ここ数日、倦怠感が酷く、学生時代から休むことなく書き続けていた日記を書きそびれてしまった。
寄る年波には勝てない。
精をつけるべく今日から毎朝、生卵を飲むことにした。
10月20日(月)
スマホ恐怖症、田中さん。
スマホだけでなく、電化製品が全く使えなくなってしまったとのこと。
無理に家電を使おうとせず、当面は家電を使わなくても生活できる可能性を一緒に考えていこうと提案。
「因みに、火は大丈夫?」
そう言って、私がライターの火を見せると、凄い勢いで部屋の隅まで逃げて、身を縮こませてガクガクと震え出した。
「怖い……怖い……」
これから寒くなる。本格的に冬がやって来る前にせめて暖房器具だけでも使えるように治療プログラムを考えなければ。
10月21日(火)
津田くんをディナーに誘うと、快諾された。
前に同窓会の二次会で訪れた、アクアリウムレストランに連れて行った。
悠然と泳ぐ魚たちに囲まれていると穏やかな気持ちになれ、自然と緊張も解れた。
10月22日(水)
太田さんが予約時間になっても来なかった。
しばらく連絡がつかなかったが午後診時に折り返し彼女の祖母から電話。
手首を切って入院中とのこと。
気長に向き合って行くしかない。
10月23日(木)
夢を見た。
草原にいた。異様に背の高い草の中をスイスイと移動する。
いや、草が高いのではない。自分の頭が低いのだ。
歩いているのではなく、地を這うように進んでいた。
目覚めると、言い知れぬ倦怠感に襲われた。
今朝は生卵を2つに増やした。
10月24日(金)
今日、田辺さんに
「先生、禁煙続いてますね」
と褒められた。
自分では全く意識していなかったが、そういえばここのところタバコを吸いたいと思わなくなっていた。
正直に言うと、またややこしくなりそうなので、
「そうなんですよ! ありがとうございます」
と言って、ごまかした。
10月25日(土)
久しぶりに重い腰を上げて実家へ。
結婚や何や、やいのやいの言われるのが少々うっとうしいものの、やはり、ほっとする。
自転車で来る途中、あるマンションの前に人だかり。見ると消防車も出動していた。しかし、火の気配は無い。
去り際、マンション名を横目に見て、悪寒が走る。
『サンハイツ山城』
(実家に日記帳を持って来忘れたので、スマホにメモしたものの書き写し)
10月26日(日)
朝食時サンハイツ山城のことを聞いてみた。
「昨日来る時さ、火事? 消防車が来て、騒ぎになってたんだけど」
「あー、サンハイツだろ? よくあるんだよ、あそこ」
「どういうこと?」
「消防車の誤出動。消防署も大変だねぇ。いたずらってわかってても、万が一ってことがあるから出さざるを得ないんだろ」
「犯人わからないの?」
「さーねー。母さんそこまで知らないけど、続いてるってことは、わからないんじゃないのかい? まぁ、あそこはマンション建つ前から色々あったからねぇ」
「色々って?」
「あんた覚えてないのかい? あそこ『コロコロ屋』って有名だっただろ?」
「あー! あの、なにやってもすぐ潰れる店! あそこだったのか!」
金物屋、散髪屋、コンビニ、そば屋、惣菜屋……住宅街の中にあり、どれもそれなりに需要がありそうな商売であるにもかかわらず、何をやっても一年と持たないので、近所では『コロコロ屋』と呼ばれた店舗があった。
サンハイツ山城はその跡地に建てられていたのだ。
「だからかねぇ、しょっちゅう引越しのトラックが止まってるよ。なんか、曰くでもあるのかねぇ」
「曰くってそんな、非科学的なこと……」
「いいのかい? 精神科のお医者がそんな否定的なこと言って」
「母さんは患者じゃないでしょうよ」
非科学的と切り捨てたものの、僕は思わず聞いてしまった。
「火事とかは、無かったの?」
「火事は無かったけど……飛び降りはあったよ」
「それは知ってる」
事故物件サイトに載っていた。
「それが不思議でさぁ」
「不思議って?」
「目撃した隣のおばあちゃんの話じゃ、それこそ火事の時みたいな飛び降りだったそうなんだよ」
――熱い、熱い!
――助けてくれー!
――水ー! 水ー!
