灰に揺蕩う
私は暗い闇の中を漂っていた。
——いや、もしかしたら落ちているのか?
ううん、ただ流されているだけなのかもしれない。
よく見えないけれど、手足はあるようだし、動かすこともできる。
ここは、どこだろう?
私は、なぜここにいるのだろう?
……なんだか分からないけれど、考えても仕方がないので目を閉じた。
***
どれくらい、そうしていただろう。
閉じたまぶたの向こうに、突然、光を感じた。
「大丈夫? そんなところに寝ていたら危ないよ」
誰かの声がする。
私に言っているのだろうか?
漂っているのだと思っていたけれど——私は、寝ている?
「ほら、目を開けて、起き上がりなさい」
その声を聞いたら、なぜだか身体が急に重くなった気がした。
背中に、固くて冷たい地面を感じる。
……そうか、私は寝ていたんだ。
目を開けて身体を起こすと、そこには緑色の服を着た彼が立っていた。
緑の服の彼は、私に手を差し出しながらこう言った。
「やあ、起きたようだね。なんでこんなところで寝ていたんだい? いや、そんなことはどうでもいいか……。行くあてがないのなら、僕と一緒に来ないか?」
彼の手に支えられながら起き上がる私に、そう微笑みかける。
よく分からないけれど、彼といたら楽しそうだな。
何より、私を見つけてくれた。
きっと、彼はいい人だ。
私の中に、緑色がじわりと広がる。
彼について行くことにした私に、彼は笑顔で話を聞かせてくれる。
「僕はね、旅をしているんだよ。いろんなものを見て、聞いて、たくさんの人に出会って——自分の世界を広げたいんだ」
すごい人なんだな。
何も持たない私には、彼の言っていることがよく分からなかったけれど、その優しい笑顔と声は、なんだか身体の奥をあたためてくれた。
「じゃあ、あなたはたくさんの世界を見てきたのね。それは、素晴らしいものだったのでしょう?」
彼の話をもっと聞きたくて、私は問いかける。
「ああ、世界は広くて、輝いている。人々はみな優しくて、あたたかい。君も、僕と一緒にいれば——きっと、同じように感じられるさ」
そう言うと彼は、私の手を取って走り出した。
彼の手はあたたかく、頬を撫でる風は心地よい。
ああ、世界はなんて素晴らしいんだろう。
私の中の緑色が、どんどん濃くなっていく。
「ねえ、あなたはどこから来たの? ずっと一人で旅をしているの?」
ふと気になって聞いてみると、彼は振り返らずにこう答えた。
「……なぜそんなことを聞くんだい?」
大した意味はなかったのだけれど、なぜだか彼の声が、少しだけ冷たくなった気がした。
「ごめんなさい。ちょっと気になっただけなの」
「そうか。僕たちは前だけ見て歩いていればいい。
振り返ったって——どうせ君には、何もないのだから」
確かに、彼の言うとおりだ。
私は空っぽで、何も持っていない。
彼の過去の話なんて、聞いてもきっと意味がない。
——これから彼と見る世界のほうが、ずっと大切だ。
しばらく彼と歩くと、木の影に老人が座り込んでいるのが見えた。
真っ青な服を着たその老人は、背を丸め、ノートのようなものを見つめながら——
ぶつぶつと、誰にともなく呟いている。
「……あのお爺さん、どうしたのかしら?」
私が尋ねると、彼は肩をすくめてこう答えた。
「さあね。……ああいうのには、関わらない方がいいよ」
私の中の緑に、どんよりと青色が滲む。
「でも、あなたは私に声をかけてくれたじゃない?私も——あなたのように、彼に手を差し伸べたい」
そう言うと、彼は急に笑顔になって、私の頭を撫でてきた。
「……そう言ってくれると思っていたよ。君はやっぱり、優しい人だね」
なんだ、そうか。
私がそう言うのを、彼は待っていたんだ。
——やっぱり、彼は素敵な人だ。
「ねえ、お爺さん。そんなところで、何をしているの?」
私は、彼と出会ったときのことを思い出しながら——
彼と同じように、青い服の老人に声をかけた。
「ああ、君か。……わしはな、このノートに書かれていることを読んで、絶望し、悲しんでいるんじゃよ」
老人はノートに目を向けたまま、静かにそう答えた。
私は、ノートに何が書かれているのか気になって、
気づかれないように、そっと覗き込んでみた。
そこには——何も、書かれていなかった。
「お爺さん、ノートには何も書いて——」
そこまで口にして、私ははっと息を呑んだ。
……今、この老人は、たしかに言った。
「ああ、君か」と。
——私のことを、知っているの?
