第一章 再び
電車を降りると、真夏の湿った空気がまとわりついてきた。大学三年の夏休み、俺――悠真は十年ぶりに故郷へ戻ってきた。
駅前はほとんど変わっていない。古びた商店街、錆びついたアーケード、蝉の鳴き声が木霊する狭い路地。だが懐かしさよりも、胸の奥を締め付けるような不快感が先に立つ。この町には、俺が決して忘れることのできない“記憶”が眠っているからだ。
小学四年生の夏、あの夜。
家の前に、見てはならないものが立っていた。
街灯の下で、白い影がじっとこちらを向いていた。顔があるようで、しかし輪郭がぼやけ、まるで仮面をかぶった人間のようにも見えた。窓越しに息を殺して凝視していると、その顔だけがスッと浮き上がり、無表情のまま窓に張りついた。――次の瞬間、俺は気を失った。
目を覚ました時には誰もいなかった。大人たちは「夢だ」と言い、俺もそう思おうとした。だが十年経った今でも、あの感触は鮮明に残っている。忘れたことは、一度もない。
母の待つ家へ歩く道すがら、夕暮れの影が町を飲み込んでいく。空は赤黒く染まり、蝉の声も途切れ途切れに弱まっていく。
その瞬間、ふと足が止まった。電柱の下、十年前と同じ場所に“何か”が立っている気がした。
見間違いだ。そう思って視線を逸らし、再び振り返る。誰もいない。心臓が大きく跳ねる。
家に帰り、母に笑顔で迎えられる。リビングには変わらない匂い、古い扇風機の音。だが安堵は長くは続かなかった。
夜、布団に入ると、再びあの記憶が脳裏に蘇る。眠れぬまま、時計の針が深夜を指すのを見つめていた。
カタ、と窓の外で音がした。
ゆっくりと顔を向ける。カーテンの隙間から月光が差し込み、外の暗がりを照らしている。その光の中に――“白い影”が立っていた。
十年前と寸分違わぬ姿で。
呼吸が止まった。全身が凍りつく。
影はじっとこちらを見ている。輪郭は不鮮明で、しかし確かに「人の形」をしていた。
次の瞬間、窓のガラスに“顔”が張りついた。
のっぺりとした白い顔。目も鼻も口も判然としない。だが、それが確かに俺を凝視していることだけは分かった。
「――ッ!」
声にならない悲鳴が喉を突く。
体が動かない。
影の顔が、ゆっくりと歪む。笑っているようにも、苦しんでいるようにも見える。
心臓が耳の奥で爆発するように脈打つ。汗が背中を流れ落ちる。
そして、影の口が動いた。
――「また、十年」
確かにそう聞こえた。
次の瞬間、強風が窓を叩き、カーテンが大きく揺れた。恐る恐る目を凝らすと、そこにはもう何もいなかった。
俺は震える手でスマホを掴み、時間を確認した。午前二時十分。
十年前に影を見たのも、確か同じ時刻だった。
偶然か、それとも――。
布団の中で耳を塞いでも、外からは確かに声が響いていた。
「また十年」「また十年」
囁くような声が、夜風に乗って窓の外を流れていった。
翌朝、母は何事もなかったかのように朝食を並べていた。
「顔色悪いわね、夜更かししたでしょ」
俺は何も答えられなかった。
夢だったのかもしれない。だが心臓の高鳴りは、現実の証拠のように今も胸に残っている。
――十年前と同じ現象が、再び始まった。
この町で。