「ほら、昔あったろ? 大きいビルでの大火災。あの時、火の手から逃れるために多くの人が飛び降りて、その様子がニュースやワイドショーなんかで連日流されてたんだけども、その時の映像で見た光景そのものだったらしいよ……火の気がないことを除けば」
「どうせ、なんかヤバいクスリでもやってたんでしょ?」
返事とは裏腹に私の胸はザワザワと不気味に搔き乱れた。
10月27日(月)
今日は無断キャンセルが3件も重なった。特に電化製品恐怖症の田中さん、今日から本格的に治療プログラムを始めるつもりだったのに……。
10月28日(火)
今日、帰宅するとドアの前に砂の山があった。しゃがみ込んでよく見てみると、それは砂ではなく灰だった。
すぐに管理人を呼び、片付けてもらう。防犯カメラは故障中とのこと。全く、それなりに賃料の高いマンションなのだから、しっかりして欲しいものだ。
それにしても、一体誰が何の目的でこんなくだらないイタズラをするのだろう?
10月29日(水)
やはりサンハイツ山城のことが気になって、午後診休みを利用して実家近くの図書館へ。
地元の古地図で土地を調べるも、江戸時代以降ずっと畑であったことくらいしか分からなかった。昭和の高度経済成長の頃、ここら一帯が宅地開発された折りに金物屋になり、以降長らく店舗として利用され、平成末期にマンションが建てられたのだそうだ。
これと言った曰くも、出てこなかった。
やはり偶然の一致、なのだろう。ほっと胸を撫で下ろす。
図書館を出て、実家へ向かう途中、公園のブランコに座る田中さんを見つけ、声をかけた。
「田中さん、昨日はどうされました?」
「あぁ、穂村先生……すみませんでした」
頬は痩せこけ、髪もボサボサ。服もヨレヨレで臭いこそしないものの、数日間着替えていないような出で立ちだった。
「ここじゃなんですから、ファミレスにでも行きますか?」
「嫌です! 電気のないところにいたいんです!」
憔悴しきった彼の様子からは似つかわしくないほどの大声だった。
「もしかして、連絡できなかったのは?」
「電話が、怖くて……」
聞けば家中の電化製品から発火する妄想に苛まれ、家のブレーカーを全て落としてしまったそうだ。さらにそれだけに留まらす、ここ数日はスーパーに買い物に行くことすら恐怖だったとのことだ。
もちろん、クリニックも電気だらけだ。
「僕の実家が近くなんですよ。家に入るのが怖かったら、庭で一緒に晩飯食べませんか?」
「そんな……申し訳ないです」
「僕は医者ですよ。栄養失調の患者をみすみすほおっては、おけませんよ」
母に電話で確認を取り、そのまま田中さんを実家まで連れて行った。
玄関へは向かわず直接庭の方へ回ると、縁側に、ビュッフェと見まごうばかりの大量の料理が用意されていた。
「ちょっとおふくろ、こんな量、二人でどうやって食えばいいんだよ」
「でも、そちらさん、何日もろくに食べてないんだろ?」
「そうだけどさ……」
田中さんは挨拶もそこそこに、縁側に腰掛けると母が馬鹿ほど作ったおにぎりやら唐揚げやら卵焼きやらに食らいついた。
「息子から聞いたけど、あんた特殊清掃してるんだってねぇ。立派な仕事だねぇ」
大量に振る舞われた食事をあっという間に平らげてしまった田中さんに温かいお茶を出しながら、母がそう話を振った。
「今はちょっと休ませてもらってるんですけど……」
「大丈夫、大丈夫。人生長いんだからさ、そういう時もあるもんだよ」
「ありがとうございます」
田中さんはそう言うと、おいおい泣き出した。
「アンタここら辺に住んでるのかい?」
「少し離れてますけど、まぁ」
「だったら私が買い物代行してあげるよ」
「ちょっと、母さんそれは……」
「医者と患者の距離感がどうのって、言うんだろ?そりゃアンタがそこまでするのは良くないだろう。だけど私がやるんだから、私の勝手だろ?」
「田中さん、迷惑だったらハッキリ断って大丈夫ですよ」
「迷惑だなんて……。俺、両親を早くに亡くして、頼れる人もいなくて……ありがとうございます」
「この子治療の腕は確かだからさ、安心して少しずつ前を向いて行きゃいいんだよ」
俺の治療の腕、なんで母さんが知ってるんだよ。
10月30日(木)
山田さんの母親から電話。
山田さんが亡くなった、とのこと。
彼女はどこか他人事のように、淡々と詳細を伝えた。
「朝、なかなか起きてこなくて。このところ、また様子がおかしくなっておりましたもので、胸騒ぎがして寝室へ参りました。息子はベッドの上で寝ておりましたが、すぐに普通ではないことに気づきました。なにせ……いちごミルクみたいだったもので」