「何も書いていないように見えるのかい?」
そう言うと、老人は少し黙り込み、静かに首を振った。
「……まあ、そうか。そうかもしれないね。君には——知る必要がないのかもしれない」
再び、老人は悲しげにうつむく。
その姿を見ていたら、なぜだか私も、胸の奥が重くなってきた。
私の中の青色は、より深く、冷たく——影のように落ちていく。
「ねえ、お爺さん。あなたは、私のことを知っているの?」
そう尋ねると、老人はノートをなぞっていた指を止め、
ゆっくりと顔を上げて、私を見つめた。
「ああ、知っているとも。君のことも知っているし——そこの、緑の彼のこともね」
老人は、私の隣に立っている緑の服の彼へと視線を移し、ひとつ——深く、息を吐いた。
「……わしは、何でも知っているんじゃよ。知れば知るほど、絶望し、悲しくなる。——君も、そこの彼のことをもっと知れば……きっと、同じように感じるはずじゃ」
老人の視線の先で、彼は変わらず、あの笑顔を浮かべて立っている。
あれ? でも……なんだろう?
彼って、こんな顔だったっけ?
おかしいな——
少しだけ、彼の笑顔に青が混じって見えた気がした。
「お爺さん、この人は、これから僕と一緒に旅をするんだよ。世界は、こんなにも輝いていて素晴らしいのに——悲しい色を落とさないでおくれ」
そう言う彼の顔を、もう一度よく見てみれば——
……なんだ、さっきと変わらない。
彼の笑顔は、やっぱり優しくて、あたたかいままだった。
私の中に、緑が戻ってくる。
「さあ、もう——このお爺さんに関わるのはやめよう。せっかくの旅が、台無しになってしまう」
変わらぬ笑顔のまま、彼は私の手を引く。
私たちは、その老人のもとを静かに離れた。
「ページをめくれば、物語は進む。けれど——知ってしまった物語は、もうなかったことにはできないんだよ」
私の背中に、老人の呟きがそっと滲む。
……何を言っているんだろう?
あのノートには、何も書かれていなかったのに。
私には、老人の言っていることがよく分からなかった。
けれど——
私の手を引く彼の力が、少しだけ強くなったように感じた。
老人の姿が見えなくなった頃、彼が唐突に口を開いた。
「だから言っただろう? ああいうのには関わらないほうがいいって」
私は——彼のようになりたかっただけなのに。
もしかして、私は彼を失望させてしまったのかもしれない。
せっかく何もない私に、世界を見せてくれると言ってくれたのに。
……私が台無しにしてしまうところだった。
「ごめんなさい。私のせいで、あなたをがっかりさせてしまった……」
私の中に、絶望と悲しみの青が広がる。
「おっと、そんな顔をしないでおくれ。僕は別に、君を責めているんじゃないんだ。ただ——これからは、僕の言うことを聞いてほしい」
彼は、優しく微笑んだ。
私の中の青が、緑に包まれていく。
「ありがとう。これからは、そうするね」
私も笑顔で答えると、彼はひとつ、静かに頷いた。
そこからの旅は、とても楽しく、平穏だった。
彼は私に歌を教えてくれ、私たちはそれを口ずさみながら歩いた。
彼の言う通り、世界は広くて、輝いていて——
出会う人々もあたたかく、みな、笑顔に満ちていた。
素敵な旅が続き、私の中にあった青は、すっかり薄まっていた。
——そして。
唐突に赤が現れた。
赤い服を着たその男は、ニタニタと笑いながら、私たちを——交互に、じろじろと睨みつけた。
「よう。ずいぶん楽しそうに歩いてるじゃねぇか。……俺も混ぜてくれよ」
私の中の緑に、どろりと赤が入り込んでくる。
「あなたは、誰ですか? 一緒に旅をしたいの?」
そう尋ねかけた私を、片手でそっと制して——
緑の彼が口を開いた。
「あの時、言っただろう? こういう手合いには、関わらないほうがいい。……無視して行こう」
彼は、いつものように笑顔で私の手を引き、赤の男を避けて歩き出そうとした。
そのときだった。
男が——彼の前に、足を突き出す。
次の瞬間、彼は勢いよく倒れ込んだ。
手を引かれたままだった私も、そのまま彼の横に転がってしまう。
「おいおい、無視するなんて、つれねぇなあ」
男はニタニタと笑いながら、私たちの方へ歩み寄ってくる。
「……俺はただ、話がしたいだけだぜ?」
その顔を見ていたら——
薄まっていた青が、ひょっこりと顔を出す。
私は一瞬、言葉を詰まらせた。
けれど、なぜか。
胸の奥から、ふつふつと赤い何かが込み上げてきた。
私の中で、緑と青と赤が、ぐるぐると混じり合う。
「……あなたは、何なんですか?私たちは何もしていないのに——なぜ、こんな嫌がらせをするの?」
私の言葉を聞いた男は、呆れたように首を振る。
そしてすぐに、隣の彼を睨みつけた。
「……あんた俺のこと忘れたわけじゃねぇだろ?」
「……?」
この男と、彼は知り合いなのだろうか?
