第五章 姿なき訪問者
達也が神社で倒れてから二日。彼の高熱はようやく下がったものの、目の焦点はまだどこか曖昧で、返事をしても上の空のようだった。医者は「夏風邪のようなもの」と言ったが、俺にはとてもそうは思えなかった。あの夜、彼が呟いた言葉が頭から離れない。
――また、十年。
あの囁きは、確かに夢の中で聞いたものと同じだった。偶然で済ませられるはずがない。
夏休みの間、俺は町の安アパートを借りていた。築四十年以上は経っていそうな木造の二階建てで、壁は薄く、隣室のテレビの音が筒抜けになるほどだ。だが、ある夜から隣の音よりも不気味なものが耳に届くようになった。
それは「音」というより、気配だった。
最初は、就寝前に机の上に置いたボールペンが勝手に転がった。窓は閉まっていたし、風など入っていない。だがペンは机の端から落ち、床に乾いた音を立てた。偶然だと自分に言い聞かせたが、それは始まりにすぎなかった。
翌晩には、冷蔵庫の扉が勝手に開いていた。中の電気が淡く光っていて、俺が閉めるとすぐに「ギィ」と音を立てて再び開く。何度閉めても同じだった。とうとう俺はコンセントを抜き、台所の隅に座り込んだ。背中を伝う汗が冷たい。
その夜、夢を見た。
暗闇の中、どこかの神社の境内に立っている。視界の端に、白い影がいくつも漂っていた。達也の声が聞こえた気がして振り返るが、そこにいたのは達也ではなかった。無表情の子どもの顔。目が二つあるはずの場所は影のように黒く沈み、口だけがにやりと裂けていた。
その顔が近づき、俺の耳元で囁く。
――また十年。
その瞬間、目が覚めた。だが夢と現実の境は曖昧で、俺は布団の上で硬直したまま呼吸も忘れていた。耳の奥には、まだ囁き声が残っていた。
怪現象は日に日に強まった。夜になると、部屋の隅に人影のようなものが立っている気配がする。電気をつけても誰もいない。窓ガラスには、まるで外から覗き込むように、白く曇った手形が浮かんでいた。
「気のせいだ、全部気のせいだ」
口に出して繰り返したが、説得力はなかった。むしろ声にすることで現実味を帯びてしまう。
ある晩、極めつけの出来事が起きた。
眠りについたはずの俺は、ふいに金縛りのような感覚に囚われた。身体が動かない。瞼だけが開き、天井を見つめていた。そこに、顔があった。
天井に張りつくように逆さまの顔。十年前、窓の外に現れた“あの顔”だった。目は虚ろで口元は動かない。それでも声は直接頭の中に響いた。
――お前は、十年前に選ばれた。
――逃げられはしない。
胸が押し潰されるように苦しく、息ができない。叫び声をあげようとしても喉は凍りつき、ただ涙だけが流れた。
次の瞬間、意識が途切れた。
目を覚ますと朝だった。布団は汗でぐっしょり濡れていた。だが一番恐ろしかったのは、夢ではなく「現実」だったことを示す痕跡だ。天井の角、薄い木材に灰色の手形が残っていた。人のものにしては異様に小さな、子どもの手形。
俺は震える指でそれをなぞりながら、ようやく理解した。
これは“偶然”でも“気のせい”でもない。十年前に俺が見たものと、今起きていることは、一本の線で繋がっている。
十年ごとに繰り返される怪異。
そして、次は――俺の番だ。
その夜も夢を見た。
夢の中で、俺は神社の祠の前に立っていた。闇の中、無数の影が集まり、誰かの名前を囁いている。耳を澄ますと、それは俺の名前だった。
「……悠真……十年……」
目が覚めたとき、俺は声にならない悲鳴をあげた。
布団の横に、誰かが立っていたからだ。
白い影が、ただ無言で俺を見下ろしていた。
気を失う寸前、再びあの声が囁いた。
――また十年。