「いちごミルク?」
「全身の肌の色がいちごミルクみたいなピンク色で……それはそれは恐ろしい程に綺麗でした」
今までの無機質な調子がうってかわって、まるで美しい思い出を語るかのようなうっとりした声色で、そう彼女は語った。そのことにいたたまれず、私は思わず受話器を耳から離してしまった。
軽く深呼吸をして、私は会話を続けた。
「もしかして、一酸化炭素中毒で?」
「はい。さすが、お医者さまはお詳しくていらっしゃるんですね!」
今度は商売人のような調子のよい受け答えだった。
「まぁ……ということは、息子さんは自ら?」
「いえ。息子はいつものように寝ていただけです。火も炊いておりません。ところが、警察が不審に思って解剖したら……」
喉が焼けただれていたのだそうだ。
そのせいで事件性を疑われ、家族全員警察に執拗に聴取されたのだという。ところが、他に不審な点が無いため、事故死として処理された、ということだった。
「あの子、先生には本当にお礼を申しておりました。ですが……」
「何ですか?」
「あの子が行くべきだったのは精神科じゃなく、お祓いだったんじゃないでしょうか」
漆黒の闇のような声でこちらに投げかけると、彼女は唐突に電話を切ってしまった。
あまりにも衝撃的な言葉で締めくくられたため、そのまましばらく固まって、私は通話終了を知らせるツーツー音を、ただただ聞き続けるばかりだった。
山田さんの母親は電話でこんなことも言っていた。
実家に身を寄せるようになってから数日間は落ち着いていたが、徐々にまた火を恐れるようになったのだ、と。
亡くなる数日前からは、虚ろな目をして
「火が……火が」
「死にたくない……」
「殺さないでくれ!」
と、空中に向かって喚いていたのだという。
自殺ではなかったにせよ、患者に死なれるのは辛い。
それにしても何なんだ、サンハイツ山城は。
10月31日(金)
診察終わり、久しぶりのジム。
いつもはランニングマシン一択だが、たまにはと思いプールで軽く泳ぐ。
なかなかに気持ちよかった。
やはり、水はいい。
11月1日(土)
朝からやけに暑く、クリニックで冷房をつけたら田辺さんに怒られた。
やたらと喉も乾き、水ばかり飲んだせいでトイレが近くなり、めんどくさかった。
まさか糖尿か?
11月2日(日)
ショッピングモールで買い物。ふらっと立ち寄ったペットショップで大きい水槽に一目惚れ。魚もレイアウトも込みで購入可ということで、即決。
11月3日(月・祝)
朝から激しい頭痛、吐き気、それからめまい。
熱はなし。
風邪薬を飲んで日中ほとんど何も食べずに寝込む。
夕方頃から徐々に体調が回復。
生卵だけ飲んで、今日はもう寝よう。
11月4日(火)
昨日よく寝たおかげで体調はすっかり回復した。
昼の休診時間に水槽と魚が届く。田辺さん津田くんも気に入ってくれた。
午後診の患者さんたちにも好評。
11月5日(水)
午前診中に母から電話。
受付終了後、折り返し掛けてみると警察署にいると言われ慌てて母の元へ。
田中さんの家へ食材を持って行ったところ、彼の変わり果てた姿を発見してしまったのだという。
「チャイム鳴らしても音が出なくて、あぁこれも電気だったわねって思って、ノックしたの。でも応答がなくてね。心配になってドアノブ回したら開いちゃって。微かに水の流れる音が聞こえて、お風呂入ってるから聞こえないのかなって買ったもの玄関に置いてそのまま出てきたんだけど、鍵を開けたままじゃ物騒だなって引き返して、しばらく玄関で待ってたの。でも、おかしいことに気づいて……」
「何?おかしいことって」
「水の音がずっと一定だったのさ。普通シャワー浴びたりする時って、シャワーとか身体が動くから音が不規則に変わるだろ?そうじゃなくてずっと同じだったから、なんだかイヤな感じがして見に行ったら……」
並々と水が張られた浴槽の中に着衣のままうずくまった状態の田中さんを発見したのだそうだ。
そこには、携帯やパソコン、アイロンに炊飯器といった小ぶりの家電が一緒に沈められていたのだという。
幸い午前診のみの日だったため、その足で警察署まで母を迎えに行き、実家へと付き添った。
「俺しばらくここから通勤しようか?」
「ううん、大丈夫。母さんご遺体は見慣れてるから。ほら、救急の看護師だったろ?だから、顔が潰れてたり、足がちぎれてたり、もっと悲惨な状態の人、たくさん見てきたから平気……」
「でも……」
「アンタの顔を見たらあの子のこと思い出すから、一人にさせとくれ」
半ば追い返される形で帰宅し、今これを書いている。
11月6日(木)
