第二章 封じられた記憶
朝、目を覚ますと蝉の声が耳をつんざくように響いていた。
昨夜の出来事を夢だと片づけられるなら、どれほど楽だろう。だが体の芯に残る恐怖は、ただの夢ではなかったと訴えている。
朝食の席で、俺はつい口をついて出た。
「……なあ母さん。十年前の夏、変なことがなかった?」
母は味噌汁をかき混ぜていた手を止めた。けれどすぐに、笑い飛ばすように言った。
「なによ急に。子どもの頃の夢をまだ引きずってるの?」
「夢じゃない。家の前に白い影が立ってたんだ。窓の外にも、顔が……」
言葉を継ぐ俺を、母は真っ直ぐ見つめた。その瞳には、怯えにも似た色が一瞬だけ浮かんだ。けれどすぐに視線を逸らし、平然を装って箸を動かす。
「気のせいよ。小学生の頃って、そういう想像をよくするものなの。ホラー番組の見すぎだったんじゃない?」
語気がわずかに強い。まるで「それ以上話すな」と釘を刺すかのように。
俺は言葉を飲み込んだ。母が本気で取り合う気がないことは分かる。だが同時に、あの瞳の揺らぎが気になって仕方がなかった。
昼過ぎ、逃げるように外へ出た。懐かしい通学路を歩くと、汗ばむシャツに土の匂いがまとわりつく。角を曲がると、小学校の頃の友人・達也が偶然通りかかった。
「悠真? お前じゃねえか!」
十年ぶりに会った達也は、記憶の中のやんちゃ坊主から少し大人びていた。互いの近況を語り合い、気づけば喫茶店で向かい合っていた。
俺は迷った末、昨夜の出来事を話した。達也は冗談交じりに笑うかと思ったが、真剣な顔つきで身を乗り出した。
「……お前も見たのか。あの白いやつを」
心臓が跳ねた。
「覚えてるか? 十年前、夏祭りのあとだ。俺も家の裏で見たんだよ。街灯の下に立っててさ、顔がはっきり見えねえのに、じっと見られてる気がした。次の日から高熱が出て、二週間寝込んだんだ」
初めて聞く話だった。
俺と同じ体験をしていたのは、決して自分だけではなかった。
「けどな、あの年……おかしいことが多かったろ?」
達也は声を潜める。
「事故とか行方不明とか。俺の親父も『子どもは夜に出歩くな』ってうるさかった。今思えば、あれって……」
その先を口にする前に、店員が水を運んできた。達也は口をつぐみ、ただ氷を弄ぶだけだった。
帰り道、胸の奥で何かがざわついていた。十年前の「影」は単なる幻覚ではなかった。そして、あの夏に“事件”があったことは確かだ。
けれど町は、何事もなかったように沈黙を保っている。まるで誰も触れてはいけない秘密であるかのように。
夜。再び家の窓から外を覗くと、昼間の暑さが嘘のように静まり返っていた。遠くで犬が吠え、風鈴が揺れる。
暗闇の中で、自分の心臓の鼓動ばかりが大きく響く。
「気のせい……か?」
呟いた瞬間、電柱の影がわずかに揺れた。
いや、揺れたのではない。何かが立っていた。
白くぼやけた影。
全身の血の気が引く。窓を閉め、カーテンを引き、布団に潜り込む。だが脳裏に焼きついた映像は消えない。
母は「気のせい」と言い、友は「あの年に見た」と告げる。
ならば、真実はどこにあるのか。
十年前にこの町で起きた“何か”が、今もなお俺たちを縛っているのか。
その夜、夢の中で、またあの声がした。
「――また、十年」
目を覚ますと、頬に冷たい汗が流れていた。時計は深夜二時十分を示していた。