16 優しいご主人へ
長年一緒だった飼い犬が老衰で死んでしまった
短くなった蝋燭の火がゆっくりと消えてしまうように息をしなくなった
17年前の通り雨が過ぎ去った夏の日、ビショビショに濡れて縮こまっていたこの子を保護して家に連れて帰ってきた
飼い主は見つからず、自分で世話をすると言って両親を困らせた
困惑する両親を懸命に説得し家で飼うことになった
それから私は大学まで卒業し、就職、結婚までした
結婚する時に家族からは、犬は残していけと言われたが、どうしても一緒にいたくて新居まで連れてきた
夫も一緒に可愛がってくれて幸せな時間だった
その幸せな時間はもうここにはない
でも、涙は出てこない
哀しいという感情の欠片も見当たらない
火葬をペット斎場にお願いし家に帰ってきた
いつもあの子がいた場所には誰にも使われない水飲み用のトレーがまだ置いてある
そこに綺麗に畳まれた便箋が1枚置いてあった
不思議に思いながらその便箋を開いてみた
ご主人、今のあなたはどんな表情をしてますか?
あなたはその優しさのせいで我慢してしまうところがありますね
自分が感情を露わにしたら迷惑とか思ってませんか?
ボクといるあなたはいつも自然体でいましたね
今もそうだと良いな
もし今、心が空っぽになってしまったなら、1つボクと約束をしませんか?
困っている犬に出会ったら、その時はボクにしてくれたようにその子を助けてあげてください
あなたのおかげでボクは幸せな時間を過ごせました
小さいボクを拾って、育ててくれてありがとう
一緒に遊んでくれてありがとう
最後を穏やかに迎えさせてくれてありがとう
たくさんの幸せをありがとう
あなたが笑顔でいられますように
優しい文字で書かれた手紙
でも、あの子が書いたものでは無い事は明白だ
文字でこの手紙は夫が書いたものだとすぐ分かった
近くで様子をうかがっていた夫が声をかけてきた
「君の様子が心配であの子の言葉を借りさせてもらったよ。ずっと君たちを見てきて思った事を書いたんだ。あの子もきっと幸せだったと思うよ。」
その言葉を聞いて、涙が急に溢れてきた
夫の腕の中でわんわんと声をあげて泣いた
それから程なくして夫との間に娘ができた
その後は犬を飼うことも無く5年が過ぎた
通り雨が過ぎた夏の暑い日の午後、公園に遊びに行っていた娘が大きい声をあげて帰ってきた
「おかーさーん! ビショビショに濡れたワンちゃんいたの! 助けてあげて!」
玄関にはあの日の私とあの子のように濡れた娘と子犬がいた
キミとの約束がやっと果たせそうだよ