次の休みにデートに誘うべく、津田くんに声をかけようとしたところ、給湯室で誰かと電話中だった。
盗み聞きするつもりはなかったが、電話が終わるまで待とうと給湯室の入口に立っていると自ずと会話が聞こえて来た。
相手は男らしかった。
それとなく田辺さんに聞くと、もうずっと前から恋人がいるとのこと。
許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない
11月7日(金)
腹が立って昨夜は一睡もできず。
だが、よくよく考えると僕たちは2回飯を食いに行っただけだ。勤務する病院の医師に誘われて断れる看護師もいないだろう。
最近怒りっぽくなった。反省。
11月8日(土)
近所の焼き鳥屋へ行くと、カウンターの端で項垂れている若い女性を発見。飲み潰れるにしては早い時間だったので、心配になって声をかけると気分が悪いとのこと。
店主に奥の座敷へ移る許可をもらい、楽な姿勢にさせ休ませるとしばらくして回復。
「大丈夫ですか?」
「えぇ、もう平気です。焼き鳥焼いてるの眺めながらぼーっとしてるうちに、ちょっと気分が悪くなって……」
温かいお茶を飲ませると、もうすっかりよくなったようで話も弾み、意気投合。
聞けば不動産会社で営業をしている、とのこと。
あんな質問、しなければ良かった……。
「最近、仕事で事故物件の住人と関わる機会があったんですけど、やっぱりなんかヘンなこととかって、あるんですか?」
「私の担当する物件にもありますよ、事故物件……」
「何があった物件なんです?」
「自殺や病死が立て続けに起こって。直近の入居者さんは何か起こる前に引っ越されたのでホッとしてますが」
「え?」
嫌な予感がした。
「とにかく、不気味な間取りでねぇ。同じマンションの他の部屋は至って普通なんですけど、その一室だけ特殊で」
聞きたくない。
「玄関開けるとまず廊下があって、それがぐるりと、そう、のの字みたいになっててですね、最初の突き当たりを左に折れてまっすぐ行くと突き当たりにユニットバスと洗面所、そこをまた左に折れると何故か部屋の真ん中に台所、その後ろに寝室っていう奇妙な配置で」
やめてくれ! と叫ぶつもりで開けた口はしかし、全く別の言葉を放っていた。
「その部屋って、もしかしてここの近くの……」
「えぇ、サンハイツ山城の一室ですよ」
彼女が答え終わるやいなや、私はテーブルに一万円札を叩きつけ、矢も盾もたまらず居酒屋を飛び出した。
気づかぬうちに取り囲まれてしまっていた!
忌々しい、炎に!!!
次は私の番だ……。
11月9日(日)
秋葉三尺坊大権現
愛宕権現
三宝荒神
火之迦具土神
11月10日(月)
隙を見て津田くんのスマホを盗み見。
恋人と思しき男の名前と連絡先を突き止める。
篠田昌紀
合コンで知り合った、外資系企業に勤める営業職。
合コン……肉欲にまみれた汚らわしい酒宴
軽薄な尻軽女め!
彼女と一緒に笑顔で写る篠田は、スポーツマンタイプの爽やかなイケメンだった。
どうして、女たちはいつも、こういう浮ついて、チャラチャラした男を選ぶ?
どうして僕じゃだめなんだ?
学歴も地位もあって、見た目も、男前とは言い難いものの至って普通な僕を、どうして誰も求めてはくれないんだ!
霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草 霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草 霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草 霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草 霜柱氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 露の葺き草
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
水が欲しい水が欲しい水が欲しい水が欲しい水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水みずみずみずみずみずみずみずみずみずみすみすみすみすみみみみみみみみみみみみみ
火あぶりにしましょうか?
それとも絞め殺しましょうか?
どうやって息の根、止めましょう?
ちろろろろ
篠田とあかりを殺してやろうと思ったが、もっとおぞましい方法を思いついた。
ねぇ、読んでるんでしょ?