私は思わず、彼の方を見る。
彼は——変わらぬ笑顔のまま、ゆっくりと俯いていた。
……でも、何かが違う。
じっと、その顔を見つめてみる。
彼の目の奥に——鈍く光る赤が見えたような気がした。
「黙り込んでても仕方ねぇ。……心当たりはあるはずだぜ? そうだろ?」
男の目が一層鋭くなる。
「どういうことなの? あなた、この男を知っているの?」
私も、思わず彼に詰め寄った。
彼は——大きく溜息を吐いて、ようやく口を開く。
「……これは、僕とこの男の問題だ。君は心配しなくて大丈夫だよ」
そう言って、いつもの笑顔を向けてくる。
私の中に緑が広がる。
けれど——なぜだろう。
私の色は、もう緑には戻らない。
「この男と、少し話をしてくる。君は、ここで待っていてくれ」
そう言い残し、彼と赤の男は——
そのまま、丘の向こうへと消えていった。
一人、取り残された私は——
自分の中で、ぐちゃぐちゃに混じり合った黒い色に押しつぶされそうになっていた。
彼に拒絶されたような気がして、悲しい。
これまで一緒に旅をしてきたのに——
事情を話してくれないなんて、腹立たしい。
でも、私が見てきた彼は——
優しくて、あたたかくて……
緑の彼だけを知っていれば、こんな気持ちにはならなかったのだろうか?
そんなことを考えながら、しばらく待っていると——
丘の向こうから、彼が戻ってくるのが見えた。
あの男は、一緒にいない。
話がついたのだろうか?
あの男は——どこかへ帰ったの?
私のもとへ戻ってきた彼は、いつものように笑顔で微笑みかけた。
「お待たせ。……きちんと話したら、分かってくれたよ」
「……あの男は、帰ったの?」
「ああ。あの男の家は、ずっと遠くにあるからね。話が落ち着いたら、急いで帰っていったよ」
そうか、それなら良かった。
でも——私の中の黒色は、まだ消えていない。
「私には、関係のない話だっていうのは分かってる。けれど……ここまで一緒に旅してきたんだもの。ちゃんと、あなたのことを知りたい」
思い切って、そう伝えてみる。
彼は少しの間、何かを考えるように黙ったあと、
やがて——ゆっくりと、笑顔で頷いた。
「……そうだね。確かに、君には話しておくべきなのかもしれない」
そう言うと、彼は私の隣に腰を下ろし、語り始めた。
「あの男とは、旅を始めたばかりの頃に出会ったんだ。彼の住んでいた村は、とても貧しくてね……特にその頃は、農作物の不作が続いていて、一層食べ物に困っていた」
静かに語る彼の目に、ふと——青が滲んだような気がした。
「彼らは散々話し合って、ついに“口減し”をすることに決めたんだ」
「……口減し?」
「うん。村にいる老人や子供の数を減らして、食糧難を乗り切ろうとしたんだね」
「そんな……酷い」
「ああ、僕もそう思った。だから——こっそり、彼らを逃したのさ」
なるほど。
なら、どうして——あの男は彼を追ってきたのだろう?
彼は、村人を助けたのではなかったの?
「ところが——」
彼は淡々と続けた。
「彼は、僕が村人たちを殺したんじゃないかと誤解してしまったようでね。……きちんと説明しなかった僕も悪かった。でも、あのときは——彼らを助けることで頭がいっぱいだったから……」
そこまで話すと、彼は肩をすくめて、私の顔を見つめた。
「……どうだろう? 分かってもらえたかな?」
そうして微笑む彼の顔は——まごうことなき緑だった。
その笑顔を見た瞬間、私の中に光が差し込む。
ぐちゃぐちゃだった黒は、ゆっくりと——透き通る白に変わっていく。
そうか……
彼の善意が、誤解されていただけだったんだ。
彼は——やっぱり、優しくて、あたたかい。
なぜだか、目からぽろりと涙がこぼれた。
「……良かった」
「おいおい、泣かないでくれよ。……なんだか心配をさせてしまったようで、申し訳なかったね」
「ううん、大丈夫。ちゃんと話してくれたから、安心したの」
「僕も、話せてなんだか肩の荷が下りたようだよ。……もっと早くに、こうすれば良かった」
そう言って、バツの悪そうに舌を出す彼を見て——
私は、思わず吹き出してしまった。
そのとき、ふと——
彼の肩に赤い斑点が見えた。
前から、こんな模様……あったっけ?
私が気づかなかっただけ、なのかな。
この一件のあとから——
私たちの距離は、いっそう縮まったように思う。
私は、彼を心から信じていた。
彼もまた、きっと私を信じてくれている。
……そう思っていた。
黄色の彼女が、現れるまでは。
「やっと、追いついたわよ」
彼女の手には——大きなナイフが握られていた。
「私の夫を、どうしたの?」
……夫?
彼女は——何を言っているんだろう?
「あなたのご主人なんて、知りません……」
私の言葉を聞いた彼女の瞳が、赤く染まった。
「赤い服を着た男と会ったでしょう?あなた、知っているはずよね?」
その瞬間——
私の中に、するりと黄色が染み渡る。
赤い服の男……
でも、あの男は——家に帰ったって、彼が言っていた。
すれ違いになっただけなんじゃないの?
今頃、家で待っているんじゃないの?
私は、隣の彼に目をやる。
彼は——変わらず、いつもの笑顔を浮かべていた。
「なにか誤解があるようだけれど、彼は家に帰ったよ。あなたが僕を追いかけてる間に、どこかですれ違ったんじゃないのか?」
そうだ。
そうに違いない。
……そうであってほしい。
「そもそも、ご主人が来た理由も——二人の行き違いからだったんでしょう?誤解は解けたんだし、彼を追う理由も、もう無いはずじゃない」
私がそう言った瞬間。
彼女は、それまで押さえ込んでいた感情が——
まるで爆発するように、激昂した。
「誤解!? あなた、何を言ってるの!?」
「突然ふらりと私たちの村にやってきて——その笑顔で取り入って、信用させて……!」
「私の父も母も……娘たちまで!辱めて、皆殺しにしたのを——誤解ですって!?」
私の白が、鮮やかに黄色へと染まっていく。
足元から——黒がじわじわと這い上がってきた。
彼女は、何を言っているの?
……辱め? 皆殺し?
「彼が……そんなことをするはずがないじゃない……あなた、おかしいですよ……」
私は、黒の中にある緑を、必死で探しながら――
掠れた声で、なんとか言葉を搾り出した。
「おかしいのは、あなたよ」
彼女は、少しだけ冷静な声で、私を睨みつける。
「さっきから『彼を』とか『彼が』とか言ってるけど——ここにいるのは、あなたと私だけじゃない」
這い上がってきた黒と黄色が、ゆっくりと混じり合い——
私を、灰色が包み込んでいく。
灰色に染まった私は、いつもの笑顔を浮かべながら、彼女を見据える。
「そうだったね。ここには、僕とあなたしかいない」
彼女の目を真っ直ぐに見つめながら、私は静かに言い放った。
「あの男なら、僕が殺したよ。……何せ、鬱陶しかったものでね。村の口減しに協力してやったんだ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなんて、僕には無いと思うんだけどね」
その言葉に、彼女は真っ赤な雄叫びをあげて、私に向かって飛びかかる。
突き出されたナイフをするりと交わし、私は、隠し持っていた短刀を彼女の腹に深々と突き立てた。
真っ赤に染まった彼女が、灰色の私たちの足元に崩れ落ちる。
「さて、どうする? このまま旅を続けるかい?」
彼が、いつもの笑顔を私に向ける。
その笑顔を見て、私の中は緑で満たされた。
——おわり