見つけたんだろ? この日記を。
近藤くんは僕があの本を借りる時、
「近々僕も使うあてがあるから、早めに返して欲しい」
と言っていた。
僕がいなくなってしばらくしたら、きっと彼は連絡してくるだろう
「貸した本を返して欲しい」
とね。
彼は忙しい男だから午前診と午後診の間ではなく、きっと午後診が終わってから電話をよこすはずだ。
田辺さんは子どもが小さいからそんなに遅くまではいられない。僕が居なくなったクリニックの後片付けを遅くまでしているのは津田くん、君一人だろう。
そこへ本を返すよう電話が入れば、自ずと君一人で僕の診察室兼仕事部屋へ来るはずだ。本棚を探してもない……借りた本だからデスクにあるのかもしれない。
そこでこの日記を見つけるというわけさ。
僕を心配して、居所の手掛かりがないか、そう思って仕方なく読んだだけだと?
この偽善者め!
違う違う!お前はその浅ましい好奇心からページをめくったまでのことだ!
さてと、そんなことはもうどうでもいい。
ここまで読んだのなら気づいただろう?
この部屋の呪いの恐ろしさを。
一度関わりを持ったが最後、まるで火の粉のように理不尽に飛んで来て、相手を焼き尽くすまでその火が消えることはないんだ。
そうさ、愚かな人間どもに焼き払われた私の恨みの業火が消えることは、未来永劫ないのだ!!!
この男も、既に正気を失っている……。
私の呪いの炎に巻きつかれて!
決して逃しはしない!
この男はもうじき死ぬだろう……。
そして……お前も!!!
「津田さん!」
急に名前を呼ばれて、心臓が縮み上がる思いであかりが振り返ると、そこにいたのは近藤医師だった。
「いくらたっても保留音のままだったから、何かあったんじゃないかと心配になって来てみたんだが……どうしたんだい、そんな青ざめた顔をして」
一気に身体の力が抜けて、あかりは膝から崩れ落ちた。
近藤医師に支えてもらい、やっとのことでソファへ座ると、穂村の日記について、少しずつ説明した。
「事故部屋の呪い? 何、穂村が君に横恋慕して? いやいや、そんな……」
「お疑いなら、この日記を読んでください!」
あかりは近藤の胸元に穂村の日記を決然と突きつけた。
「他人の日記を盗み読みするのは気が引けるが、まぁ……」
一通り日記に目を通すと、近藤は得心がいかない表情で
「特に君に対する恨み節みたいな文言は見当たらないけど」
と言った。
あかりが近藤から日記をひったくって読み返すと、11月8日、つまり、居酒屋で不動産会社の女性と知り合い、あの部屋の関係者と知って怯えて逃げ帰った日の記述が最後となっていた。
「確かに、君に彼氏がいることを知った日はちょっと異常な感じだけど、翌日には反省しているし、君に対して何? 呪いだなんだってそんなことは、無いみたいだけど。それに、君の話では11月10日に君のスマホを盗み見たという記述があったそうだけど、その日は既に穂村は行方不明になっていたんだろう?」
近藤医師の言う通りだった。無断欠勤の初日がまさに11月10日だったのだ。
「さっきは確かに書いてあったんです!」
「まぁ、同じ事故物件に関わる患者を偶然診ることになって、しかも二人とも亡くなってしまって穂村が精神に異常をきたしていたことは事実だろう。でもここに書かれていることはほとんど穂村の妄想だから、あまり気に病まない方がいい。他人の、しかも病的な日記を読んでしまったばかりに、君も変な妄想に取り憑かれてしまって、幻覚か夢でも見たんだろう」
「そうだと、いいのですが……」
「こういう時はね、美味いもん食うに限る。僕も安心したら急に腹が減っちゃって」
あかりは食欲などなかったが、近藤の提案に素直に従うことにした。
「近くに美味い焼肉屋があるんだけど、どう? あぁ、僕は穂村と違って邪な気持ちは無いよ」
「焼肉はちょっと……」
「なら、イタリアンは?」
「えぇ」
「店の真ん中にある釜で焼くピザが名物の、いい店があってさぁ!」
「あの……和食はいかがですか?」
「え? そうか、まだ食欲があまりないんだね。じゃぁ軽くうどんでも食べて帰りますか」
クリニックの戸締りをして、二人で目的の店へと向かった。
「因みに、穂村先生が先生にお借りしてたのは何の本なんですか? 外国語の本だからよく分からなくて……」
「あぁ、“Fallsammlung zur Pyrophobie”『火恐怖症』の症例集だよ」
そう答えた近藤への返事もそこそこに、あかりは後ろを振り返った。
「ん? どうかした?」
「いえ……何でもありません」
背後から夜風に乗って、微かに消防車のサイレンが聞こえる。
――私の恨みの業火が消えることは、未来永劫ない……。




